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日々は辛いか/米津玄師「毎日」を聴いて

 明日なんて来るなと願っても、日々は一定に続いていく。「僕なりに頑張ってきたのに」と虚しさを吐露するような歌詞から、「まだ愛せるだろうか」と歌った途端、日常に引き摺り込まれるMVは、ポップな曲調に反して、残酷にすら思える。

 コーヒーのCMソングである本曲は、米津玄師本人が作曲に行き詰まった際に、そのまま出来上がった曲なのだという。毎日飲むコーヒーのように寄り添うけれど、それにしてはクソッタレな日常。いつも少し虚しくて、やりきれない日々。

 毎日頑張っているけれど上手くいかない。やけっぱちなくらい明るく、日常の憂いが歌われる。MVでは一粒つまんだポップコーンがひっくり返ったり、「クソボケナス」と言ってボールのようなものを投げたら何個も返される、誰も悪くないのがいちばん苦しい。空元気のような曲調が痛々しく響く。

 極め付けは最後に飛んでくる生クリームのケーキだ。「この日々を まだ愛せるだろうか」嫌でも続くこの日常を愛させてくれ、そう祈っているというのに、真正面からケーキが飛び、顔が真っ白に汚れる。毎日毎日毎日毎日、頑張っているのに。

 MVを見ないとしても、「まだ愛せるだろうか」というフレーズは切実に聴こえる。自分なりに努力しても、隣の人は易々と飛び越えていってしまい、置いてけぼりにされるような。そしてそこには誰の悪意もなく、ただ追いつけない自分だけが存在する。他人のせいにもできない、どうにもならない日々を背負う。

 米津はインタビューで「親ガチャ」を例に出し、「そもそも生まれた環境とか、遺伝子とか、親の資本とか、そういうものによって自分の適性や能力みたいなものがある程度決まってしまっている。」と言う。どうしたって育ってきた環境や自分の土台となるものがあり、それを持って進まなければならない。自分が自分であることは変えられない、と。

 全く違う自分になりたかった時期がある。明日別人になっていればいい、と泣いたことがある。残念ながら、昨日も今日も、そして明日も地続きで、大きな変化は訪れない。日々は積み重なっていく。毎日毎日辛くても痛くても、時間は進むし、十年後にはすっかり思い出になるかもしれない。そんな先のことを考える余裕はないけれど。

 せめて愛させてほしい。何も変えられない毎日が、少しくらいは愛しくあってほしい。吐いても捨てても訪れる日々を、どうか。

 真っ直ぐに上を見つめるジャケット写真の猫だけが、救いなのかもしれない。

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