自分語りに意味はないと思ってたけど、そうでもないみたいなので語っちゃうよ? 絵描き少年〜デザイナー〜現在 はたらくを自由に
自分のツマラナイ人生を人に読ませてどうすんねんって思ってた。だってホントに「で、何なん?」って言われそうな人生だから。
でもこのnoteで、ある人の「人間味をふんだんに盛り込んだ経歴語り」が非常に共感でき、楽しく読めた。
共感できた=自分の人生に近い、だった。ってことは自分の人生も共感できる一定の方々に届けば楽しいものになるのか? そう思って、その希有な一定層に向けて自分語りスターティン。
デザイナーになりたくてデザイン科へ進む
別のnoteで語ったが、小さな頃から絵を描くことが好きで幼少期は「漫画家」になりたかったが、成長と共に現実味のあるデザイナーに夢をシフトした。
デザイナーといえばMacでパパパっとやっちゃうイメージだけど、自分の学生の頃は違う。まだMacなんて普及してなかった。いや、一部の先生は使っていたが授業にはなかった。iMacが出る5年ほど前のこと。
授業といえば「デッサン」なんて超アナログなこともした。今のデザイン専門学校はデッサンなんてするのだろうか。でもこの授業はもともと絵が描きたい自分には好きなものだった。
色彩の授業とかデザイン概論とかデザイン史とか、もう内容も覚えてない授業をいっぱい受けた。でも自分の根っこの部分にはこの時覚えたことがあるに違いない。と信じたい。
デザイン〜版下の会社へ就職 Macのない頃のデザイン
学校を卒業したら、デザイナーのような仕事に就けた。しかし職場ではペーペーの人材を「デザイナー」とは呼んでくれない。「デザイナーになりたい人」なんて皮肉交じりに呼ばれたものだ。もしかしたら今だったらパワハラで訴えられるかも。
学生時代はMacなど使ってない。就職した会社ではMacをちょうど導入したところ、一部の先輩が試験的に使用を開始したという時期だった。
Macのない頃のデザインって? 知らない人にちょっと講座。
印刷物のデザインをする場合、方眼紙に手描きでデザインする。現代のDTPだとデザイナーが作ったデータがそのまま印刷データとして扱われるけど、手描きのデザイン原稿が印刷されるわけない。どうするかと言うと、そのデザインデータを基に版下というものを作る。文字は写植と呼ばれるワープロレベルのパソコンで作られたデータを印画紙に出力して、その文字を台紙の上に配置する。イラストなんかも印画紙に焼いて配置。紙だから糊(ペーパーボンド)で貼るやりかた。
もし修正なんて発生した場合、もう一度写植を出力して貼り直す。でも「一文字詰める」くらいのものなら、切り貼りで修正してしまう。この技術が高ければ、写植の出し直しを避けられ、切り貼りだけで済まして時短ができる。新人はだいたい版下制作に駆り出され、この技術を身につける。
デザインは手描きだから、今のデザインでは当たり前な「ドロップシャドウ」「外側光彩」なんかは難しい。ぼかしなんかは使えないと思った方がいい。ロゴ作るときなどは、もともとのフォントで出した文字をコピー機でコピーする時に光が走っていくタイミングで動かして、巧みに形状を変化させるなんてテクニックもあった。
この頃に担当していた仕事に、ある食品販売会社の小冊子があった。この仕事でイラストを描くことがあり、食品をいっぱい描いた。
そして仕事を覚えていくと、自分も「Mac隊」に入りたいと思うようになる。やはりその頃の最先端だったMacでのデザイン業務をやりたいと思うのは当然の衝動だっと思う。
やりたいことができない! だからここにいられません!
若かった。20代前半は社会には出ているが子供のような感覚が残っている。良い意味でも悪い意味でも、ワガママだ。
そんなワガママの子供が「Mac隊」に入りたいと思った。まだまだヒヨッコでしかない新人、ようやく1年程度の修行を済ませた頃。入隊への直談判をした。
結果、却下された。
自分は最新のデザイン業務をするために入社したんだ、と入社当時は考えたこともないくせに言い切った。しかし、聞き入れられなかったワガママな子供は、会社を飛び出した。だったらここにはいられない! 今思うとなんて短絡的なんだとは思うが、この行動が今を作っている部分もあるかもしれない。
退社し、アルバイトをはじめた。親や周りからは「馬鹿」と言われたように記憶している。
独学で始めるDTP デザイナーになるための生活がスタートした
会社を辞めた後はアルバイトをした。そして独学でDTPを学ぼうと思った。しかしパソコンがないので、スタートがままならない。そんなワガママ子供に「馬鹿」と言ったはずの母がパソコンを買い与えた。これがなければ確実に今の自分はないが、未だに礼は言えてない。母は昨年亡くなった。
ともあれ、パソコンをゲットした自分は独学を猛スピードで続けた。バイトをしながら。
独学で学んだことを発揮する場をみつけた
バイトは、牛乳配達の小さな店舗。700件ほどの配達先を持っていて、毎日配達している。その700件の顧客に対して牛乳と一緒にその他の商材を紹介して、別の注文を受け、発注があれば牛乳と一緒に様々な商品を届ける。
当時1本90円の牛乳は、フロントエンドといったところ。実際は別の発注を受けることを目的としている。土用の丑では牛乳と一緒にうなぎを届けたりする。改めて思うと上手な商売だ。インターネットの普及していない時代のローカルで700件の顧客を持っているのはとてもすごい。社長、今頃どうしているかな。
この牛乳の顧客に対してチラシで営業をかけることが通常業務だった。ということはチラシを作成しなければいけない。ねえ社長、ここにチラシ作れる人間おりますよってアピールしてみた。
当時社長は35歳くらいだった。10数コ上のお兄さんって感じだった。とても可愛がってくれてたので、自分の「チラシつくれるアピール」には「おお、やってみろ」と二つ返事でやらせてくれた。
独学は良い(?)友達がいて、アドビイラストレーターを使える環境になった。その甲斐あって、チラシをつくれる程度のスキルはできてた。
チラシのデザインは経験している。イラレスキルは得た。もうやるだけのところ、チラシを作る機会に巡り会う。縁や運はすごいのかもしれない、振り返って改めて感じる。
取り扱い商品を載せたカタログ風のチラシを定期的に作っては配布して、注文が受けられるようになった。店舗側も気軽に作れるので、細かく利用して効果が出た。これが自分が初めてDTPをした経験だったが、印刷知識がなく、プリンター出力したものを付き合いのあった印刷会社で色上質紙にコピーするというタイプのもの。版下で学んだトンボやヌリタシなどの知識は使う必要はこの時はなかった。
向上心が目覚めてしまう! パッケージデザイナーになる!
配達をしながら、業務の10%程度をデザインすることできるようになったバイトだったが、経験を重ねて「次のステップ」へ行きたくなった。就活をした。
就活苦労話はいずれするとして、これも運良く「食品メーカー」にパッケージのデザインをする職として入社できることになった。これもまだDTPが黎明期だったことが作用したように思う。その会社はちょうど自社でそういったセクションの人材が欲しいと思っていたが、まだそういう人材は転がっていない。お互い「よく見つけた」という状態であったことから、入社できた。
ここではとても成長できた。何がいいって「印刷する場合は発注する側」であったことから、最終段階でこちらが客になる。独学で学んできて「知らないこと」が虫食い的に歯抜けになっていた。そこを恥を忍んで聞くことにハードルがなかったからだ。社内で初めての職だったことから、この業務については先輩がいない。社外に聞くのは、先輩に聞くより100倍気が楽だった。どんどんコミュニケーションをとって成長した。
この会社の商品は「たれ」「ソース」「ドレッシング」などの液体調味料系とスーパーで売られている「惣菜」「レトルト食品」など。
とある大手スーパーのプライベートブランドの「焼肉のたれ」のデザインを手がけて有頂天になった。その後、大手焼肉チェーンとのコラボ「焼肉のたれ」も手がけた。とある地方都市だったが、その地区ではそれなりに立ち位置を持っていたその食品メーカーは、デザイナーとしての醍醐味をたくさん味わわせてくれた。
小袋、レトルト袋、ペットボトル、化粧箱などなど様々な形態があり素材があり、経験も多く積めた。かけがいのないものだった。
しかしワガママな子供がまたしても現れる。もっとスキルを上げたいと。
スキルアップのための修行に出た
DTP黎明期に縁があって食品メーカーに勤めた。ものすごい運だった。しかし当時の自分はそんな運を感じていない。むしろ不運だと思っていたかもしれない。
自社でデザインの人材を増員したくて自分を採用した会社。しかし、その部門を拡大するような構想はない。業務用商品が会社全体売上の8割くらいだったことから、一般消費者向けのパッケージが必要な商品をそんなにバンバン発売していくことはない。自分ひとりで十分だった。
そこで思うことは「切磋琢磨する仲間が欲しい」だ。今思えば、そんなもんは社内に設けなくてもどうにかするアイディアはあるだろうに、と思う。インターネットも普及が進んできたし、もう少し頭をひねれば良かった。
しかし、ワガママな子供は思ってしまったら行動せねば止まらない。印刷会社の制作部門でデザイン業務をしたい、そう思った。
印刷会社の制作部門はなかなかの激務だ。それは最初の就職先の会社でも同じように電車で帰れない日があったので、知っている。そこに身を置くことが修行だと信じた。そして食品メーカーを辞めた。
再就職先は印刷会社。とある世界的企業のグループ企業だった。
それなりに経験を積んだと思っていたので「なんでもできますよ」って言っていた。しかしそこは印刷をする会社、幅が広い。知らないことばかりだったが、優しい人たちに囲まれていたので頑張ってどうにかなった。
幅が広いので、デザインなんかする必要のない仕事もいっぱいあったが、パッケージデザインの経験からデザインについては多く担当した。
書籍デザインが多い会社でもあった。親会社が大手メーカーだったので、カタログなんかが毎年新刊が出る。バイクメーカーのカタログもあって、これがこの会社で一番の激務だった。電車があるうちに帰りたくて、各バイクごとのページをデザインしていくのだが「ああ帰れる」と思った23時過ぎにメーカーの営業さんがやってきてドッサリと原稿を置いていく。「朝取りに来ます」と。だからそのまま朝を迎える。
大正琴協会の機関誌、オカリナ協会の機関誌なんて面白いものもあった。合併直後新しい市の広報誌も担当した。仕事はみんな面白かった。担当したものはひとりでやりきるスタイルの会社で、協力体制がないので自分の裁量でやれる。イラスト描きたくなったら自分で描いたりできた。
修行に悲鳴をあげたのが体だった
ここでも物凄く成長できた。しかし、体から悲鳴が聞こえた。
全然楽しく毎日を過ごしていたが、時間的激務だった。でも全員が同じように仕事しているので、思考停止してそこに目を向けない。
徐々に体調は崩れてきた。しかし「しんどい」程度では止まらない。仕事は強制スクロールでやってくる、精神的にストレスはない。なのでこれは続く、続く。
ある時、食事の後に胃のあたりに激痛が走った。しばらく続くが我慢していると治まった。何日かそういう経験をしてきたが、激痛ぶりが増してうずくまってしまうほどになった。ようやく病院に行った。
病院に行って胃カメラを初体験した。検査結果は「十二指腸潰瘍」だった。
「え?」と。ストレスすごい人がなるやつちゃうのかと思い、好きな仕事をしている陰に隠れたストレスに気づいた。もちろん大した自覚はないのだけど、無自覚なストレスが凄いことになっているんだろうと、そう判断した。
実は十二指腸潰瘍直前に結婚していた自分は、家庭に関わる観点からも時間的激務を問題視していたこともあって、この好きな仕事を手放すことにした。
修行の結果、色々できるようになってるぞ俺
印刷会社での楽しい仕事を手放し、時間的激務とさよならした。では次はどんな職場を選んだのか。
食品メーカーに勤めた経験から「業界外のデザイン業務」がいいぞと思っていた。業界とは印刷・デザインの業界。この業界は時間的激務が当たり前、「国内トップ広告代理店の新人女性過労死」より以前の時代、ブラックは普通だった。だから選ぶのは業界外。
そんな中みつけたのが「人材派遣会社」。いや派遣社員として働くのではなく、当時1000人以上の派遣社員を擁していた会社のホールディング企業でグループ全体の広報的な部門でクリエイティブ職を募集していた。これも運良く勤めることができた。
この会社はとても面白かった。一代で大きくした会長がアグレッシブで色んなことにチャレンジする。その中にSNSの運営があった。確か1,000万円以上の投資をしてサイトを構築、入社後運営の準備に携わった。サイトが立ち上がり、地元テレビ局にコラボ番組が深夜にできた。全国区の芸人さんたちが出てくれた。
このSNSでアイドルグループを結成した。募集してオーディションして、初期は5人組だった。このサイトはメイン担当ではないのだが、人選にもちょっと口出しした。楽しかった。
アイドルが誕生したことで、番組が芸人さんたちではなくこの子たちが出演するものに変わった。様々なことに挑戦するにあたりスポーツ選手やその道のプロが出てくれた。会社にラモス瑠偉がきてみんなで記念撮影した。
そのSNSで企画をするようになった。ファション系のページを設けたり、フットサル大会を催したりと、やったことないことをやった。
twitter、Facebook、YouTube、mixiなどの他SNSも活用したし、マーケティングもした。この時の経験は今も使えてる。(mixi以外…)
でも自分のメイン業務は、グループ企業全体の印刷物の制作だったので、幅広い仕事があった。仕事そのものは毎度のことで楽しかった。過去で得た知識や技術を如何なく発揮した。
さらに部内にはWEBデザイナーがいた。少数精鋭だったので、その彼がいない時に多少なりとWEBの知識が必要だった。興味があった自分はHTMLとCSSを触れる程度にはなった。またSNS運営でもHTMLを使用するエディタを利用することもあって、業務の中にWEB構築が若干含まれるようになった。
自分には知識や技術がある。それを発揮している。そう自負していたことから、またまたワガママな子供が現れる。
もう新卒の人材ではない。知識や経験を得た上でここにきている。入社後数年、一度も昇給はなかった。そしてこの会社はこの時、全社員に昇給のない会社だった。
今思うと色々な考えが沸き起こるが、その時はそれで仕事を手放した。
ステップアップしたくて次のステージへ
次のステージももちろん「業界外」から。今度は商社のホールディング企業。前ステージと同じようにグループ企業全体の印刷物を担当する。さらにグループ企業全てのコーポレートサイトを担当した。もともとあったサイトの運営もあり、新たに構築するサイトもあった。
さらにECサイトの展開が企画としてあがった。しかし「取り扱い商品があるわけでもない出発地点」からのECサイト企画。ちょっとズレた企画だけど、そこは「雇われてる会社員だから」といったところでどうにかした。自分で商品企画をして、社内の環境で生産して販売することになった。
このことから「商品企画」と「ECサイト運営」を経験する。
商品ができたことから、EC以外でも販売が可能だった。商品が「作品作りのできるキット」というものだったので、クリエイターズマーケットに出品した。だがこれは場違いで、全然ダメだった。
年配の方のレクリエーションとして活用してもらった。自分が講師としてレクチャーする立場で、楽しんでもらう場を設けた。シリーズ化して、先生と呼ばれるようになった。
商品がテレビ番組で紹介されて、小さなバブルが起きた。ECサイトでもたくさん売れ、生産が大変だった。
WEB構築でも仕事が増え、HTMLとCSSしか使えなかったが必要に駆られてJava/Javascript/PHP/MySQLなんかを触った。経験が増えた。
ECサイトもカートを実装して「自社サイト」からのスタートだったが、ヤフーショッピングや楽天の「ショッピングモール」でも出店した。両社のシステムの違いも知ったし、使い勝手の良し悪しも経験した。送料の問題でニュースにもなっているが、楽天のやり方は出店企業にはついて行き難いものが当時からあった。これらを始めたい人にアドバイスできる程度にはなった。
新しい商品も企画した。ご当地アイドルのグッズを作った。「どんなアイドル」にも一定数のファンが必ずいることに目をつけて、これから頑張っていきたいグループに対して「一緒に頑張りましょう」とお互いの提供できるものを無償にしてレバレッジだけで利益を得る企画をした。
例によって仕事は面白かった。しかしそれを邪魔する人間がいた。
一方的に主観でモノを言うのは好きではないので控えるが、社長に「君が受けているのはパワハラだ、勇気を出して言ってくれてありがとう」と言われた事案が起因で、その場を離れた。
そしてこんな自分が生まれた
そしてようやく現代の話。ここまで根気よく読んでくれた方がいるかは分かりませんが、お礼が言いたい。
読んでくれて、ありがとうございます。
そして今はどうなっているか。それを話すのは宣伝になるので、もっときちんとやりたい。だから別で話たいので、インデックス的なことだけ。
これまでに幅の広い経験をさせてもらった。ひとつひとつ、それらの仕事のスペシャリストの方々から言わせればとても浅い経験かもしれない。そう、自分はスペシャリストではない。DTPについては20年くらいのキャリアがあるし、印刷会社で制作部門にいたことから当時はスペシャリストだったが、時代が進んだことから変わってしまったものもあると思う。それ以外はツマんだ程度の経験なのかもしれない。
でも自分のスキを求め続けた経歴。その上で始めたことがある。
・YouTubeチャンネル運営
私の街の看板娘ver.一宮市
みんなのチャンネル
・デザイン制作サービス
・動画制作サービス
・クリエイティブ教室・訪問学習
・大人のぬり絵サークル
・インフルエンサー
正直まだどれも大成していない。始めたばかりで、提供はスタートしていない。インフルエンサーなんてなりたいと思ってすぐになれるものでもないし、フォロワーさんはまだtwitterで2,500人くらい。まだまだではあるが、2,500名の方には感謝しかない。
この自分語りの続きができるよう、ここから先も楽しい人生を歩んでいきたい。
ひとつひとつの紹介は別のnoteでするかもしれませんが、ここでは控えておきます。ご興味のある方はご連絡いただくかFacebookページなどご覧ください。
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