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品名:愛情

  「なにか欲しいものはある?」

 母が買い物に行く際に聞かれるこの言葉に私は「愛情が欲しい」と、答える。
 買える”物”ではないことは理解している。だが、それでも口にしてしまうのはどうしてか。

  自分の事を考えてくれている時間が欲しい。

 欲求だ。
 私の中では常に欲しいものとして一番最初に思いつくし、物品よりも自価値の高いものと捉えている。きっとある程度の生活水準が整っていないと言えない言葉なのかもしれない。もしくは年齢を重ねたことで価値観が変化したのかもしれない。

 幼い頃はチョコレートの板を一枚買ってもらえるのも、絵を描くのにノートやコピー用紙を買ってもらえることがとても幸せだった。シャープペンシルを、鉛筆一本買ってもらえることが、とても、とても幸せだと思えるような多感な時期を過ごしたと思う。勿論与えてもらうだけではなく、兄に奪われることもあれば、その兄に理不尽な暴力も受けて育ってきた。
 別に金持ちでもなく、どちらかといえば貧乏で。片親で兄弟二人を育て上げた母には頭が上がらない。私にとって神様のような存在でもあるからだ。
 仕事や家事でくたくたな体なのに、愛情を一心に育ててくれた母のような人間になりたいと、三十路を超えた今でも思っている。自分自身が”それ”になれているかはわからないけれど。

 忙しなく私達を育ててくれた母の時間が落ち着き始めたのは四十を過ぎた頃で。物よりも家族との時間が欲しいと思うようになっていたように見える。
 それこそが冒頭で言った「愛情が欲しい」に繋がっていく。

  子供の頃親に参観日に来てもらえなかったり、他の友だちの家に行けば親御さんがいるのが羨ましかったり。家に親がいる、それに対して憧れもあるけれど、やはり自分の母が格好いいから、寂しさよりも母の帰宅時間が近くなることのほうが嬉しかったし、仕事をしている母が誇らしかった。

  とある年、母が怪我で仕事を辞めることになった。だが今では前職とは全く違う職について頑張っている。それが母の時間の使い方で、その中で、買い物に行くときにはお決まりのあの言葉を言う。

 「なにか欲しいものはある?」

と。あなたの人生を愛情をかけて育ててくれたこれ以上に欲しい物などないのに。なんて思いつつも、私のことを考える時間を作ってくれる喜びで物として欲しいものはないから、ついつい「愛情が欲しい」と答えてしまうのだ。そしてたまに「板チョコレートが欲しい」とお願いも添えて。

  きっと、もし私があのとき自殺をしてしまっていたら知ることのない感情だかもしれないと、後ろを振り返って私を笑った。

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