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#135近代の政治と料亭

 しばらく更新できずにおりました。
 新型コロナウィルスが五類に移行したことにより、著者の属する施設がコロナ以前の来場者数に戻ったことは施設としてありがたいことなのですが、施設の年間で最も繁忙期である一一月を過ぎても、講演や研修などの一二月に至るまで続き、結局多忙のまま二〇二三年を終えることになりました。
 この間もネタは書き貯めておりましたので、これまでの公開ペースに追いつくような形で更新していきたいと思っておりますので、ぜひお付き合いいただけますよう、よろしくお願いいたします。

 さて、今回は(近代)の政治と料亭との関係についてのお話です。
 近代の政治にとって、料亭は大事な舞台の一つといえるでしょう。有名なところでは、明治八年(一八七五)に大久保利通と木戸孝允、板垣退助が会見した「大阪会議」は「花外楼」(大阪市中央区北浜)がその舞台なりました。花外楼は、天保元年(一八三〇)創業の料亭で、店主が加賀国(現在の石川県)出身の伊助という人物であったため、もともとは「加賀伊」と表記されていました。大阪会議の成功を祝して、木戸孝允が「花外楼」という店の名前を贈り、現在もその名前で営業を続けています。

 大阪会議は、明治六年政変後に政府を去った板垣退助と木戸孝允を政府に復帰させるために、伊藤博文、井上馨らが奔走して、政府首班であった大久保利通と木戸、板垣を会見させ、大久保が木戸、板垣の意見を飲む形で政府に復帰させることに成功した会議です。この三人の会談によって、明治新政府は漸次立憲政体樹立の詔を出し、憲法の制定と議会の成立を約束して、大きく立憲政体樹立の方向へと明確に舵を切ることになりました。

 料亭は政治家の会談の場所としての役割をもっており、現代でもさまざまな会合の舞台として活用されています。
 このような料亭の活用の仕方は、中央の政治のみに限らず、地方政治においても同様といえるでしょう。ここでは、大阪府八尾市にあった料亭「山徳」の例を引いてみましょう。
 山徳は、江戸時代の代官の屋敷を活用して営業した料亭といわれます。文久三年(一八六三)に開業し、明治時代には山徳の所在する地域に河内県庁、ついで堺県の出張所、八尾郡役所が出来たため、官庁街として栄え、地方政治の舞台としても活用されるようになります。
 筆者の研究している地方名望家層出身の貴族院多額納税者議員となった久保田真吾の日記にも、山徳で郡長などと食事をしている記載が散見されますし、また、仕出しも行っていたようで、自宅での会合の際の料理の仕出しも行っていました。
 久保田真吾の史料の中で、最も大きく仕出しの様子が現れている出来事が、地域によって本人の顕彰碑が建設される際でした。地域の有志の寄付金によって顕彰碑が建設され、その除幕式の後にお礼の意味も込めて、自宅で園遊会を行うのですが、その際に仕出しを担当したのが山徳でした。
 山徳は、赤飯および肴の入った三重の重箱と籠入り小鯛、酒、菓子の入った風呂敷包みを用意して、園遊会に参加した人々への土産として用意しています。この土産の発注数が二百余となっており、二百余名の招待客が園遊会に招かれたていたと考えられます。この様子は#004「Important study achievements_002 ”Honoring monument construction and community”」の論文にも紹介しているので、ご興味のある方はよろしければ参照してみてください。

 その他にも、大正時代に大阪府で行われた陸軍大演習の際に、大正天皇を含む多くの人へ仕出しを提供したと伝わっており、その際の売り上げで建物を三階建てにしたとのことです。

 先に山徳を紹介する際に「八尾市にあった料亭」と「あった」と記載しました。実は筆者も最近知ったのですが、二〇二三年三月をもって閉店したということです。参考までに「号外NET」の山徳閉店の記事を下記に記します。

 未だ行く機会がなかったため、直接建物を見たことがないのが非常に残念ですが、この建物を他の店舗として活用するという現地の噂もあるため、もし残されるのであれば、店としては変わってしまっていますが、ぜひ建物を訪ねてみたいと思っています。

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