読書「ユダの窓」カーター・ディクソン
YouTubeの「海外古典ミステリー」ランキングで、これまでに読んだことのある数々の傑作ミステリーを抑えて、堂々一位に輝いていたのが本作でした。
カーター・ディクソンは、ジョン・ディクスン・カーの別名義です。
彼の名前は、ミステリー・ファンとしては「密室トリックの名手」としてもちろん知っていました。
ミステリー界の中では大御所です。
しかし、個人的には彼の作品を読むのは、恥ずかしながら今回が初めて。
この「ユダの窓」というタイトルもこのランキングで初めて知りました。
彼の作品としては、「三つの棺」「黒死荘の殺人」「死者はよみがえる」など、やや怪奇色の強い作品タイトルは覚えているので、日本でいえば横溝正史系の作家かなと思っていました。
個人的には、本格ミステリーにオカルトの味付けをするのは反則だろうという思いがありまして、敬遠しがちなのですが、本作はさにあらず。
読んでみれば、オカルト色皆無の堂々たる法廷ミステリーでした。
彼得意の密室トリックを駆使した不可能殺人が、法廷の論戦を通じて解き明かされていくという本格リーガル・ミステリーです。
さて、傑作ミステリーを成立させるには様々な要素が必要ですが、まずはこれ。
冒頭にドカーンと読者を唸らせる魅力的な謎を提示することです。
本作の場合は、完全なる密室殺人。
婚約者の父親に挨拶をするため、その屋敷を訪問する青年。
書斎に案内された青年は、そこで薬入りのウイスキー・ソーダを飲まされて意識を失ってしまいます。
気が付いた時、部屋の二つの窓にはシャッターが下りており、ドアには内側からカギが。
そして、目の前では婚約者の父親が、胸を矢で刺されて絶命していました。
外からは誰も入ってこれず、中からは誰も出ていけない部屋で、死体を前にした青年。
彼の訴えは聞き入れられず、駆け付けた警察官によって、青年は逮捕されてしまいます。
かなり魅力的な導入部です。
通常の殺人事件を扱ったミステリーであれば、まずは通報により警察が駆け付け、現場検証が始まり、担当警部による関係者の尋問。
そして事件が簡単には解決しそうになければ、名探偵に捜査依頼。
そんな手順になるのが相場ですが、本作においてはその辺りは、一気にすっ飛ばして、そこからいきなり法廷になってしまいます。
青年の婚約者が依頼した弁護士がヘンリー・メルヴィル卿。
事実上の本作品における探偵役です。
粗野で武骨で横柄な人物で、およそ弁護士の持つべき品性の欠如した人物として描かれますが、彼がカー作品に登場するのはこれが長編で7作目といいますから、読者の人気はそれなりにあったのでしょう。
本作を読みながら組み立てた脳内シアターにおける法廷場面のセットは、1957年のビリー・ワイルダーの傑作ミステリー「情婦」を大いに参考にしました。
ヘンリー卿のイメージは、「情婦」では事実上の主役といえるチャールズ・ロートン演じるウィルフリッド卿が完全に重なっていました。
1930年代のロンドンでは、法廷弁護士や裁判官が中世法廷のしきたりそのままに馬の毛のかつらを着用しています。
本文の中にも、その描写が出てきますが、これは、この映画を見ていたので、すぐにイメージ出来ました。
法廷モノというと、よくよく考えてみましたが、小説として読んだのは今回が初めてでした。
もちろん、テレビドラマや映画ならば数多く見ています。
「アラバマ物語」「ア・フュウ・グッド・メン」「評決」などはかなりシビれる映画でした。
大好きな「十二人の怒れる男」は、法廷ではなく陪審員室が舞台でしたが、やはり傑作法廷モノの一つでしょう。
そう考えると、日本映画には、本格的な法廷モノというのが案外浮かんできません。
野村芳太郎監督の「事件」くらいでしょうか。
どうしてかと考えてみます。
まず浮かぶのは、やはり陪審員制度ですね。
我が国ではこの制度が長らくありませんでした。
イギリスの陪審制度は、長い歴史を持ち、現代においても刑事裁判の重要な要素となっています。
一般市民から無作為に選ばれた12人の陪審員が、裁判官とともに、被告人が有罪か無罪かを判断する制度です。
陪審員は、主に事実の認定を行います。
つまり、被告人が犯罪を犯したかどうかを判断します。
陪審員の評決は、原則として全員一致でなければなりません。
その代わり、陪審員は、量刑には関与しません。
量刑を決めるのは裁判官の役目です。
では、陪審員制度のメリットは何か。
一般的には市民が司法に関与することで、司法への信頼を高め、より公正な裁判を実現できると考えられています。
そして、様々な背景を持つ市民が陪審員となることで、裁判に多様な視点が導入され、より客観的な判断が可能になるというところでしょうか。
もちろんデメリットも考えられます。
法律の専門知識を持たない市民が裁判に参加するため、誤った判断が下される可能性も否定できません。
そして、陪審員が個人的な感情や偏見に基づいて判断してしまう可能性もあります。
映画「12人の怒れる男」でも、この辺りの事情は描かれていました。
陪審員制度を前提にした海外の法廷ミステリーを楽しむには、この辺りは基礎知識として抑えておくべきでしょう。
我が国でも近年、欧米の陪審員制度を手本にした裁判院制度が始まっています。
陪審員性と違う点は、日本の裁判員は、有罪・無罪の判断だけでなく、量刑にも関与します。
そして、評決は全員一致でなくても成立する場合があります。
いずれにしても、これにより司法への関心が高まっていけば、いずれわが国でも、法廷モノの傑作映画が登場してくるようになるかもしれません。
本作に限らず、欧米の法廷モノをみていみていると、刑事事件の傍聴席には必ず新聞記者たちが陣取って取材しており、裁判結果は翌日の記事になり、事件によってはテレビ中継されるなんて光景がザラです。
その点日本の場合ですと、プライバシーに配慮するとかなんとかで、一般裁判が報道されるケースはほとんどお目にかかれません。
写真もNGで、イラストのみが許されているという状況。
いい悪いをここで論じるつもりはありませんが、裁判そのものへの関心が一般市民の間で高まらないのは当然といえば当然でしょう。
東京都知事選で旋風を巻き起こして話題になった石丸伸二元安芸高田市長が、市議会の模様をネット中継して、日本中の関心を集めた手法が話題を呼びましたが、もしもこれが、国民が関心を寄せる事件の裁判でも可能になるなら、国民の司法への関心も飛躍的に高まることは間違いなし。
松本人志の民事裁判の模様が、お昼のワイドショーでオンエアされたら、視聴率はグイっと上がりそうです。
裁判の傍聴は可能なわけですから、今後裁判系YouTuberなんかも世の中のニーズがあれば登場してくるかもしれません。
「小川泰平の事件考察室」というYouTubeチャンネルがあって、最近話題の凶悪事件について、元警視庁のOBが取材して解説をしてくれる番組があるのですが、これがなかなか面白いんですね。
大手テレビ局なら政治への忖度が働いて、絶対に触れない部分へも遠慮なしに突っ込んでくれているので、ネット番組ならでは。
ドラマで聞きなれた専門用語や隠語もバンバン出てきて、思わず引き込まれます。
基本はメディアがしっかりと報道すれば、国民はついてくるものです。
こんな番組が増えてくれば、政治がどんなに巧みにコントロールしようとしても、国民の関心は嫌でも高まり、日本特有の密室隠蔽性は薄まってゆくように思います。
閑話休題。
本作のストーリーに戻りましょう。
どう考えても青年以外の犯行はありえない。
現場の状況のすべてがそう物語っているわけです。
そんな絶望的な状況にもかかわらず、ヘンリー弁護士はいたってマイペース。
青年を取り巻く圧倒的な不利な状況をものともせず、どこからともなく召喚した証人の証言で、オセロのピースを一つずつ丁寧にひっくり返していくわけです。
さて、「ユダの窓」とはなにか?
この解答こそが、そのままこの密室トリックの真相になっているわけですが、この謎の開示の仕方が心憎いばかり。
この言葉がヘンリー卿の口から最初に発せられるたのは以下の通り。
「刑務所で何よりいやなのはユダの窓なんですって、とな。その一言でわしの前にさっと道が開けたんじゃ。」
「ユダの窓はお前さんの部屋にもある。この部屋にもあるし、中央刑事裁判所の法廷にも必ずある。ただし、気づくものはほとんどおらん。」
なんだか禅問答みたいで、これではちんぷんかんぷん。
一応個人的には予想してみました。
ユダというからには、裏切り者のイメージです。つまり、裏切るものには見えて、裏切られるものには見えない深層心理的な窓があるのではないか。
しばらく読み進むとこんなのも出てきます。
「ユダの窓ってどんな形をしているの?」
「真四角じゃよ。」
なに? それには形があるのかい。なんじゃそれは。
ヘンリー卿が、聞き手役夫婦を完全に翻弄させるように、読者としても作者の手の中で遊ばれている感じになっていきます。
そして、その真相が明かされれば「なるほど!」と膝をパシリ。
法廷モノですから、ヘンリー卿の役目は、殺人の嫌疑がかけられた青年の無罪を晴らすところまでです。
この不可能密室殺人の「ハウダニット」(どうやって殺したか)を解決すれば、青年の無罪は確定するのですが、残る問題があります。
それは「フーダニット」。つまり、青年でないとしたら誰が殺したのか。
決して多くはない登場人物たちですか、最後にその人物が明かされたときは、やはり衝撃でしたね。
すべての伏線は鮮やかに回収されて、ヘンリー卿の満足そうな品のない高笑いが響き渡るわけです。
これで、文句なく傑作本格ミステリーの完成。
人を裏切ったことはないつもりですが、「ユダの窓」はもちろん我が家にもありましたよ。
それを知った賊が、そこからこの老人を狙ったら、果たして首尾よく亡き者に出来るか否か。
その判断は、みなさんにユダねます。
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