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#053宗教と対立するものの記憶のされ方、描かれ方について―廃仏毀釈をどのように描くか

 今回は宗教施設に関わる記憶や描かれ方について少し述べてみたいと思います。
 筆者は以前、滋賀県で史料調査をしているときに、各地の寺院で判で押したように、どこででも聞いた話がありました。そのいずれもの寺院でうかがった話が、「当寺は戦国時代に、織田信長に焼き討ちされた」といった内容でした。織田信長は言わずと知れた尾張出身の戦国大名で、石山本願寺と一〇年にわたる戦をし、比叡山延暦寺を焼き討ちしたという事績のある人物。とはいえ、田舎の小さな寺まで一々焼き討ちをするだろうか?という疑念がわきます。石山本願寺と延暦寺の一件があるので、一般的に織田信長には宗教弾圧をする人物というイメージが持たれるのでしょう。推測が許されるのであれば、おそらく寺の焼失とは関係なくとも、織田信長に焼かれたとしておくと、信心の面としては実証的である必要はないため、寺伝としては非常に腑に落ちやすく、得心出来る歴史の描かれ方になるのでしょう。織田信長にとってはいい迷惑ですが。このように事実であることと、信心の面で信じられていることには乖離があることがままあります。

 明治の前半で、このような事実と信心の面に関わってくる問題と言えば、廃仏毀釈がそれにあたるのではないでしょうか。以前に筆者は、大阪府での調査で、鷲尾順敬(わしおじゅんきょう、一八六八~一九四一)という人物の史料を調査したことがありました。鷲尾は島下郡田中村(現在の大阪府茨木市田中町)の真宗大谷派の光得寺に生まれた人物で、また東京へ出て学問をするうちに仏教史学者として大成する人物です。彼の業績の一つとして『明治維新神仏分離史料』(村上専精、辻善之助と共著、東方書院、一九二八年)というものがあります。鷲尾は、東京へ浄土真宗を学びに行った際に、明治時代以降の仏教の凋落の原因の一端は廃仏毀釈にある、これを正しく理解するために史料を収集して、しっかりと位置付けたい、という志を父・鷲尾順英宛の手紙で残すなどしていました。結果として、大部な資料集を編纂し、仏教史研究の中で大きな足跡を残しました。
 鷲尾は、研究史上の位置づけとして廃仏毀釈を重要視していました。廃仏毀釈研究としては、村上重良『神々の明治維新-神仏分離と廃仏毀釈』(岩波書店、一九七九年一一月)が身近に入手できる定番として評価もされています。あるいは、田村晃祐『近代日本の仏教者たち―廃仏毀釈から仏教はどう立ち直ったのか』(日本放送出版協会、二〇〇五年八月)からも、どのようにして各地、各宗派の僧侶たちが廃仏毀釈後の仏教をとらえなおし、明治維新後に衰退した仏教を再建していったかが判りやすく紹介されています。

 これらを踏まえて筆者も研究史をたどったのですが、気になる点が残りました。それは、廃仏毀釈そのものが全国的に普遍的な出来事だったのかどうか、という点です。確かに鹿児島県では徹底的に廃仏が行われていますし、近畿一円でも、三井寺などは大きなダメージを受けています。とはいえ、各地域の村々に所在する寺院全てに対して行われたということも、どうやらそうではないようです。廃仏毀釈の主たる評価としては、国学の先進地域は熱心に廃仏毀釈を行っており、そうでなかった地域はそれほどではなかった、という評価が近年では行われています。そういう意味では、廃仏毀釈という出来事自体が、特殊な事例であるにもかかわらず、インパクトの大きい出来事であったために普遍的な事例のように思われる嫌いがあるのでははないか、と感じています。

 共著で宗教を担当するので、今後、筆者自身でも調査を進めなければいけませんが、全国津々浦々で行われたことではない、という意味では次の法令などが手掛かりになるのではないかと思われます。

諸国大小之神社中、仏像を以神体ト致し、亦ハ本地抔と唱えへ仏像を社前ニ懸、或ハ鰐口・梵鐘・仏具等差置候分ハ、早々取除相改可申旨、過日被仰出候、然所、旧来社人僧侶不相善、氷炭之如候ニ付、今日ニ至り、社人共俄ニ威権を得、陽ハ御趣意と唱し、実は私憤を霽し候様之所業出来候而ハ、御政道之妨を生而巳ならず、紛擾を引起し可申ハ必然ニ候、左様相成候而ハ、実ニ不相済義ニ付、厚令顧慮、緩急宜を考、穏ニ可取扱ハ勿論、僧侶共ニ至り候而も、生業之道を不失、益 国家之御用相立候様精々可心懸候、且、神社中ニ有之候仏像仏具等取除候分たりとも、一々取計向伺出御指図可受候、若依頼心得違致し粗暴之振舞等於有之ハ、屹度曲事可被仰付候事
 但 勅裁之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ、伺出候上御沙汰可有之、其余之社ハ裁判所・鎮台・領主・頭等へ委細可申出候
四月
別紙之通被 仰出候ニ付、堺両郷町々並寺社へ不洩様為触知可差返もの也
 辰四月十二日          裁判所御判
                  惣年寄中
右之趣奉畏候、於町々不洩様入念相触可申候、以上
                  (『堺県法令集』一、二〇頁)

 ここでは、本地垂迹に基づいた仏教の仏と神道の神を習合するこれまでの習慣を改め、神社では鰐口、梵鐘などの仏具を祀ることを止めるようにすることを指示しています。また、俄かに神道の神職が政府の中で力を持っていっているので、政府の意向だとして、これまでの私憤を晴らすような神職もいるが、そのような紛擾の元となるような指示は政府の意図するところではなく、緩急を弁えて僧侶とともに事に当たること、もし心得違いをしているものがおり、粗暴の振舞を行うものがいた場合には、それは道理に合わない事柄なので、必ず上申すること、と法令で述べられています。
 いわゆる神仏分離令の発布ののち、国学の先進地域における一部熱狂により、廃仏が行われ、そうでない地域はびっくりして冷静に対応するように指示しているといった様子が垣間見える法令といえそうです。

 これから地域の様子を調査していきますが、どのような反応が見て取れるのかは楽しみですが、題材となる河内国は、広域の宗教行政としては、枚岡神社(現在の東大阪市出雲井町)の管轄に当たります。明治六年には中央から人事異動で古川躬行(ふるかわみゆき、一八一〇~一八八三)が枚岡神社の神職として就任しますが、彼は管轄地域を巡検して、神仏分離を徹底しようとしたという印象を史料からは受けています。実際に、河内国ではどのような様子だったのか。徹底して破却された寺院や仏像などが出てくるかもしれませんし、あるいは、急進的な活動を穏健な思慮で抑え込んでいくようなイメージになるのか。今後の調査の進展によって、描き方が変わってくると思うので、著者としてもどのような地域史像が湧き上がってくるのか、楽しみで仕方がありません。実際の執筆を乞うご期待、というところです。



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