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木蓮の涙

平成24年からの3年間は本当につらかったです。
もちろん、リストラに遭い、転職後間もなく病を得てしまって闘病することになった相方をそばで見ていた3年間もつらいものがありました。
でも、相方は生きていたので、あたしはひとりではありませんでした。
生きてさえいてくれれば、あたしはつらくてもがんばれました。

毎日毎日、朝目が覚めると(ああ、また、この1日を生きねばならない)と重い泥がまとわりついたような体をベッドから引きずり出していました。
相方が亡くなってから半年くらいはとても忙しかったです。
書類の各種手続きはもちろん、娘の大学受験、自分自身の職探し、そして引っ越しまでしなくてはならなかったから。
父親が50代で亡くなるという非常事態にもかかわらず、娘は淡々と受験勉強に励み、模試を受け、塾に通い、センター試験を受け、志望校に合格しました。

あたし自身も当時は自治体のパート職員だったのですが契約期間の上限があるため、より長く働ける仕事を探しました。
英会話教室の募集を見つけられたので、そちらに移ることにしました。
それまで住んでいた家にはあたしの収入では住み続けられそうもなかったので、より安い物件に転居しなければなりませんでした。
持ち家のマンションはあったのですが、人に借りてもらっていたし、末っ子がまだ中学2年生で転校したくないと言ったので、マンションの賃料で賄える同じ学校に通える距離にある物件を借りなければなりませんでした。
実は持ち家のマンションは動物が飼えないのです。
(犬を手放さなければならないのだろうか)と、あたしは悩みました。
絶対に最後まで面倒を見るつもりで譲り受けた犬は当時9歳。
近所に友人も親戚もおらず、これから老犬となっていく犬をもらい受けてくれる人を見つけることは簡単そうではありません。
追い詰められていたあたしを救ってくれたのは大阪の友人たちの「いつでも引き取ってあげるから、あきらめずにペットOKの物件を探してごらんよ、きっとあるから。」という言葉でした。
なんとか条件の合う物件を見つけた時はあきらめなくてよかったと心から友人たちに感謝したものです。
犬はずっとあたしたちに寄り添ってくれました。
元々転校ばかりで友達ができにくい娘のために譲り受けたのですが、物言わぬこの優しい生き物はみんなを慰めてくれる素晴らしい存在です。
特に5歳の頃から一緒にいる末っ子からこの子を引き離すことはしたくなかったのです。
転校を繰り返し、父を失い、いろんなものを失ってきた末っ子からこれ以上奪いたくない。
あたしが物損事故を起こして車を廃車したときも「じゃあもうあの車は帰ってこないんだ。」と末っ子がぽつんとつぶやいたときにあたしは(そうだ、あの車はこの子が2歳の時から乗っている、この子にとってうちの車と言えばあの車で、あれに乗って父親と一緒にいろんなところに行った思い出の車だったんだ、それなのにあたしは、取り返しのつかないことをしてしまったんだ)と心の底から悔やみました。
自分を責めてばかりのあのころのあたしは、こどもの前ではもう泣くまい、めそめそするまい、失敗するまいと決意しました。
ですからこどもが出かけていて犬しかいないときに、彼女の優しい瞳を見つめながら声を出してウオンウオン泣いていました。


平成24年の春、新しい家に引っ越し、新しい仕事に就き、相方のいない新しい生活が始まりました。
その夏にはしなければならない仕事が待っていました。
初盆となる8月に相方のお骨を広島へ連れ帰り、納骨することです。
あたしはどうしてもお骨を抱えて新幹線や飛行機に乗る気になれませんでした。
「車買おうよ。通学にも使いたいし。」
おにいちゃんの一言で決心がつき、中古の軽自動車を買い、広島まで車で行くことにしました。
8月の夏休み、お兄ちゃんと交代しながら12時間、相方を故郷に連れて帰りました。
犬は車酔いするので動物病院に預かってもらいましたが、狭い後部座席には娘と末っ子がお骨と遺影を抱いて4人で長旅をしました。
実は正直なところお骨や遺影を家に置いておくのはつらかったです。
人によると「いつまでもそばに置いておきたい」と思う人もいるみたいですが、あたしたちには見るたびに相方の死という現実を突き付けてくるお骨や遺影は直視できないものでした。
無事実家の仏壇の上に遺影を飾り、瀬戸内海を望む丘の上のお墓に遺骨を納めるとすごく安心しました。
ただその当時、相方の高齢の両親は存命で、大事な長男を見送る細く小さな二人を見るにつけ、逆縁の不幸とはこういうことか、彼らの自慢の息子を守れず、あたしは嫁としてなんと親不孝なことをしてしまったのか、とまた自分を責めました。

帰路は「荷物」は減ったものの、大雨の中のロングドライブとなりました。
途中、鈴鹿のあたりでものすごい豪雨となり、あたしはもう路肩でもいいから止まってやり過ごそうと言ったのですが、その時運転していたおにいちゃんは早く走り抜けようとスピードを出す始末で、恐ろしくて生きた心地がしませんでした。
ただそんななか(ああ、もう、やらなきゃいけないこともやったし、このままこどもたちと一緒にお父ちゃんのところに行けたらどんなにいいだろう)という思いがよぎったのも確かです。
こどもたちのために何が何でも倒れない、死なない、がんばる、と決意してはいたので能動的に死にたい、とはもちろん思ったことはありませんでしたが、前述の車の物損事故だけでなく、道を歩いていてふらふらと車道に出てしまうことなど1度や2度ではなく、あの頃はとにかく死に魅入られていました。
なんとか無事長島SAに到着し、暖かい飲み物を飲んで我に返りました。
運転を交代して走り始めましたが軽自動車での長距離運転はなかなかアホな冒険で、すぐに足が疲れてアクセルを踏み込めなくなりました。
(これであんなにぶっ飛ばせるなんて、おにいちゃんは若いな。)
こどもたちはまだ若く、日本は広く、未来は無限大だ。
そんなことを考えながら、犬が待つ神奈川へと帰っていきました。

それからの2年間は、英会話教室のほかに養護施設のアルバイトやプールの監視、引っ越しの梱包員やスポーツクラブの新規開店入会案内など、いろんなアルバイトを掛け持ちしてとにかく働きました。
娘の大学受験の次は末っ子の高校受験でした。
正直その時点で彼が大学へ進学できるだけの資金を用意してやれるかわわっていませんでした。
相方は2度にわたってリストラされ、最初の退職金はすべてマンション・ローンの繰り上げ返済に使ってしまいました。
2度目の退職金は相方の治療費に使ってしまいました。(保険適用外の遺伝子操作治療にも通っていたのです。)
生命保険も高額なものに入っていなかったので、どんどん生活費に消えていきました。
なのでとにかく高校だけでも志望校にちゃんと合格して、つまずきがないようにしておきたいとかなりあたし自身も入れ込んで協力しました。
電話で合格を告げられた時は受話器を握って大号泣してしまいました。
相方が亡くなって、初めてうれしいと素直に思えた出来事でした。
娘の合格や大学の入学式の時は(あたしだけが娘の晴れ姿を見ることができて相方に申し訳ない)と思ってしまっていたのです。
でも末っ子の時は少ない資金から塾の費用を捻出し、カリキュラムや対策など何度も塾の先生と話し合い、模試や夏期講習にも送迎して、一緒に受験している気分でしたので、中学の進路指導の先生には無理と言われていた志望校に合格したときは本当に嬉しかったのです。

そのころ三者面談で中学校に行ったときに2年生の時の担任の先生にお会いしました。
相方が亡くなった時の末っ子の担任で、クラスメイトとともに葬儀に来てくださった先生です。
「その節はありがとうございました。」
「残念なことでした。」
「葬儀の時はご挨拶もできませんで、すみませんでした。」
「いえ、いえ、お母さん、僕も学生時代に父をがんで亡くしていましてね、葬式の時なんでそんなもんですよ。」
「そうですか。」
「○○(末っ子)くんね、だいぶ最近落ち着いてきましたね。」
「?」
「ほら、お母さん入院なさったじゃないですか、去年の夏。」
そう、あたしはまさに相方が抗がん剤治療で入退院を繰り返していたころ、突然職場で倒れ、胆石の発作で救急搬送されてしまったことがあったのです。
「はい、もう、夫と交代で手術や入院することになるとは思ってなくて焦りました。」
「もう大丈夫なんですか?」
「はい。もう胆石は取れまして、いまのところなにもないんです。」
「ストレスだったんですかねえ. . .でね、その時○○くんが放課後ひとりで教室で泣いていたんですよ。」
「!」
「どうしたの?って聞いたら、お父さんががんで、お母さんも入院した、もう、だめだって。」
あたしは胸がいっぱいになりました。
この話を聞いてあたしはますます絶対に倒れないし、死なないんだと決意を新たにしたものです。

その次の春はおにいちゃんの大学卒業と就職でした。
もともと独立心旺盛で何でも一人で考えて、一人で決めて、一人で実行するタイプの子でした。
なかなか就職が決まらず、バイトばっかりしていて、こちらはやきもきしておりました。
もう年度も終わろうかという時に突然「就職が決まった。会社の近くに住みたいから来月家を出る。」と言ってきました。
小さいころから転居が続いたのはおにいちゃんも同じです。
思い通りにならないことも多く、親の都合で進路を変えてしまったところもあり、年長だったばかりに父の闘病や死亡に当たってはいろいろと負担もかけてしまいました。
頼りにならない母から早く離れたい気持ちもあったのでしょう。
あたしは黙々と彼の引っ越し作業を手伝い、独立の日を迎えました。
「それじゃ。」
「無理せんと。ちゃんと食べるんやで。いつでも帰っておいでね。」
彼を駅に送り、帰りの車をひとり運転しながら声を出して泣きました。
うおおおおおお。うおおおおおお。うおおおおおおううう。
もう帰ってこない、もう、あの日々は帰ってこないのだ。
丸くて柔らかなあの子の頬に頬ずりして抱きしめて転げまわる。
そんな甘く柔らかな日々はもう二度と帰ってこないのだ。

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