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たったひとつの失恋

濡れたまつ毛をパタパタと、動かす。

彼女は動じなかった、動じないフリをした。唇についた髪の毛を一本ずつ丁寧に取る。ペタリ、ペタリ。塗りたての口紅が線になってほどけていく。

「わかった、今までありがとう」

拳をぎゅっと握りしめると、手のひらに爪が食い込む。これ以上涙が零れ落ちないように、痛みで悲しさを飲み込んだ。踵に血の滲む匂いがする。慣れないヒールを履いたせいで、どうやら靴擦れをしたようだ。こんなことになるのなら、おめかしなんてしなければよかったと、悲しみの中でぼんやり考えた。惨めな気持ちだった。

「それじゃあ、また学校で」

気まずそうに頭を下げて、彼は来た道を戻っていく。さっきはあんなに綺麗だったイチョウ並木が、今では憎たらしく嘲笑っているように見える。

「初恋だったんだけどな」

1ヶ月前、初めて告白した相手が彼だった。緊張する彼女を見て「とりあえずよろしく」と頭を下げる。その「とりあえず」の意味を、彼女は今初めて知った。お試しのカップルだったのだ。試用期間は今日でおしまい。延長する意思はなし、3回目のデートで決断された。

さっき足を運んだカフェは、雑誌の表紙を飾ったこともある人気の店舗だ。美味しいケーキとコーヒー。おしゃれなジャズとアメリカンテイストな店内。穏やかに時間が流れる空間は、カップルの幸せを暖かく包み込んでいるはずだった。

そんなぬるま湯に浸って、幸せだわと顔を緩ませていたのは彼女だけ。彼の方はいつ終わりを告げようかと、機会をうかがっていたのだ。ケーキにフォークを入れるたびに、生クリームが口の中で溶けるたびに、彼は物語の終焉を想像していた。

「あーあ」

ぱりぱり、ぱちぱち、しゃくしゃく

足元のイチョウが賑やかに笑う。どこか、元気出せよと言っているように聞こえた。その他人事な雰囲気に、思わずまた「冷たいなぁ」と切なさが湧き上がってきて喉の奥から熱が込み上げてくる。そのうち大粒の涙がとめどなく溢れてきた。

痛みが足元でリズミカルに、ジンジンと音を立てている。そのたびに鼓動が震え、涙が止まらなかった。指で拭うとマスカラがつく。黒い涙にみっともなさと、馬鹿らしさを感じ、秋色に染まった風景に「バカ」と叫んでみるのだった。

「バカって言ったらダメなんだよ」

知らない声に驚いて顔を上げると、5歳くらいの女の子が彼女をじっと見つめていた。ピンク色のボールを持って、真っ赤などんぐり帽子を被っている。ベージュのジャンパースカートに白色のタイツ。膝小僧が黒ずんでいた。

「そうだね、ダメだったね」

「なんで泣いてるの?」

「悲しいことがあったのよ」

「へぇ」

次の言葉を待ってみたが、聞こえてくるのはイチョウが揺れる音だけだった。

「じゃあ忙しいからバイバイ」

女の子はさっさと走って行ってしまった。あっけない。そのあっけなさが、欲しい。サッパリと、何にも気にせず、パッと切り替えられるスイッチをください。彼女は小さな後ろ姿を見て思った。

痛む足を引きずり歩いていくと、靴の中にイチョウを突っ込んで歩いている小学生がいた。誰が一番靴の中に葉っぱを詰め込められるのかバトルしているらしい。真剣な表情で、半ズボンで、少し鼻を真っ赤にして、男の子たちが真剣に作業に徹していた。すぐそばでは、彼らを眺めながらままごとにいそしむ女の子たち。葉っぱを石ですりつぶし、懸命に薬を調合しているようだ。

彼女は足の痛みに耐えきれなくなって、試しに踵にイチョウを突っ込んでみた。1枚、2枚、3枚、4枚。5枚入れたところで痛みが気にならなくなる。ぴょん、と飛び出る茎がチクチク刺さって痒い。ぶちりと引きちぎると、自然の絆創膏になった。

「お姉さんもイチョウバトル参加するんですか?」

男の子が声をかけてくる。ワクワクした顔で彼女を見つめる姿は、新たな敵の登場に少し緊張しているようだった。

「そうね、私すごく強いけどいいかしら」

わっと盛り上がる男の子たち。騒ぎを聞いて駆けつける女の子たち。「お姉さん、泣いたんですか?」と声をかけてくる。さすが、よく観察している。「失恋しちゃって」女の子たちの優しさに触れても、彼女の目からもう涙は出てこなかった。今は、とにかく楽しんでやるぞという気持ちで満たされている。悲しんでいる暇なんてないでしょう?言い聞かせるようにして空を見上げた。

これでいい、これでいいのだ。失恋したときくらい、もうどうにでもなれ。心の傷に、そっと秋の色で蓋をした。

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