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2月1日(火)

7時半目覚める。覚醒前のうつらうつらに万葉集のこと考える。
ある時期ハマっていた万葉集。あの頃の日記を書くとすれば、朝のルーティンは鉄板だった。そんなことを考えていた。

5時起床。NHKの万葉集講座見る。壇ふみがナレーションで紹介するお題の歌をメモ帳に筆記。歌の背景や解釈をヒントに、じぶんなりの解釈を試みる。
番組が終わってから10時ごろまで、さらに解釈を深め、その歌の直感訳と説明原稿をパソコンに打ち込む。


まあ、こんな感じになっただろう。

これを来る日も来る日も繰り返す毎日だった。解釈を深めるところまでは変わることはないが、最後に原稿を書くところは日によって異なっていた。閃きがあって、すんなりと解釈できる歌もあれば、取りつく島もなくいつまでも苦吟し、結局、諦めて挫折する歌もあった。

そもそも、自分なりに解釈してみたいと思いたったのは、大伴旅人のつぎの歌がきっかけだった。

 我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れくるかも

一般的には、つぎのように解釈されている。
「私の家の庭に梅の花が散っている。まるで天から雪が流れ落ちてくるように」

その訳を聞いた刹那、それこそ直感的に「ちがうだろ」と感じた。もっと深い意味が詠われているにちがいないと。
そして、万葉集というのは、こんな皮相で表面的な解釈ですまされているのかと、素人ながら呆れたのだった。
それからは番組と、壇ふみのナレーションと格闘するように万葉集の解釈にチャレンジしていった。
そして、自分なりに解釈を深めることはできたと思う。海の底にある魚介を素潜りで獲るような趣で、どんどん深みに潜れるようになっていった。ただ万葉集という広大な海の全域を潜ることはできなかった。

壇ふみがナレーションをつとめる番組の放送が終わるとともに、いつからか海面に浮かぶように万葉集とは離れていった。
というのも、彼女のナレーションの味わい、音のバイブレーションによって感覚を刺激され、インスピレーションがもたらされなければ、この作業はできなかった。万葉集の歌に込められた呪術が彼女の声によってひらかれていた、そんなことだったのだ。

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それでも、60首前後の解釈がディスクに残されていた。せっかくなので、これをぼちぼちとnoteにでも発表していこうかと思う。

午後1時半。施設の親父のリモート面会。補聴器をしていなかったせいか、まともに会話できず。メモで筆談したが、判読できない様子。昼食後で少しボケていたのかもしれない。

3時からは古い女の人をリハビリに送迎。待ち時間に近くのリサイクルショップのぞく。とくにめぼしいものはなかったが、車中泊で使えそうなコンパクトなフライパンを購入。税込990円。

石原慎太郎逝去。恥ずかしい話だが「太陽の季節」も読んだことがない身とすればとくに感慨はなく、いっときライバル視されていた三島由紀夫の死を惜しむ気持ちが湧いたばかりだった。

晩飯もそこそこに買いおきの合鴨の燻製をあてに赤ワイン飲んで寝る。

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