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#039棚から牡丹餅で研究テーマが決まる?ー論文執筆、落穂ひろい

 今回、ご紹介する論考とその裏話は、学会の現地見学会で案内したことを元にして、論考に展開したものです。

 20代から30代にかけて、それほど出来が良くはなかったですが、研究会、学会の月次例会などには皆勤賞で参加していました。というのも、当時、国民国家論が華やかなりし頃でしたが、当時活躍していた方たちの議論がさっぱり理解出来なくて非常に困っておりましたが、これは自分の知識が圧倒的に先輩研究者に劣っているからだと当時の筆者は感じており、とにかく研究報告はたくさん聞いて知識を増やそう、という気になって、毎回きちんと顔を出す、1つくらいは質問する、ということをまじめにやっている時期でした。また、筆者の出身大学は、大学院が出来て日が浅く、近現代史専攻に入学したのは筆者が最初だったということもあり、直接あれこれと教えてくれる先輩もおらず、弱小大学だったので、全時代の専攻を合わせても人数が少ないといった状態であり、皆が寄り集まって切磋琢磨するといった、若者が学問をする環境があまり整っているとはいえない状態でした。そのため、自ずと他流試合を求めに行くしかないといった有様で、すこしでも取っ掛かりのある学会、研究会には顔を出すことにして、顔と名前を知ってもらう、あわよくばいろいろと教えてもらえる親切な先輩研究者に出会う機会を求めてアドバイスをもらう、という下心も伴っての研究会への参加という側面がありました。

 幸い親切な先輩研究者が何人もおり、報告内容はなかなか理解出来ないにせよ、学会、研究会には楽しく参加して、学べる場として活用していました。その後、数年経つと更に自分より若い大学院生たちも参加するようになってきて、そうすると筆者の立ち位置も研究会で自然と中堅のような立ち位置になるようになります。その後も特段、国民国家論などの理論派の研究に対する理解が深まるわけでもないのに。しかし、研究会では順番に、概ね年功序列で役員を担当する番が巡ってくる訳で、自然と筆者にもその順番が回ってくる機会が巡ってきます。筆者自身には、これほどまでに報告内容が判っていない者がそんな仕事をしてもいいのかどうか、という逡巡もありましたが、逆に一念発起して、無理をしてでも勉強しないときっとこの先も理解出来ないだろうと思い、順番が回ってきた際には役員を引き受けることにしました。実際に役員をやってみると、まあ雑務の多いこと。それはそれなりに事務的な勉強、経験になりました。

 役員をやっている期間には、論理派の報告のことは相変わらずさっぱり判らないので、実証研究の線でいろいろな企画を考え、実施していきました。その中で、神社仏閣や墓地、石碑などを1日見て回るという史跡の現地見学会も催しました。その際に、先に紹介した貴族院議員の石碑などのある、自身の研究フィールドに皆を引っ張り込んで、得意分野で案内をして回る、ということをしました。この時には、物珍しさもあって、まさに朽ちかけた掩体壕(第2次世界大戦の際の飛行機を隠しておく壕)などにも案内したりもしましたし、また、現地見学会の後にコリアンタウンでの本場の韓国料理での懇親会もセッティングしたことも加えて、全体としてなかなかの好評を博しました。

 その際に改めて注目したのが戦没者の慰霊碑、忠魂碑や墓でした。筆者の主に研究している地域には、実際の戦地に近いわけでもないのに、珍しく西南戦争の戦死者の墓がまとまってありました。明治前期最大の士族反乱である西南戦争ですが、過去には日本の近代国家形成に関わっての分析などの国家的視点の研究が主流となっており、この分野での研究の大勢を占めていましたが、最近では西郷軍を中心としたもの、現地での戦闘地域についてのものなども出てきておりますが、まだまだ後方を視点とした研究が少ないと感じております。こちらは小品ですが、上記のような疑問について、大阪から出征した兵士たちがどのくらいいたのか、戦地で亡くなったり、戦病死した人たちがその後どのようになったのかについて記したもので、先の史跡見学会を契機として研究しだしました。後にその内容を「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」で講演し、その講演を元に活字化したものが本稿です。紙数が少ないことと、まだまだ調べたいことがあったので、簡単な内容でしか記せていないので、本稿を元にした論文を現在準備中です。学生時代には、色々な面で面倒臭そうだったので、戦争と宗教の研究には触れまいと思っていたのですが、思いっきりその分野へ踏み込むことになるとは、当時は全く想像出来なかったというのも、今は昔の笑い話です。

 西南戦争というと、明治10年(1877)に起こった西郷隆盛率いる旧薩摩藩士を中心とした明治新政府に不満を持つ士族たちの反乱ということで、時代小説の題材にもテレビの時代劇のドラマなどにも何度も取り上げられており、近年ではハリウッド映画「ラスト・サムライ」などの題材にもなっている、日本史上の一大事件として教科書にも必ず登場する事件です。時代小説やテレビドラマ、映画については、薩摩側の立場であれ、政府軍側の立場であれ、概ね武士の英雄的行動に触れたものが多いような印象を受けます。研究論文などでも、近代国家成立過程の一大事件として、様々な分析が古くからされてきましたが、概ね明治新政府からの視点、西郷軍からの視点などのものが中心になっているような印象を受けます。近年、従軍日誌などが刊行、紹介されることで、やっと兵士個人に対する分析が緒についたといえるでしょう。例えば、喜多平四郎『征西従軍日誌ー巡査の西南戦争ー』(講談社、2001年3月)、安藤経俊『一神官の西南戦争従軍記』(熊本出版文化会館、2007年11月)などが挙げられます。

 これらの従軍日誌を史料として取り扱うことで、より戦場の現実が描くことが出来るのですが、問題点としてあまり触れられていないのは、従軍日誌に記載されている出来事が事実としてあったのか否かについてはあまり検証されることなく使われているように感じる点です。例えば、喜多平四郎の従軍日誌には、熊本籠城戦に参加していて、敵の包囲を破って友軍に連絡を取る、という進言をして上官に採用され、それが熊本攻城戦勝利の突破口になった、というような記述があります。軍隊のような階級社会で、上官が序列の下の者の進言を簡単に採用するかどうか、またこれが事実であれば、もう少し戦後に褒章的に優遇されていてもおかしくないのではないか、という疑問が湧いてきます。何故そのように考えるのかというと、後世の我々は勝手に「従軍日誌は戦地で、その場で書かれている」という思い込みがある、また書き手が家族や子孫を読み手として設定し、自身の手柄を誇張して書き勝ちであるためです。どういうことかというと、戦場で書かれた物もあるかと思いますが、概ねは戦後に清書し直して、書き直しているものが多く、どうしてもつい筆が滑って話を膨らませてしまい勝ちになるものが多いのです。もちろん誠実に事実のみを書いている従軍日誌もあるかと思いますが、どうしても自身が戦場で英雄的に活躍した、勇敢に戦った、と人は言いたくなってしまう、ということが良くあるからです。この点は、他の史料で検証した上で使用しないと、事実を誤る可能性が孕まれているといえるので、戦場の現実を生々しく描くことにも従軍日誌は活用出来ますが、それがゆえに事実を誤る可能性も孕まれているというのが、従軍日誌という史料の特徴であると言えます。これは中世史研究において、長らく軍記物語を史料として無批判に使って戦国時代の研究などが進めて来られましたが、近年は各戦国大名の軍記物の中でも事実か否かを他の史料で検証しながら使用するという姿勢に進化していっていることからも、中世史研究より歴史の浅い近現代史の研究においても是非研究姿勢として参考にしていってもらいたい思う点でもあります。

 少し偉そうなことを書き方をしましたが、戦場やより戦場に近い場所で書かれた即時性の高い史料を入手してますので、西南戦争の銃後についてや戦場での様子などを、いくつか近々に発表出来ればと考えています。



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