【長編小説】 きっとここにしかない喫茶店で(8)
第七話はこちらです。
第三章:夏期限定! スリランカ式スパイスカレーと紅茶セット
第八話
私の名前は緑川沙絵。とあるカフェの店主をしている。
今日は友人である若苗凪に誘われて、家から三十分かけて馴染みのない駅に来た。
いつも私の方が遅れるのだけれど、今日は珍しくこちらの方が早いみたいだ。毎回こうやって行動できればいいのに中々うまくいかず、結局焦らされることになる。どうしたものだろうか⋯⋯。
そんなありきたりのことを考えていると、改札を抜けて来た男女がこちらに向かってくる。凪たちだ。
「やほー!」
「こんにちは」
いつもより若干テンションの高い凪と、彼のパートナーの梅紫あやめちゃんだ。あやめちゃんは凪と私と同い歳で、三人の中では比較的常識人だ。冷静で知的な美人で、紅茶をこよなく愛す。一見の雰囲気は柔らかいのだけれど、実は芯が強くてぶれない。
これだけ聞くと、私や凪とは仲良くなれないタイプの人に思えるけれど、あやめちゃんは、時間さえあれば自分の世界に浸り切っちゃうようなちょっと変わった人なんだよね。
彼女はある種の「形」に対する偏愛が強くて目がない。特に好きなのは、たしかアナトリアの磨研土器。まるぼったくて、つるつるなのがたまらないんだって⋯⋯。
この前、二人の家にお呼ばれした時にあやめちゃんのコレクションが飾られている棚を見せてもらったのだけれど、あの形のものが多くて空間が歪んでいるように見えた。それぞれ素敵な一品だとは思うんだけど、あそこまでたくさんあるとね⋯⋯。
あやめちゃんは好きな形のものを追いながら苦しんでいるうちに、いつのまにか考古学を学んじゃって、そして今は博物館で働いている。そんなあやめちゃんの探究心は、製薬会社で働きながら心理学を学び、占いも覚えちゃった凪とぴったり合うのだと思う。
「おい、頭の中の世界に入ってないか?」
おっと⋯⋯今日は脳内ジャーナリズムの一環で、二人のことを紹介してみようと思っていたけど、凪のあのニヤニヤ顔はこちらの脳内設定に感づいている。早急に離脱して、現実に戻らないと!
「やほ! あやめちゃん、久しぶりだね! 先々週ぶりだね!」
「そうだね、久しぶり。沙絵ちゃんも元気だった? この前は突然カフェに行ってごめんね。形が良かったし、沙絵ちゃんが好きそうなパンだったから、つい⋯⋯」
「あー、あれすごくおいしかったよ! 変わった形の丸いプレッツェル、ラウゲンロールだっけ? もう夢中で食べちゃった⋯⋯」
「あー、あれ美味かったよなぁ。しばらくは何日かおきに食べてたよ。あのしょっぱさが具材によって七変化するんだよなぁ」
「分かるよ⋯⋯。私もカフェの余り物を付け合わせにして食べていたんだけど、素材の味を引き出しつつ自分も顔を変えるんだよねぇ⋯⋯」
「そうだよね。私も素朴な野菜スープと一緒に食べるのにすっかりハマっちゃってね。凪と交代でたくさん作ったよ」
あやめちゃんはお料理も上手で舌も確かなんだけれど「形が気に入ったから」というだけで買い物をすることがある。普通の人はそれで失敗しちゃうんだろうけど、天性の勘というか野生の嗅覚というようなものを持っていて、私や凪には見つけられない美味しいものを買って来てくれる。
あやめちゃんが突然来るのは大体カフェの閉店時間が近づいた頃で、お客さんも少ないから二人でガールズトークに花を咲かせちゃったり。
あ、今のを言ったら凪に「ガールズ? 何かの間違いじゃない?」って言われそう。これは黙っていた方が良さそうだなぁ。
私はちらっと凪の顔を覗き込んだ。
「顔に出てるよ」
えっ? 出てた?
「さて、今日ふたりに集まってもらったのは他でもありません! 先週ふらっと入ったお店がすごく美味しかったのでお誘い申し上げました!」
良く分からないテンションになっちゃっている凪のことは置いておくが、こういう食事会はよくある。三人で遊びに行くこともたくさんあるのだけど、三人のうち誰かが面白いお店を見つけるとこうやって誘い出して、ai's cafeの参考にできるものがないか探しにゆく。
「ねぇ、凪。ここのところ会っていなかったんだから沙絵ちゃんが知らないのは仕方がないけど、私にもどこに行くのか教えてくれなかったよね! 流石にそろそろ教えて欲しいんだけど!」
あやめちゃん、ちょっと楽しそう。きっと見当がついているのにわざと聞いているんだろうなぁ。
「凪のこの感じはきっとスパイシー系⋯⋯」
私はそう言いながらあやめちゃんと目を合わせて頷きあう。
「うんうん。そこまではわかるよね。それで今日はどんなスパイシーなの?」
「まぁ君たちには分かってしまうだろうねぇ⋯⋯。でも、案ずることはないよ、カレーだから」
私もあやめちゃんも「あぁやっぱりね」という表情をした。そして私たちがそういう反応をすることを予期していた凪の方もこれ以上の茶番をやめて歩き出した。
三人でつらつらと十分ほど歩いた先にあったのは、スリランカカレー!
「というわけで今日はスリランカカレーの店だよ。カレーももちろんすごく美味しかったけど、紅茶も美味しかったなぁ。キャンディを飲んだんだけど、ひときわフルーティで華やかだったなぁ。本場スリランカの紅茶も出してくれるお店です」
「え! 本当に?」
紅茶好きのあやめちゃんのテンションが二割り増しになった。
普段は落ち着いていて、私にはない大人の魅力がありそうなのに、磨研土器と紅茶のことになると途端にニコニコし出しちゃう⋯⋯。でも詳しいだけあって、そう簡単には釣り針に引っかからないんだけど、餌を撒いたのは凪だからね。信頼感が違う。
「うん。ヌワラエリアのアイスティーもあったよ。淹れ立てのお茶を氷で急冷して出すんだってさ。スパイスティーもミルクティーもあるし、よりどりみどりだよ」
「えー、一度には一つしか飲めないのに⋯⋯」
「そうだよねぇ。私もいろんなお茶試してみたいなぁ」
「だよね。でも大丈夫。また来てもいいし、ここ茶葉も売ってるから!」
「おぉー」
私とあやめちゃん、二人でパチパチと手を叩いてからお店に敬礼!
「緑川沙絵隊長、進軍をお願いいたします!」
「全軍進め!!」
そう言いながら先頭の私だけ一人で勢いよくお店に突貫してしまったものだから、優しげなスリランカ人の店主さんが驚いて目を見開いている。
ちょっと⋯⋯二人とも⋯⋯。
「沙絵ちゃん、勢い良すぎだよ⋯⋯」
あやめちゃん、悲しそうな雰囲気で言ってはいるけど、今にも笑いそうだよね? 凪はお腹を抱えて笑っている。
「緑川、さすがに勢いつけすぎだって! あまりの速度についていけなかったよ」
ちなみに、凪は私のことを緑川と呼ぶ。凪と出会ってからもう二十数年経つけど、ひととき私が緑川でなかった時でさえ、私のことをそう呼んだ。
さてさて、何はともあれ、無事にスリランカカレー店についた緑川御一行なのでした。なんてナレーション入れたら売れるかな?
「余計なこと考えてないで席に着くぞ」
「え? 余計なこと考えている顔してた?」
「普通に声に出ていたから⋯⋯」
おっと、私の心の秘密の声がどうやら外に漏れてしまっていたようで⋯⋯。冷や汗を拭う振りをしようと、額に手を持っていったら本当に汗がびっしょりだった。今のはさすがに恥ずかしかったね。
なーんて。
◆
突然だが、私の知るところによれば、若苗凪は人生で一度だけ一目惚れしたことがある。
私たちが二十歳だった頃、凪はルネ・ラリックという芸術家の展覧会に行った。ルネ・ラリックが作成した工芸品の数々、特に生物の意匠を象った金細工やガラス工芸品に胸を打たれながら凪が歩を進めて行くと、目の醒めるような青色の花瓶が目に飛び込んで来た。
その花瓶の色、透明感、そして丸っぽい形に感激して、凪は駆け寄って行った。花瓶に注目しながらも、ふと視線を外して同じ花瓶を鑑賞している女性を見た時、凪の頭に衝撃が走り、心を奪われちゃったらしい。目が合ったとか言っていたけど、それが本当かは分からない。
そのあと、どんな作品が展示されていたかは凪の記憶にはないようだ。その女の人と歩調を合わせながら進んで行くというセミストーカー行為をしてはみたものの、所詮は同じ展覧会に来て見かけただけの人だ。ナンパまがいの真似をして声をかけるわけにもいかず、諦めたんだって。
それから十年経つうちに、凪は恋人を作ったり別れたり、何度か壮絶な出来事がありつつも概ね平和に過ごしてきた。一目惚れをしたという記憶を持ってはいても、それを思い出す機会なんてなくて、忘れたままの日常を送っていった。
ある時、凪の数少ない親しい友人が結婚することになって、式でのスピーチを頼んで来た。かけがえのない友達のために凪は快諾して、普段は避けている式典にも参加することにした。
当日式が始まる前にウェルカムドリンクを飲んで旧友たちと話をしている時、女性が一人、ふらりと現れた。
あの時と同じ赤紫色のドレス、長くて黒い髪、知的なメガネ、紅をさした唇、どこか控えめな佇まい。見た瞬間に十年前ルネ・ラリック展で見たあの女の子、凪が一目惚れした人だって分かったんだってさ。
それだけ月日が経っていて、しかも結婚式に出るために着飾っているんだから分かるはずなんてないのに、その時は間違いないって思っちゃったんだって。
凪は衝動的に話しかけに行こうと思ったけど、その日の主役は新郎新婦だ。とりあえずは自分の役目を果たさなきゃいけないので、気持ちを押し込めて、凪は周囲の人たちと社交した。
大切な友人の一生に一度の式、そのうちの一角を任された凪は、きっといつもの飄々とした態度を崩さなかった。でも内心はその気持ちと責任を真正面から受け取って、深く集中し、張り詰めていた。だから、式で出された食事はほとんど食べられなかったみたい。
そして結婚式は粛々と進んで行って、凪の番が来た。凪のスピーチが終われば、あとは新郎新婦が両親に感謝の言葉を述べて退場して行く。つまり、新郎の友人である凪の話が結婚式のトリみたいなものだ。
凪は名前を呼ばれて、前に出る。列席者の視線が集中する中でゆっくりと口を開く⋯⋯。
これは後から他の人に聞いた話だけど、そのときの凪のスピーチは凄まじいものだったらしい。遠くから響いてくるような不思議な声に独特のリズム感、そして選び抜かれた言葉たち。それらを駆使して、凪は会場の人々に想いをぶつけた。
たった五分ほどのスピーチ中に新郎が二回も涙を流したって聞いた。そしてスピーチが終わった時、凪と新郎のことを知らない人たちでさえも、二人の友情がかけがえないものであると確信した。なぜ彼のスピーチがこの式の最後に行われたのかをそこにいた人たちは理解した。
みんなが拍手をして、みんなの胸が熱くなった⋯⋯らしい。いったい何をしてるんだか⋯⋯。
凪はこういう時、加減を知らない。普通の人だったらある程度のスピーチができたらそれで良いと思うだろうし、無難に済ませられるなら御の字だと考えるだろう。
だけど、凪は違う。「自分が頼まれたのだから、自分にしかできないことを全力でやる」と考えて、彼の悪魔的な才能と能力を全て注ぎ込む。その結果完成したものは、多くの人が「良いスピーチ」と考えるものよりも二段階は次元が上だっただろう。
凪は空気を作るのがうまくて、スピーチをさせたら右に出るものはいない。頼まれすぎて大変だから式典には出ないことにしているほどなのだ。
さてさて、スピーチが終わった凪はやっとその責任感から解放されたけど、周りの人にも気を遣っていたのでグッタリしていた。だけど、やっと自分のことに集中できる時間が来たというわけ。
式が終わって、会場を出る時間になった頃、凪は気になっていたあの女の人のところに歩いて行った。今日を逃したらもう会えないかもしれない。もう話す機会なんてないかもしれない。そう考えて、覚悟を持って歩いて行った。
そんな凪の姿を始めからずっと目で追っていた女性の方も覚悟を決めて、凪を待つ。
凪が女性の前に立って口を開こうとした時、女性の声が聞こえてきた。
「あ、あの! 十年くらい前にルネ・ラリックの展覧会に行ったことはありませんか?」
あの冷静な凪も流石に面食らって、目を三十五倍くらいに見開いて、そして一度ゆっくりと息を吐いてから答えた。
「僕も同じことをあなたに聞こうと思っていたところです⋯⋯」
凪の声には震えが混じっていた。そしてもう一度、深呼吸してから話を続ける。
「僕は東京のルネ・ラリック展に行ったことがあります。そこで、青い花瓶越しに女性を見ました。長い黒髪で、メガネをかけていて、今日のあなたのように赤紫色の服を着ていました」
女性も凪も目に涙を浮かべて笑いながら見つめ合う。
あぁ、二人はここでやっと会うことができたのだ。
「さっきスピーチをしたのでご存知かもしれませんが、僕は若苗凪と申します。良かったらこのあと二次会など行かずに二人でお話ししませんか? 梅紫あやめさん」
こんな感じで、実はお互いに一目惚れしあっていた二人は十年越しに出会って、そしてそれ以来もう離れることはなかったのだ。
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