ピカソの『ゲルニカ』についてのお話
おはようございます、すけです。
昨日のブログで、次は「ゲルニカ」の話をしようか、「トレド」に行った話をしようかと迷っていましたが、
タイトルの通り『ゲルニカ』の話をしようかと。
「絵」の解釈は様々です。
人の数だけ、異なる解釈があると思います。
以下は、僕の解釈です。
みなさんの解釈をコメントにて教えていただけると、とても喜んじゃいます。笑
大好きな原田マハさんが、このブログを読んでくれないかな〜なんて思ったりしています。
まあ、そんなことある訳ないか!笑
ではでは、簡単に絵の紹介をしてみますね。
『ゲルニカ(Guernica)』
アーティスト:パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)
制作:1937年4月〜6月(パリ)
展示場所:ソフィア王妃芸術センター(マドリード)
ざっとこんな感じです。
パリで制作されているのに、現在マドリードに展示されているというのが、実は「ゲルニカ」を語る上で欠かせないんですよね。
知っている方も多いと思いますが、
1937年当時、スペインはフランコ将軍率いる反乱軍によって既存の政権が打倒され、ファシズム体制国家になってしまいました。
ピカソはパリに避難し、その後しばらくスペインに戻ることはできなくなってしまいます。
そんな中ナチスドイツによって、スペイン北部・バスク地方にあるゲルニカという街が空爆を受け、壊滅しました。
それを知ったピカソは、怒り悲しみ、反戦・反ファシズムの意を込めて『ゲルニカ』を制作したのです。
ここからは、実際に僕が『ゲルニカ』を見て思ったことを書いていきますね。
まず、めちゃくちゃデカいです。想像の1.5倍ほどデカいです。
最初に目に飛び込んできたのは、左側に描かれている雄牛でした。
真ん中に消された目の跡(意図的に薄く残している?)があり、ずらされた目の位置がより奇妙な、気味の悪い、畏怖を与えるようなあの絵の印象をかなり強めていると感じました。
おそらくですが、この絵のメインは、左下に描かれている亡くなった赤子を抱え泣き叫ぶ女であると僕は考えています。
この絵の下書き、下作りのような絵(すべて1937年)が同美術館に何枚も展示されていたことから、ピカソがこの母親をどう描こうか、1ヶ月と短い制作期間の中でもじっくりと構想を練っていたことが窺えたからです。
そして、自分が最も印象的に感じたのは、ドラ・マール(当時のピカソの愛人)が残したフォトグラフ(ゲルニカの制作過程を写真に写したもの)の2枚目、完成形の『ゲルニカ』では目のような太陽が描かれている場所に、
太陽を握りつぶすような力強く、生々しい(丸みを帯びたリアリティのある)拳が描かれており、フォトグラフの4枚目以降に消されていたことです。
世を照らす太陽すらも自らの意志で握り潰してしまう、それ程の憎しみ、恨み、現実を「拳」で表現したかったのだろうと自分なりに考えてみたのですが、
ピカソは「拳」を消しました。
なぜ拳を消したのか、自分なりに理由を考察をしてみましたが、それは『ゲルニカ』という絵のリアリティを消すためであると解釈しました。
ピカソは様々な作品や下書きにおいて、丸みを帯びた、リアリティのある絵を描くことができることは明らかです。
しかし、敢えて『ゲルニカ』に対象としてのリアリティを含ませないことで、対象を超えた、形容できない上位表現(反戦、反ファシズム)を見る者に突きつけたかったのではないでしょうか。
絵ではあるが、絵ではない。
それ程メッセージが強い絵画こそ『ゲルニカ』なのだと、実物を見て感じました。
以上が、僕が『ゲルニカ』を見て感じたことです。
実際に絵を見たとき、しばらく動けなくなってしまいました。
機会があれば、また見てみたいなあ。
その時には、今と異なる解釈をするのかもしれません。
でもそれこそが、アートの面白いところだと思います。
では、今日はこの辺で。
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