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エッセイ集『凹凸コンビ、8年の青春日記』(創作大賞2024エッセイ部門応募作品)


初の声掛けは「お疲れ」

僕が専門学校に入学したのは、今からちょうど10年前、2014年4月のことであった。高校まで自転車通学だったので、電車通学に慣れるのには正直時間がかかった。私鉄と地下鉄の乗り換えで片道1時間40分、自宅から最寄り駅までの移動含めたら約2時間の通学。都会の空気が合わなかったのか、学校に通うまでで相当なエネルギーを使っていた。

高校からの友達が一人もいないことで、「高校に戻りたいな」とホームシックになるときもある。時間割や自習の都合で、朝の9時から夜の9時まで、1日の半分を学校で過ごすことも。当然夕方になると、眠気が襲ってきた。そんな僕の前に、「お疲れ」と声をかける男子学生。「え、誰?」と内心思ったが、「お疲れ」と気づいたら僕は返事を返していた。シナリオライター専攻の僕が、このMのことを知るわけがなかった。何故ならMは映像専攻で、普段の授業で被ることはなく、複数の専攻が必須で受ける合同授業で週に2回会うだけだった。それに、合同授業には、何十人もの学生が同じ教室の中にいるわけだから、当初Mのことは存じ上げなかった。

眼鏡でスポーツ刈りで身長もそれほど高くない僕と違い、Mはコンタクトでメッシュの入った茶髪で身長も大きい。当然横に並べば、明らかに僕は公開処刑の状態である。これが、Mとの最初の出会いになったわけだが、僕はMが今後の学生時代の中で欠かせない存在になるとは思ってもみなかったのである。

呼び捨てになった瞬間

6月に控えた学園祭の準備は、入学して間もない頃から既に始まっていた。学生への一斉メールで『お化け屋敷実行委員会 メンバー募集』という案内が届き、好奇心旺盛だった僕は、メンバー登録をした。それから間もなく、実行委員会が開かれた。何とそこには、Mもいた。学園祭準備でありがちなのが、準備をしていくうちに一体感が生まれて、親交が深まるということ。同級生同士でカップルが誕生するケースもあった。恋愛事情について、僕は全く縁がなかったが、Mとの友好な関係が深まったのは確かであった。

自由席だった合同授業でも、すっかり僕とMは隣の席を取るようになっていた。普段の授業では顔を合わせなくても、昼休みなどで顔を合わせるのは当たり前。お互い自習もよくしていたので、学校で見ない日はないと言っても良いほど。夏休みに入り、学校が主催のバーベキューイベントに参加した頃には、すっかり親友ともいえる状態になっていた。バーベキューの時には、他の友人たちと一緒にペットボトルロケットを作ったり、何故かクセのあるポーズをする『だるまさんがころんだ』をしたり、全力でバカをやるというのを僕たちは体現していた。Mは僕のことを「なあ、K」とニックネームの呼び捨てだったが、僕はいまだに「M君」と呼んでいた。ある日、Mは言った。「呼び捨てで良い。君付けされると、他人行儀みたいだから」。以来僕は、Mのことを「おはよう、M」と呼ぶようになった。

夏休みの自習

シナリオライター専攻の僕は、夏休みの課題というものはなかったが、Mをはじめデッサンの授業を受けている1年生たちは、『手のデッサン100枚』という課題があった。夏休みのある日、パソコンのある教室で、僕が創作用のシナリオを執筆していると、Mから「一緒に自習しよう」とLINEが来た。デッサンルームに行くと、広い部屋にポツンと一人、Mがイーゼルに張り付けた画用紙に向かって、自らの手をデッサンしていた。「一人だと寂しいし、途中で集中力切れそうだから、Kもここで自習しようよ」とMは言うので、僕は学校近くの文具屋で原稿用紙を購入し、再びデッサンルームに戻ってきた。

Mは画用紙に向かってデッサンをし、僕は原稿用紙に向かって原稿を書く。何時間が経っただろうか、校内放送で学校を閉めるアナウンスがあった。夏休みなので17時に学校は閉まってしまうのだ。約3時間、お互い口も聞かずに、それぞれの紙に向かって集中モードだったのだ。「大分進んだ」とM。「こっちも、原稿がスムーズに進んだ」と僕。確かに、お互い紙の束ができあがっていたし、僕もMも右手側面には鉛筆の汚れができあがっていた。

二人だけの空間で自習をしたのは、この日一日だけだったが、今でも鮮明にあの瞬間を覚えている。会話もなく、ただ黙々と作業をしていただけなのに、何故か良い思い出の一つとして脳裏に焼き付いている。何気ないあの時間が、今となっては思い出のアルバムの1ページになっていたのだと気づかされる。

アメリカで食べた『ストロンボリ』

11月初旬。学校の海外研修で僕たちは、1週間アメリカで生活をすることになった。アメリカの日差しは、日本よりも強かった。ショッピングモールのようなところで、みんなでサングラスを購入。この自由時間の陣頭指揮を執るのは、Mだった。その後、集合住宅のようなホテルに到着。4人部屋となっていた部屋に、僕たちはそれぞれ荷物を置く。自分たちの部屋でゆっくりするかと思いきや、僕を始め男子8人、女子3人が集まったのは、Mの部屋。この頃Mは同級生たちの中心人物になっており、僕はそのMの補助的ポジションとなっていた。生徒会や学級委員といった役回りは、高校当時から務めていたが、こういう場でのリーダー的なポジションは自分には向いていない。こういう時は、ナンバー2ぐらいがちょうど良いポジションだと自分でも分かっている。

アメリカの1週間はあっという間だった。ソニーのスタジオやハリウッドに行ったが、中でも印象だったのが、Mともう一人の友人と3人で自由散策の日に行ったショッピングモール。フードコートで食べた『ストロンボリ』の美味しさに、3人ともハマった。『ストロンボリ』とは、チーズや肉類や野菜を包み焼きしたピザのような食べ物で、あれから10年経ったが、未だにフードコートで『ストロンボリ』が販売されているところを見たことが無い。ただ僕がまだ発見できていないのか、そもそも『ストロンボリ』を売っているフードコートがないのか、真相は明らかではない。

サプライズアルバムと雪合戦

クリスマスを1週間前に控えた12月中旬。地元は珍しく大雪になり、電車のダイヤも大幅に乱れた。通常2時間通学にかかっていたこの日に限っては、僕は学校に着くまでに4時間も費やしてしまった。こんな日ぐらい学校をサボれば良いのに、という考えは僕にはなかったし、この日僕は必ず遂行しなければいけないミッションがあったからだ。それは、この日のために極秘で用意した、海外研修のアルバム配布である。アメリカで撮影したそれぞれの写真は、LINEグループのアルバムに共有していたのだが、僕はかねがねアルバム共有しただけでは満足のできないタチであった。もしスマホが壊れたり、データが飛んだら写真は見えなくなってしまう。だから、何かしらの形に残せないかと思っていた。そこで僕は、編集ソフトで写真を加工・編集し、人数分のアルバムを制作。この日は11人がみんな何かしらの授業があり学校に来ているのが分かっていたし、普段授業をサボるようなメンバーではない。それにこの日を逃すと、もう年内に11人が学校に集まる日はないので、どうしても学校に行かなければいけなかった。もはや学校へ行く目的が変わっている。

授業後、雪が積もった屋上にみんなを呼び寄せる。そして僕は、サプライズでアルバムを配布した。飛び跳ねるように喜んでくれたり、ハグをしてくれた子もいた。とにかく嬉しかったし、みんなアルバムを見てテンションが上がっている。その残像が残るように、僕らはそのまま雪合戦に突入。アルバムを抱えながら、容赦なく雪を投げつけ合う。1週間早いが、僕にとっては最高の年末イベントとなった。

空いている時間だからこそ

2年生になると合同授業もなくなり、Mと顔を合わせるのは、昼休みやちょっとした空き時間だけになってしまった。お互い、自主制作や課題制作に追われ、1年生の頃のような生活ではなくなっていたのは明らかであった。それでも、ちょっとした空き時間に一緒にコンビニへ行ったり、学校帰りにご飯に行くなど、Mとの時間は欠かせないようにしていた。

また、2年生になったことで物の見方や考え方にも変化が出たのか、ポートフォリオ(作品集)を作り始めていた。映像専攻をしていることもあり、Mは見せ方としてのビジュアルが上手かった。それに比べ、僕は文章ばかり書いているのでどうまとめて良いのか苦戦していた。試行錯誤を経て、結局僕は脚本集を作ることにし、それぞれ制作に取り掛かる。手掛けた作品やデッサン等、実績を上手くまとめていたMだったが、「説明文が上手く書けねえ」と僕に弱音を吐いたことがあった。Mに頼まれ、僕は説明文の添削を行った。かく言う僕も、「タイトルロゴ、どっちが良いかな」等、自主制作課題の意見をMに求めることもあった。そう、2年生になった僕とMは、より良い作品にするために必要な存在になっていた。授業中に廊下から手招きをされ、何事かと思ったら誕生日プレゼントを持ってきてくれたり、内容は覚えていないがくだらない会話を永遠としたりと、そういった時間も欠かさなかった。

コンビネーションだから、できたこと

僕らが通っていた専門学校では、夏休みになると高校生を対象とした1泊2日のキャンプイベントを毎年開催していた。オープンキャンパスを毎週開催していたのも、うちの学校の特徴であり、僕は学生スタッフとして何度も携わっており、2年連続でこのキャンプスタッフとして参加することに。また、このイベントでは映像班が記録動画を撮影し、2日目のラストには高校生の前で映像の上映会をすることも恒例だった。映像班にとってはハードでありながらもやりがいのある役割だった。この映像班としてMが参加することになった。

イベント当日、僕ら学生スタッフが高校生を迎えるところや、観光バスに乗るところをMたち映像班が撮影をする。そして、僕が乗ったバスが高速道路に入ってしばらくすると、Mから連絡が来た。「今、そっちのバスどの辺走ってる?」とのLINE。映像班は、バスがサービスエリアに到着し、高校生たちが降りてくるところを収めたい。そのために、今どのあたりを走っているのかを、僕に確認したのだ。「今、○○の辺り」「こっち、バスを追い抜いたところ」「もうすぐサービスエリア入る」「こちら準備完了」と、状況を逐一LINEで送り合う。
宿泊先のホテルで、深夜になりながらもパソコンに向かって編集作業をしているMたちは、エナジードリンク片手に何とか乗り切った。2日目のラスト、上映会が行われた。いつ撮影したのか、僕がサービスエリアでおにぎりを食べている映像が、わずか2秒ほどのフラッシュで映ると、場内に笑いが起きた。「あの映像は狙った。ウケて良かった」と後になって、MからLINEが来た。「本当にお疲れ様」と返信をすると、「Kもお疲れ。おかげでいろいろ助かった。ありがとう」と更に返信が来た。我ながら、このコンビネーションだからできたことだと思った。

お泊りとバーベキュー

早いもので、僕らは3年生になっていた。就活も始まり、僕も脚本家としてのデビュー活動のための準備に追われていた。Mと過ごす学校内での時間は以前よりも減った一方、お互いに20歳を迎えて酒を飲むようになった。僕らの通っていた学校は、繁華街の近くにあり、飲食店や居酒屋、バーなどのテナントビルがそこかしこにあった。3年生の夏休み、Mはテレビ局のアルバイトや居酒屋のバイトをしていたようで、「地元遊びに来いよ」と誘われた。僕はMの地元に行き、バイト先の居酒屋で食事をし、そのままMの実家にお泊りをした。2年生の時、一度友人の家に泊まって以来、お泊りをする経験は2度目であった。Mとは、お盆明けに学校の友人や後輩と一緒に行うバーベキュー企画の話を進めようと思っていたので、ちょうど良い機会であった。

お盆明けになり、Mと僕が主導のバーベキュー企画が開催された。河川敷で肉や野菜を焼く一方、全身びしょ濡れになったりと、バーベキューというものを全身全霊で楽しんでいた。数日経つと、あまりの楽しさで相当喉を使ってしまい、声がガーガーになってしまったほどだ。元々インドアであった僕が、専門学校での生活の間でここまでアウトドアになったのは、誰でもない、Mのおかげだと思っている。

いってらっしゃいと、見送られ

3年生の年末、僕は千葉県在住のプロデューサーにお会いする機会を得ることができた。何日も前から、プロデューサーに渡すための資料作りに追われていた。ちょうど、講師の都合で授業が休講になったので、せっかくだからと4日間の関東滞在をしようと思った。ちょうど当時従兄が東京に住んでおり、友人の一人もインターンで神奈川に住んでいたので、宿泊させていただくことにした。4日間分の荷物をスーツケースに入れたまま、僕はいつも通り学校に登校。その日の夜のうちに、夜行バスに乗るためだ。

夜行バスが出発する大きな駅に向かうまで、Mがスーツケースを運んでくれた。いつもは帰る方向が違うため、Mと一緒に帰ることなど無いのだが、この日僕が乗るバス大きな駅は、Mが最寄りに向かう乗り換えのために使っている駅だった。学校から駅までの約30分。12月の冷たい風を受けながら、駅まで歩いていく。やがて駅に着き、「スーツケース運んでくれてありがとう」とお礼を言う。「いってらっしゃい、頑張ってこい」と背中を押され、僕は夜行バスに乗り込んだ。

一本逃すと30分後の電車まで待たなければいけない地元とは違い、3分や5分後に次の電車がやってくる。それにホームの数も10本以上。スーツケース片手にキョロキョロしている絵に描いたような田舎者だったが、僕はプロデューサーとの話し合いの末、脚本の仕事をゲットすることができたのである。

最初で最後の合同制作

「卒業制作に出演してほしい」とMからオファーを受けたのは、僕の関東滞在が決まる少し前のことだった。毎年、年度末に『卒業進級制作展』が行われ、僕もMも1年生と2年生で、それぞれ自分たちの自主制作等を展示してきた。そして今回3年生が、ついにラストの制作展となる。そこでMは、脚本・監督・プロデューサー・撮影・挿絵イラスト・ロゴ制作を担当する、半分ドキュメンタリー要素を入れた短編ドラマを企画し、僕に出演してほしいと言うのだ。「出演するだけなら良いよ」と僕はOKした。

しかし、一点気がかりなことがあった。それは、Mに脚本が書けるのだろうかということ。「全部やる!」と豪語したMだったが、僕の予想は見事的中。数日後の夜、Mから電話がかかってきて、「ごめん、K。やっぱり、脚本書いてください」と泣きついてきた。やはりそう来たか、と僕はMの意向を聞いて、構成を組み立てる。結果、Mが原案担当、僕が脚本担当として制作が進んだ。映像撮影のサポート、イラスト、ロゴは、別の友人や後輩を頼ることになった。でも、こういった一体感あるチーム制作というのが、普段個人作業が多い僕としては新鮮であり、楽しかった。しかもチームのメンバーは、入学当初から気心の知れている顔ぶれ。気兼ねなく、楽しい撮影だった。

在学中の3年間で、Mと一緒に手掛けた作品はこの一つだけになってしまったが、後にも先にも忘れられない作品となった。

今だから聞けること

「じゃあ、またな」と、Mが駅の階段を登っていく。僕ら友人たちは、涙を流しながらそれぞれの電車に乗り込んだ。卒業式の後、3次会まで盛り上がり、朝になっていた。あれだけ楽しかった学生生活が、終わってしまったのだ。僕はフリーの脚本家としての活動を4月からスタートさせ、Mは映像制作会社に就職して地元のテレビ局勤務。それぞれ新しい生活が始まり、Mとは、ゴールデンウイークやお盆などで開催される飲み会で顔を合わす程度になり、毎日のように顔を合わせていた頃とは違い、次第に連絡を取る機会が減っていった。

2019年の秋。専門学校卒業から2年半の歳月が経っていた。Mから、仕事の予定で僕の地元近くの街にいると言うので、久しぶりに会おうと連絡が来た。僕とMが二人で会うのは、卒業進級制作展の数日後に二人でカラオケと食事をして以来だった。近況をお互いに話すうち、僕はずっと気になっていたこと、今だから聞けることをMに尋ねた。「ねえ、あの時、どうして俺に声をかけたの?」と。1年生の春、学校の廊下で「お疲れ」と、何故話したこともない僕に声をかけた、あの時のことである。するとMは答えた。「何となく、声かけやすかったからかな」。僕は思わずキョトンとした。そんな理由で声をかけられていたのかと。でも、縁とは不思議なもので、あの時声をかけてくれなかったら、今頃Mとこんな親友関係を築けなかっただろう。そういえば卒業してからの2年半、僕からMにアクションを起こしたことはなかった。学生時代を振り返っても、いつでも声をかけるのはMからだった。何故もっと、僕から行動を起こさなかったのだろうと後悔している自分がいた。

コロナ禍だからこそのビデオレター

Mから仕事を辞めてフリーになると報告があったのは、それから半年経った頃だった。既にフリーで活動している僕に、いろいろ参考意見を聞きたいと言うのだ。だが、予定を合わせようとした矢先、新型コロナウイルスにより緊急事態宣言が発令された。

予定の延期が決まった数日後、Mのインスタのストーリーを見て、僕は愕然とした。ストーリーには『脳腫瘍でしばらく入院することになりました』と書かれていた。Mは二ヶ月近くの入院生活を余儀なくされた。本来ならば、すぐにでも病院にお見舞いに駆け付けたい。しかし、当時コロナによる医療崩壊が騒がれ、見舞いが禁止されていたため、僕はこの状況になったコロナを憎んだ。それでも、何とかMの力になりたいと思う自分がいた。
 
この頃からリモート会議が顕著になり、遠方の人ともコミュニケーションが取れるようになっていたが、それがヒントとなり、僕は地元に残った友人や就職で遠方に行った友人に手当たり次第に声をかけ、ビデオメッセージデータを送るように依頼をかけた。そして、それを繋いで20分近くの大掛かりなビデオレターが完成した。映像編集なんてしたことがない僕にとって、初めての映像制作。映像専攻をしていたMに、自分で編集した映像を見せるのはちょっと緊張したのだが、Mはすごく喜んでくれた。コロナ禍だからこそ思いついたアイディアで、僕はお見舞い代わりのビデオレター制作を何とか終えることができた。

記憶の欠如

一度は回復したMだったが、半年もしないうちに再発。それでも懸命なリハビリを経て、半身不随ではあるが杖があれば歩ける状態になっていた。手術と抗がん剤治療のため、頭は坊主になっていたが、仕事に対する情熱は消えていない。最初に倒れた時から、2年半近くの歳月が流れたある日、僕はMからの仕事の紹介でMの地元に行くことになった。

車で約2時間、Mの地元に行き仕事をする。せっかく来たのだし、仕事を紹介してくれたお礼も言いたいと、仕事終わりにMの家まで迎えに行った。杖を突きながら、助手席にMが乗る。そういえば、学生時代に二回ほどMの車に乗せてもらったことがあったが、今回は逆である。近くの喫茶店でお茶をして、小一時間してから晩御飯を食べようと回転寿司に行く。「覚えてる?学生時代に回転寿司に行ったこと」と僕が尋ねると、「ああ、そんなようなことあったような」とMは答えた。病気により、Mは部分的に記憶が欠如していたのだ。もしかして、このまま自分と過ごした記憶も忘れてしまうのではないかという不安にも駆られたが、M曰く部分的で全ての記憶を失うわけではないと言う。安堵していた僕だったが、それでも記憶の一部を失っているということは、あの3年間の学生生活の何気ない日常の一部も忘れてしまっているのではと考えると、僕は何ともやり切れない気持ちになった。

食事が終わり、Mを自宅まで届ける。「今日はありがとう。またな」「うん、じゃあね」と別れの言葉を交わし、Mが家の中に入るのを見届けると、僕は車を出発させた。

離れていても

2022年11月15日。Mの地元で食事をしたあの日から、3カ月が経った。夜になり、SNSを開くと、Mの投稿が目に入った。が、それはMの母が投稿したもので、Mが自宅で息を引き取ったという内容だった。僕には、Mが亡くなったという事実を簡単に受け入れることができなかった。

翌日、学生時代にお世話になった講師の先生に、Mの訃報を伝える。学校経由で葬儀の詳細を確認するから、僕にはMの訃報を同級生たちに伝えるようにと指示を受けた。送りたくもない定型文を作り、卒業後にほとんど連絡を取っていなかった友人たちに、Mの訃報をLINEの一斉送信で伝えた。遠方に行った友達は、休みを取ってこっちに来ると言う。出欠の取りまとめや花の手配など、せわしなく追われていた。だが、これが僕にとってMにしてあげられる最後の仕事なのだ。

Mが亡くなった日の晩、僕は原稿用紙に向かってMに向けての手紙をひたすらしたためた。思い出を振り返ると、手が止まらなかった。何枚も手紙の枚数が増えていった。通夜と告別式、両日に参加し、出棺の前にはその手紙を棺に入れた。Mの死に顔は安らかな顔であったが、やはりどこかやりきれなさが残っているようにも思えた。僕だって、もっと一緒にMと作品を作りたかった。ある程度歳を取ったら、ちょっと規模の大きい仕事を一緒にしたいとも考えていた。でも、Mがこの世を去ったことで、もう一緒に何かをすることはできないのだ。僕はとにかく悔しかった。が、誰よりも悔しい思いをしているのは、M自身だろう。

Mが亡くなり、今年の11月で三回忌を迎える。Mと過ごしたのは8年という短い間だったが、僕とMが凹凸コンビの親友であったことに変わりはない。永久に不滅であると信じている。次にMと会うまでには、長い時間がかかるかもしれないが、一緒に作品作りのできる環境を整えて、待っていてほしい。

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