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ストイックでは語れない私の、僕のトライアスロンのおはなし

私は体育会系だ。小学校は水泳とサッカー、中学校は水泳と陸上、高校では水泳と劇壇(?!)、大学ではトライアスロン。これだけの部活歴をみたら100人中99人くらいは体育会系だと断言してくれるだろう。
私は体育会系、ではない。 堪え性のない性格。嫌いな言葉は努力。人といることは苦手。コミュニケーションは特に苦手。よく引き籠もる。そして、私には性違和があった。

でもトライアスロンは、好きだ。ピッチリしたウェットスーツで身体が圧迫され自然と胸が高鳴るスタート前。ひたすらに目の前の水を掻くスイム。ただただ前を向いて漕ぎ続けるバイク。沿道の人全員から声援を受け走るラン。水を被り冷えた頭で熱を起こす真夏の暑いレース。昂った心をクールに落ち着かせる雨の冷えたレース。すべてが、好き。


飽き性の私がトライアスロンと出会った理由は、実に単純だった。今でも覚えている9年前の新入生歓迎会。その勧誘で流れた音楽が見知っているエウレカセブンの挿入歌「Storywriter」だった。その爽快感のある音楽をバックで疾走感のある競技写真に惹かれる……こともなく、ただ好きなアニメの挿入歌が流れていた、という理由だけで入部を決めてしまったのだ。

繰り返すが私は体育会系ではあるが努力が嫌いだ。コミュニケーションも苦手だ。性違和があるから鍛えること自体に抵抗もあった。
そんな自分が大学4年間でまともな結果を残せるわけがないと、今となってはわかりやすい理由なんだろうなと思う。インカレにはもちろん出れなかった。そうなって当然の内容であっても、私にとっては結果を出せていない申し訳無さが重荷になった。気力を失い、それでも一緒に4年間部に籍を置かせてくれてカミングアウトしても嫌わないでくれた、かすみともえぴ、そして最後のチームレースで一緒に走ってくれたクロとせいやんには感謝しかない。


そこから東京でトライアスロンのサポートをしたのだが、今となっては高ぶることは全くなかったと断言できる。事務作業とかアイデア出しの好きなサポート向きの性格でありながら、表舞台に立てる余裕のない精神状態は思ったよりきつかった。

タイに行った後、京都への移住を決意した。性違和は形式上解決したものの、実際に選手として立つための場所は職務と別であることが望ましいと考えたためだ(いきなり退職してすみません!)。京都での職務を1年過ごしたのに決心した。観音寺のインカレに出れなかった借りは、エイジ日本選手権の宮崎に行くことで返そうと。
そこからは、少しは努力をした。嫌いな努力であっても、レースで格好つけるための、見栄を張るためのものなら、意外と苦ではなかった。
そして始まったレース。
はじめて「好きに」走れた白浜。きれいな海とキッツイコース。周囲の応援から力をもらって、自分がトライアスロンに出ている私が好きなことに気づく。


大学時代のホームコース(?!)の渡良瀬。走りなれたコースと年代トップを取らないといけないプレッシャー。それに高揚感を覚えた私が初めて心からガッツポーズをとったゴール。


エイジ日本選手権をかけたいわき。エリートで活躍するクロと、はじめて同じカテゴリーであたるかすみ。雨の中のレースでの総合6位は、大学時代に手が届かなかった日本選手権に(どんな形であれ)やっと追いついた、その勲章。



地元開催の京都を経てエイジ日本選手権の宮崎。エリート同等の選手コールで昂った気持ちで始まったレースは、終始自分に興奮をもたらした。自分こそが、この物語の主人公であると、そう確信するに難くない高揚したものだった。


……それから1年半(転職して大阪に住んでますすみません!!)、大阪の淀川で久しぶりにランニングしたそのままでJTUの選手登録を完了させる。今回は義務でも追いつくためでもない。ただただレースでかっこよくありたいため、自分のためだけにエントリーした。
今度の目標は何になるだろう?向上意欲があるわけではない、何かを取り返すためでもない。それでもレースに出ている自分がかっこいいことは知っている。それだけで今年のレースを探す理由には十分すぎた。

トライアスロンがくれたもの。それは誰もが主人公であること。カッコつけても許されること。僕ががんばってきた5年間も、私が今頑張っている4年、それから先もウソではない。トライアスロンに出る、その瞬間は努力も、才能も、バックグラウンドも関係ない、出場者全員がゴールテープを切る主役であり誰もが尊敬するビックスターなのだ。


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