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#078幕末維新の志士とその顕彰(二)―身近な史跡、文化財の楽しみ方(17)

 前回、六角獄舎に投獄されていた志士たちが、禁門の変の騒ぎの中でどさくさに紛れて幕吏に処断され、その中に丹羽正雄という滋賀県出身のあまり知られていない志士がいたことをご紹介しました。今回は同じく六角獄舎に投獄されていた伴林光平についてご紹介したいと思います。

 伴林光平も、丹羽正雄に負けず劣らずあまり知られていない志士でしょう。伴林光平(一八一三~一八六四)は河内国志紀郡林村(現在の大阪府藤井寺市林)の出身の人物で、浄土真宗の寺院・尊光寺に生まれ、西本願寺の学寮や大和国の寺院で仏道修行をし、各地で国学や朱子学、和歌を学んだ人物です。弘化二年(一八四五)からは河内国若江郡成法寺村(現在の大阪府八尾市)の教恩寺の住持を務めます。教恩寺において光平は、和歌や国学の研究にいそしみ、地域の人々へ熱心に講義をするなどしていました。光平と文学的な交流をもった地域の文人たちとして、近隣の地域では、河内郡喜里川村(現在の大阪府東大阪市喜里川町)の庄屋・中西多豆岐、若江郡稲葉村(現在の大阪府東大阪市稲葉)の庄屋・岩崎美隆らが挙げられます。彼らとの交流は、大阪府立中之島図書館の中西文庫や関西大学図書館の岩崎美隆文庫からそのやりとりが確認できます。

 その後、光平は文久元年(一八六一)に世を憂いて教恩寺を飛び出し、勤王活動に身を投じます。大和の国に移り住んで勤王活動に邁進している中、文久三年(一八六三)に土佐脱藩の志士・吉村寅太郎らが公家の中山忠光を盟主として天誅組を結成、大和国の五条代官所を襲撃する事件が起こります。天誅組の決起を聞きつけた光平は駆け付けて加盟します。しかし天誅組の乱は失敗し、光平は大阪方面へ脱出する道中に捕らえられ、六角獄舎へ投獄されます。
 六角獄舎へ投獄された伴林光平は、獄中では平野国臣と隣の牢になり、和歌の贈答を行ったという記録もあり、また獄中で天誅組の活動について記した『南山踏雲録』も書き残していますが、元治元年(一八六四)二月に斬首刑に処されます。

 明治元年(一八六八)五月の太政官布告により、霊山官修墳墓(現在の霊山墓地、京都市東山区)に、幕末維新の志士約三一〇〇柱が祀られることになり、伴林光平もその対象となり、霊山に墓碑が建設されます。
 のちに明治二四年(一八九一)九月二一日に天誅組の面々が靖国神社に合祀され、吉村寅太郎らと共に伴林光平も同年一二月一七日には従四位の贈位を受けています。
 天誅組の決起から五十年が過ぎた大正二年(一九一三)五月には大阪の泉布観(大阪市北区)において天誅組五十年祭が行われます。これを契機として翌大正三年(一九一四)には、光平が河内国と大和国の往復の際によく通っていた十三峠の麓に墓碑を建立することが企画されます。これが現在玉祖神社西側に残る「贈従四位伴林光平君墓」になります。この墓碑は、旧土佐藩士の土方久元が碑文を執筆しており、光平の門人であった同郷の山田市郎兵衛ら多くの人々の尽力により、光平の遺墨遺物などを埋めて墓碑を建立し、墓碑の前で荘厳な祭典が行われています。

「贈従四位伴林光平君墓」(八尾市神立)

 また、この墓碑の建設に併せて、同年一一月に光平が住職を務めた教恩寺跡に「贈従四位伴林君光平碑」も建立されます。この碑は、題字を旧土佐藩士の田中光顕が執筆しています。田中光顕は天誅組の変に参加した那須信吾を叔父に持つ人物であるため、そういった縁で揮毫をしたのかもしれません。裏面は撰文が若江郡成法寺村出身で『乱世の英雄 一名在野諸名士公評録第一編』を執筆した松蔭・大西啓(敬)太郎、書は渡辺信義となっています。この碑は仙台石幅三尺八寸(約一二〇センチ)、丈一丈七尺(約五・一メートル)、周囲に玉垣を巡らせると建設申請書にはありますが、現在は石碑の周りには玉垣は見当たりません。

「贈従四位伴林君光平碑」(八尾市南本町)

 このように五〇年が経過して、地域によって志士として顕彰される伴林光平ですが、この顕彰事業については意外と記録が多く残されていません。それは、これらの墓碑を建設したのが大正三年(一九一四)であったこともあり、当時の新聞の記録を見ても、大正天皇の即位式である「大正御大典」と同じ時期に当たっていたことによります。地域として熱心な活動を行って顕彰活動を行っていたと恐らく思われますが、大正御大典関連の記事が紙面を大きくにぎわしているために、伴林光平の関係する新聞記事は見当たりません。せっかくの顕彰事業ではありますが、手掛かりが少ないのが非常に残念に思います。

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