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#110史料にみえる女性の名前

 以前に「女性の名前に「お」は付くのか?」の回で坂本龍馬の姉・乙女の名前について書きました。漢字表記で「乙女」と書かれますが、実際には「とめ」さんだったというお話です。今回も少し女性の名前について考えてみたいと思います。

 江戸時代の宗門改帳などに見える女性の名前は、未婚の女性の場合は実名が書かれていますが、既婚者となると途端に名前がなくなることがよくあります。筆者は近畿圏での史料調査の経験が多いですが、宗門改帳において、既婚者については誰それの「嫁」あるいは「女房」と書かれている例をよく見ました。結婚した途端に名前が表記されなくなるのです。また、死別した場合には、これまでの「嫁」や「女房」から「後家」に変わります。筆者の見知っている範囲のことだけなのかと思い、試みに、手元にあった地方史研究協議会編『近世地方史研究入門』(岩波書店、一九五五年七月)の宗門改帳の項目を引いてみますと、下記のような例が記されていました。

一、新兵衛 五十九歳
 同宗
  女房  五十四歳
 同宗忰
  徳助  三十六歳
 同宗忰
  権助  二十八歳
 同宗忰
  勘六  二十四歳
 同宗忰
  七之助 十八歳
 同宗娵
  はる  二十三歳
 同宗娵
  さん  十八歳

地方史研究協議会編『近世地方史研究入門』(岩波書店、一九五五年七月)五九頁

 例として挙げられていたのは、信濃国佐久郡下之城村(本文中では「下之条村」と記載)の宗門改帳の一部です。これをみると戸主・新兵衛の妻は「女房」と記されており、畿内近国でない場合でも、やはり名前の記載がない例はあるようです。さしづめ現代でいうところの「〇〇ちゃんのお母さん」といった、その人個人ではなくある家の嫁、ある人の親というように表現されるのと同様というところでしょうか。(※息子たちの妻については、それぞれ「はる」、「さん」と記されています。)
 このように、既婚女性については公的な史料から名前が表記されなくなるということが、どうやら全国的にみられるようです。

 最近、史料調査で訪れた神社で見た石造物で下記のように記されているものがあり、思わず目を引きました。献納された石造物は「弘化丙午」と記載があるので、弘化三年(一八四六)のものです。その台座部分には「紺屋 徳右衛門、妻 宇野 謹献」とあります。その神社には永らく通っていましたが、恥ずかしながらそれほど石造物を詳しく見ていませんでした。これを見つけたときに、この一点の石造物だけで何かが言えるわけではありませんが、あまり石造物で女性の名前を見たことがなかったため、公的な史料から名前が失われる既婚女性の名前がこんなところに残っているんだ、と思わずうれしくなりました。女性史について疎い著者ですが、こういうものも今後気にしていかないとな、と思わされました。

玉垣に囲まれていて下の方までは見えにくいのですが、「紺屋 徳右衛門、妻 宇野」と彫られてあります。(著者撮影)


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