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恋愛は人を弱くするのか、それとも横浜にあっさり馴染むのか

横浜という街は残酷だ
キラキラと輝いた夜景を背景にして堂々とデートを楽しむ街を残酷だと思うかどうかは全くの人次第であって、まさかこの街にそんな気持ちを抱くとは思わずに人生を過ごしてきた
ところがどうだろう、今はこの街をひどく残酷で涙の気配を含ませた街だと感じてしまう

街が美しく穏やかで華やかであればあるほど、自分の品行の悪さが際立つ
非現実的でとろりと甘く、息を苦しくさせる香りを一枚の幕でひっそりと覆い身体の中奥深くに飼っている、そしてそれはゆらゆらと揺れて大きくなったり小さくなったりして、息を潜めて生きている
目を閉じて一人の感覚を楽しむと、その物体の、その感覚の正体を大きく感じながら、どうすることもできずそれを抱えて素直に過ごすことの楽しさと苦しさを噛み締める

その日は海辺のレストランの窓際に座り、お互い1杯だけビールを飲んだ
私はなぜかこの男を前にすると食欲が減ってしまうから、3品ほど頼み、それですぐに満足してしまう
普段は食欲旺盛な女がそうなる瞬間をきっとこの男は見抜いていて、微笑んでいる

この男は私たちの過去の話をするのが好きだ
出会い、第一印象、グループで行った日帰り旅行、触れたいという気持ちの芽生え、2人で初めて飲みに行った日、公園で話をした日、ふと手を繋いだ瞬間、そこからの濃くなる一方の日々
楽しそうに語る姿を見てなんとなく嬉しくはなるが、それは私たちに残された未来の期間が、そして選択肢が少ないことを物語っているようにも思う

恋愛は人を弱くするからね、その人のことばかり考えてしまうし、と強気に見えて仕方ない彼は笑っていた
そんな姿を見せるなんて、思っている以上に私に心を許しているのだろうか
後が辛くなるからこうなることを避けてきたのに、と私は苦笑いをするしかない

すぐにその店を出て、山下公園までゆっくりと歩いた

桜が満開の頃の夜の山下公園は、そこを囲う人を桜に奪われたように人が少なく穏やかだった
まだ夏には遠い控えめな暖かさを持って周りの鮮やかな光は際立ち、いつも以上に夜景が踊っている
平熱の高い彼の体温を感じ、すぐそこのデイリーヤマザキで買ったちっとも美味しくないホットコーヒーを舐めるように飲む
ただただ苦い味がついただけの温かいお湯とも形容され得るその飲み物を、一体何のために飲んでいたのかはただ少しでも切なさを、苦しさを、物理的な感覚で和らげたかったのかもしれない

いくつか、本当に寂しさと愛しさを交換しあうような、さりげないキスをした
実はさりげなさは装っているだけで、身体の芯が熱くなるようなものも、きっとお互いに感じていた
少しだけ、相手のくちびるを噛むのが好きだ、今は、今だけはこれは私のものだということを表してやるための小さな意思表示のために
涙が出る前の目や鼻の奥がじんと潤む感覚を味わうが、それが何の涙だか私には分からなくて、そしてまた左に座る彼の目を見て微笑み、キスを重ねた

船が発着する瞬間をと、揺らぐ海面を眺める
どこから来て、どこへ向かって、どのような人が乗って、どのような人が待っていて、それによりどれほどの人間関係が動かされるのか、一つ一つの動いていく人生を想像して楽しむ
もし私が港町に住む少女であれば、たまに来る船乗りに確実に恋をしていたし、会えない時間は空想や回想にふけりどうしようもなく夢を見る女だったことだろう

海辺の建物から「F」というアルファベットが点滅していた
それの意味を彼に尋ねられ、敢えて頭の悪そうな回答をにこにこと投げつけながら、最終的に「入出港自由」を表す文字だということを教えられた
こんな都会の港でどんな船でも出入り自由とは信じがたいけれど、一緒にいる男から色々な事実を教わるのは非常に好ましい状況であるから信じてみることにしたのだ

山下公園は、大好きだった15歳年上の男と来た以来だった
その男は、大道芸人の繰りだす技を雰囲気で味わいながら、次また一緒に来られることがあれば、その時は結婚していられるといいねと言っていた
私はその時もう別の人と結婚間際だったから、微笑んで手をぎゅっと握り返すことしかしなかったように思う
いつだってそんな曖昧なことが多く、きっと多くの人を傷つけて、自分自身も傷つけている

今はまた新しい恋人とそんな公園を歩きながらそんなことを思い出している
そんな思い出を口にしようものなら、この男は一気に機嫌を悪くするだろうから、そんなことは絶対に口には出さないが、横浜という街は色々なことを思い出させる悪い街だ

朝まで一緒に居られることは少し珍しいことだから、遅くまでベッドの上で話していた
恋をしているとその相手を型にはめたくなることはないだろうか
占いの類は信じないが、そういう時にだけ、相手の内面を知りたくて少し読んでしまうくらいの可愛いところがある
そんなことで相手のことを知れることなんてないと頭のどこかでは分かっているのだが、そうすることで何となく満足をしたい、そんな薄っぺらい満足感でも少しは満たされる

こうして、来てほしくはない朝が来て、眩しいくらいの太陽に照らされて、昨日の思い出は夢だったのかと感じながら現実の世界に馴染んでいく

私は、きっとまた少しずつ横浜に思い出を刻む
これからも思い出を増やし苦しんでいくのだろうと思うけれど、そんなものを抱えて生きる自分の人生をどこかで楽しめるようになりたい
そして、私だけではないたくさんの人の幸せも憎しみもおそらくどんな街よりも吸収し、もっと美しく残酷な街でい続けて欲しいと思う

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