私が筆を執った理由
母という存在を失ったのは1995年の今頃だった。
当時2才の私の頭に残る記憶といえば、女性が小脇に抱えたブルーの長財布。ジッパーに付けるにはサイズが大き過ぎる101匹わんちゃんの立体的なキーホルダー。
記憶の女性は誰だったのか。
私は素足で足元が冷たかったこと、見上げた先の女性に安心感を覚えたことだけは記憶している。
それからもうひとつ、断片的に覚えていることがある。
誰かに後ろから抱きかかえられ、腹が苦しかったこと。
そしてまだ上手に箸を使えない私の右手に割り箸を持たせ、大人の大きな手がその上から何かを掴ませようと動く強い力。割り箸が手に喰い込んで痛かったこと。
母は自殺だった。
その事実を知ったのは私が成人を迎えてからのことだ。
それまで何となく誤魔化され、死因どころか正確な日時も知らなかった。父に母の事を尋ねる度に当時の詳細が二転三転する。ある時は交通事故、ある時は病死だった。
子供ながらに独りこの世に残された父に気を使うようになり、いつしか母の事を聞かなくなった。
きっとあの日、2才の私の右手を扱い拾い上げていたモノは“母”だったのだろう。
幼い娘を残された父は当時60歳を目前にしていた。
根っからの九州男児で昔気質。ある程度の炊事など家事はこなせたものの、育児は完全に女に任せていた父が、ある日突然オネショの治らない娘をたった独りで育てていかなければならなくなったのだ。
今も昔も弱音を吐かず泣き言ひとつ口にしない寡黙な父だが、最愛の妻を亡くした悲しみと今後の不安、自らが置かれた状況にどんな気持ちだっただろう。
成人を過ぎ、やっと私も物事を俯瞰して考えられるようになってきた。
といってもあくまで“昔に比べて”の話だ。
母にとって私は可愛くなかったのだ、母は私を愛していなかったのだと悲観的にしか考えられず、何故置いていったのか?一緒に殺してくれれば良かったのに、どうして苦しいばかりのこの世に産み落としたのかとさえ恨んでいた。
今もなお、辛い気持ちに苛まれる事はある。
根っからネガティブな私は、何でもないことであっという間に深い所に沈んでいってしまうし、母の死因を聞いてからというもの四六時中希死念慮が憑いてまわっている。
それでもなんとか、なんとか生きてきた。
学生時代にはいじめを経験し、人間関係の構築で躓いた。勉強も出来なかった。高校を卒業し就職したが、やっとの思いで3年勤務した会社を退職した時には精神科への通院、服薬が欠かせなくなっていた。
そのうち日常でもパニックを起こすようになり引き篭もった。働けなくなり、傷病手当や高額医療費控除など国のお世話になった。その後も仕事を転々とし、沢山のひとに迷惑をかけた。毎日死にたかったが毎日生きていた。なんのために生きているのか分からず毎日毎日泣いていた。
ここまで辛い人生だった。
本当に辛かったのだと、よく頑張って生きていたのだと私自身を認めてあげる為、母の祥月命日である今日筆を執ることにした。
ひとつひとつ、自己満足として自分語りしていこうと思う。
“お母さん”
呼んだこともないけれど、貴女の娘です。
私が生まれた時、どんな気持ちでしたか
私の名前の由来は何ですか
やっと向き合う気持ちになれました
今年の命日は、初めて貴女に花を買ったよ
お母さんの好きな花、好きな色
何も知らなくて花屋さんを困らせたよ
辛いことがとても多い人生だけど
生きてきて良かったと思う日が早く来るといいな
娘より
2020.6.16
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