見出し画像

外へ出よう、空を見上げよう

最後に朝日を見たのはいつですか。最後に夕日を見たのはいつですか。最後に空を見上げた時のことを覚えていますか。

南の島に来て、ふと思うことがあるー空が広い、と。それはそのはず。周りは海に囲まれている何もない島なのだから、太陽を遮るものもなければ、空を遮るものもない。これが本来の「自然」な姿であるのだが、返して考えると、普段の生活がいかに「不自然」であるかを痛感する。

地平線なんて見えたもんではないし、一日中太陽光を浴びずに、オフィスの中で過ごしていたら空を見上げる機会なんてそうそうない。毎日ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗って、昼ごはんはコンビニ弁当で済ませる。これが本当に正しい人間の姿なのだろうか。

Photo by Denys Nevozhai on Unsplash

僕は、南の島に来てから、ホテルのレストラン(とは言っても、誰もいない)でこうやって文章を書いたり、本を読んだりして過ごしているのだけれども、目の前がオーシャンビューで心地が良い。風の音、波の音、そしてたまに後にある民家から聞こえてくる鶏の鳴き声。僕の身体と周りの全てが一体となって、心が穏やかになっていく。

朝は、太陽が昇る頃を見計らって、起床し、眠い目を擦らせながらビーチへと足を運ぶように心掛けていた。少し待つと、周りがパッと明るくなって、太陽が地平線からその姿を表す。僕はその姿をゆっくりと眺めながら、自然と手を合わせて感謝の念を抱いていた。

そういえば、最近どこかの記事で、Owe(畏敬の念)を持つことは精神的にポジティブな効果があるというのを読んだことがある。例えば、日本の森林浴。自然に敬意を払い、一体となることで、心理的にも良い作用があるようだ。国土の多くを森林に囲まれ、八百万の神がいることも相まって、日本人とは切ってもきれない縁のように思う。

太陽もまた同じだ。人類は何万年という年月を太陽とともに過ごしている。太陽は人間にとっての活動のエネルギーであると同時に、畏敬の念を抱く対象であることは間違いない。そうでなければ、テオティワカン文明の人々があんなにも巨大な太陽のピラミッドを創りあげたわけがないのだ。

また、ここでいうエネルギーというのは、肉体的にも精神的にも、である。朝日を見るとふと「今日も一日頑張ろう」と自然に思うのは、そういうパワーがあるのだと思う。だからこそ、日本人だって元日の初日の出にあんなに夢中になるのではないだろうか。今年も一年頑張ろう。そういうパワーを初日の出にみんな求めているのではないだろうか。

そうして僕は1日の活動を終えた後に、夕日を見るために、島の西側のビーチに移動していた。今日という日が、また終わりを迎え、夜がやってくる。日の出と共に活動を開始し、日の入りと共に活動を終了する。なんだか、こんな「自然」な生活ができていない普段の自分、都市での生活がもどかしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?