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#172江戸時代から明治時代にかけての木綿の話(一)

 以前に「#045河内木綿の盛衰と地域の産業構造の変化ー論文執筆、落穂ひろい」において少し書いた江戸時代から明治時代にかけての木綿産業について、今回は補足も兼ねて記したいと思います。

 江戸時代に各地で広く生産された木綿。各地で生産されることで、もちろん競合や産地ごとの品質の良し悪しが出てくることになります。著者が分析対象とした「河内木綿」は、毛足が短く、糸が太かったために、布地にした際に厚手で丈夫であったことから、主に作業着などの用途に用いられていました。この河内木綿を含む木綿は、アジア綿といわれる種類の綿で、毛足が短く、糸が太いという種としての特徴がありました。
 明治維新後、海外からいわゆる洋綿と言われる綿、海島綿やアプランド綿といったものが輸入されるようになります。これらの綿は、毛足が長く、糸が細いという特徴がありました。産業革命以降、西洋では石炭などの動力による紡績業が盛んとなり、毛足が長く、糸が細いという特徴が紡績機にかける綿としてはうってつけでした。殖産興業政策が盛んになる中、日本でも機械紡績の導入が試みられますが、在来の綿からとれる綿糸では、機械紡績にはうまく適合出来ないという欠点が顕わになります。
 このことにより、機械紡績には適さないために、在来の木綿の生産は、機械紡績による綿布に圧倒され、減少の傾向をたどります。ただ、機械紡績による綿布は、薄手で軽いという特徴のために、これまで作業着などに使用されてきた河内木綿とは用途を異にすることもあり、河内木綿はこれまでの消費者からの支持を一定数得ることが出来ました。
 河内木綿は、厚手で丈夫という特徴が売りになっていましたが、作業着などの用途では重宝されるというブランド化が進む訳ですが、一方で価格という点では輸入綿に圧倒的に後れを取っていました。現在の大阪府泉佐野市などを含む、旧和泉国にあたる地域では、河内木綿のような高級ブランド化が進まなかったこともあり、価格競争に挑むために、縦糸に機械紡績の西洋の綿糸を用い、横糸を在来の綿糸で製織する「半唐」(半分西洋の綿糸を使っているの意)という手法を用いていきます。これは、旧和泉国以外でも、旧伯耆国(鳥取県、島根県)、旧大和国(奈良県)、旧三河国(愛知県)などにおいても同様の方法がとられて価格競争に参入していきます。
 しかし、この際に、河内木綿はブランド化してしまったが故に「半唐」を導入することで「品質が下がった」と認識されてしまい、容易に導入が出来なかったようです。そのため、高級ブランド化したことが足かせとなって、価格競争に負けてしまうことになります。一方で、和泉、大和、伯耆、三河などはもともとブランド力がなく、品質に対する高い評価がなかったことが幸いして、品質が低くても安く入手出来る木綿製品として重宝されます。江戸時代において、木綿製品は家財道具の中でも高級品にあたり、質屋に質草として引き取ってもらうものの代表的な品物として、木綿の服が挙げられるため、これまで一着しか木綿の服が購入出来なかった家庭でも二着、三着と購入出来るようになるという、一般の家庭において価格の安い木綿の服を複数持つことが出来るように変化していきます。

 このように、産地におけるブランド化とその品質の差によって、近世的な産業から近代的な産業に転換出来たかどうかによって、在来綿の産地の生き残りということに差が出てきた、といえます。
 今回はここまでとしまして、次回はどのような品質や価格の差が出たのかを具体的に見てみたいと思います。


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