【SNS】つまらないと感じるのには自分が原因なのかも。
「繋がり」と言う言葉には、前向きに感じる響きの良さがあるけど。自分が介入していない、他者と他者の繋がりには、あまり感動すら感じないような気がした。共感という感情があっても、全ての他人の感情に対して共感なんてしない。
全ての繋がりについて、平等的な価値なんてないのだろう。自分の気持ちが上がりそうな可能性の繋がりにだけ価値を感じてしまうもので。
何処かの誰かが無限に投稿して流れている。その投稿内容を見て思うけど。投稿している側の気持ちと、それを見ている自分の感情の動き方には大きなズレがある。見せたい側と、暇つぶしに見ているぐらい立場の違いがあって、温度感がまるで違う。
承認欲求という言葉があるほど。自分を軸に世の中の見方、感じ方は変わってくるだろうから仕方がない。
自分の価値観軸とのズレが生じている分だけ、
他人に対しては共感できたり出来なかったりする。
例えば。誰かが何処どこの居酒屋へ飲みに出掛けている投稿。誰かが仕事で一喜一憂しているような投稿。何を伝えたいかも分からないような長文コメント。そうした投稿が、本当に自分の欲しくてたまらないほどの情報価値が含まれている、なんてことはないと分かっている。
SNSで表現している、ある人の人生のワンシーンと同じように。人生のワンシーンを表現したエンタメを見ている時との違には、感情移入する質の違いがあると思うけど。その違いにも、結局自分を楽しませてくれるか、他人が勝手に楽しんでいるかの違いがあって、やっぱり自分は含まれているものなのだろうと思う。
投稿している他人の、思惑みたいなもの、バックストーリーと心理みたいなものが、自分の求めているシーンとは異なっていたら何も思えない。他人の投稿する内容なんて、他人が見せたいシーンだけを切り取って投稿している要素が強かったりする。
しかし別に自分はSNSが嫌いなわけではない。連絡手段としては優秀であるから、何処の誰に連絡を取るか、自分の都合のいいように使用して、そういうものとして扱えば良いツールであるし。消すような選択を取るのは、わざわざ世の中と逆行するようにしているようで、それはそれで面白みがないと思える。
SNSを始めたキッカケや理由なんて何一つ覚えてないけど、"周りがやっていたから"というのが一番あり得る可能性だっただろうな。
誰もやっていないアプリに永遠とつぶやいていたら、そいつが怖いけど。周りがやっていたからこそ、始めた頃の自分も、皆んなに自己開示をしてみたかった気持ちがあったかもしれない。
でも思い返しても、非常にくだらない日々の投稿だったけど。そんなにくだらない繰り返しを、呆れることもなく続けられたのは。きっと身近にあった自分の報告を誰かにしたい気持ちが強くあり。他人を見て、他人に見られて、そうやってお互いの満足感でも補えていたのだと思う。
自分のSNS全盛期とくらべて「つまらない」と感じ始めたのは。こんな風にして、斜めに構えて、自己開示する自分と、それを見た他人の感じ方にまで意識し始めたからだと思う。
その瞬間を「楽しい」と思わせてくれる要素がなければ時間を割こうとは思えなくなってくるのが、当たり前のように。
「楽しんでます」と周知することで、
純粋に楽しくなれなれる感情を失ったのだと思う。
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