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【長編小説】 きっとここにしかない喫茶店で(9)

第八話はこちらです。


第九話

 はてさてと、二人の馴れ初めを改めて頭の中にインストールした私は「誰かに聞かせるわけでもないのに誇張して思い返しちゃったなぁ」と思いながらスリランカカレーを待っている。

 凪とあやめちゃんは慣れたもので、私の精神がこの場にないと悟ると、こちらには一瞥もくれずに二人で話をしていた。いやぁ、凪もあやめちゃんも自分の世界に閉じこもって精神が飛んでいることがあるのに冷たいなぁ⋯⋯。そう思っていたらあやめちゃんが気がついた。

「あ、沙絵ちゃん帰って来たんだね」

「おかえりー」

「ただいまー。カレーそろそろかな?」

 そう言って店内を見回してみると先ほどの店主さんと目が合う。あれは食べ物を持って来てくれる顔だ!その気配に気づいたのか二人も話を止め、すっとした姿勢で食べ物を待っている。

 カレーが運ばれてきた。私は目の前にやってきた三枚の大皿の様子に息を飲んだ。凪はフィッシュカレーとロティのセット。私とあやめちゃんはチキンカレーとライスのセットだ。

 皿にはたくさんのものが盛られている。ライスにチキンカレーと豆のカレー、アラ・バドゥマと呼ばれる付け合せのジャガイモ炒め、水菜のサラダ、豆粉のパリパリせんべい、そしてココナッツを砕いて作った辛いふりかけ⋯⋯。

 スリランカではこれらの複数の料理を個別にも味わいながら、少しずつ混ぜていって味のハーモニーを楽しむらしい。なんと新鮮で、なんと心踊る食事だろう。でも、何から手をつけていいのか分からない。

 私とあやめちゃんが途方に暮れていると凪がスプーンを持ちながら言った。

「好きなものを好きな配分で食べればいいんだよ、フィーリングに合わせてさ。好みの味を自分で探索していく楽しみも味わえるなんて、すごく贅沢な食事だよね」

 その言葉を聞いて、肩から力が抜けていった気がした。

「もう、迷わない!」

 はっきりとそう口にして、悲壮な覚悟を胸に私はカレーを貪り始めた。


 気がつくと私の目の前には空になった大皿とアイススパイスティーがあった。カレーは非常に美味しかった。特にジャガイモ炒めと水菜サラダと豆のカレーの組み合わせが絶妙で、スパイシーだけどさっぱりと食を進めることができた。

 水菜のサラダにはレモン果汁がふんだんに使われていて、とても良いアクセントになっていた。これは研究して真似しないと⋯⋯。

 カレーにはココナッツミルクとココナッツオイルが使われているっていう話だったから強い匂いがするかもしれないと思ったけれど、私はあまり気にならなかった。あやめちゃんも違和感を抱かなかったらしい。これならスパイスの配分次第でお店でも出せる料理にできる。

 だけどココナッツのふりかけ——たしかポル・サンボーラ——はお客さんによっては食べづらいかもしれない⋯⋯。これは別盛りにして、気に入った人にだけかけてもらうようにした方が良さそうだ。でも、そうすると味の深みが薄まるような気もする。

 そのあたりは凪に任せておけば代替案を用意してくれるに違いない。そう考えると、やっぱり私の役目は和え物と付け合せ、そしてサラダの探求になるはずだ。

 となると、やっぱり水菜のサラダがキーになる。レモンを使うのはいいけれど、それだけだともの足りない気がする。それに、期間中ずっと水菜のサラダだけという訳にはいかないから、バリエーションを作らないといけない。

 本場の料理からは外れてきちゃうだろうけど、日本の夏野菜をうまく使って、料理を再構成できればうちの店らしいものができるはず。そのためにはもっとスリランカ料理の勉強をして、エッセンスが何かを掴まないと。

 あ、でもちょっと待って、この感じ、このタイミング⋯⋯。凪もうちの夏期メニューにスリランカカレーがいいかもしれないと思って私たちを連れてきているはずだから、情報をすでにまとめているかもしれない。っていうかそうだよね。料理の説明とか、どの料理に何が入っているとか、さっき説明してくれたのは凪だったもの。

 だったら色々と調査済みのはず。こうなることを見越して、やっておいてくれたんだ。あ、いや違うか。興味持ったから調べていくうちに夢中になっちゃったんだよね。それが若苗凪という人間なんだから。何年一緒にいると思っているのよ。もうわたしったらぁ。

 そんなことを考えながら顔を上げると、凪とあやめちゃんがそれぞれこの時間を満喫していた。あやめちゃんはヌワラエリアのアイスティーをじっと見つめて口に含むという行動を繰り返している。すごく香り高くて、アイスティーなのに芳醇さが広がる味だってさっき言っていた気がする。

 あの感じは頭の中の世界に入っていそうだ。かなり安心できる人の前でしか見せないけど、こういう時のあやめちゃんはちょっと危ない人みたいだ。恍惚としちゃっているというか、うっとり感が滲み出ちゃっている。

 出会った時はこんな人だと思わなかったなぁ。でも、私と凪がいて安心しているんだろうから、それはとっても嬉しい!

 凪も自分の世界に入っちゃっている。左手の人差し指を口元に当てるのが深く考える時の癖だ。凪はこうなると時間がかかる。でも大丈夫。考えが煮詰まってくると、視点を変えるために顔を上げて、周りを見回す癖もあるので、そのタイミングが来るのを待っていれば良い。

 しばしの時間があって、凪が顔を上げた。目を見て視線を外さずにいると、凪が口を開く。

「カレーはどうだった?」

「すごくよかったよ。バランスを考えたら、うちでも出せると思う。夏期メニューにしよう!」

「お、それはよかった! でもいくつか考えなきゃいけないことがあるね。付け合せのこととかさ」

「うん。そうだね。そっちは私が頑張るよ。だから、今回もカレーの方はお願いね」

「うん。そのつもりだよ。だからまだ春も終わらないのにこうやってやってきているわけだし」

 そう言って、凪はまた人差し指を口元に当てながら、今度は紅茶の入ったカップを眺め始めた。


 ai's cafeのメニューには凪が開発したものがいくつもある。特にスパイス料理と煮込み料理が多く、特有の風味がある。

 凪の料理がカフェのメニューになるまでには流れがある。まず、凪が自宅かカフェの厨房で試作品を作り、レシピの形にしてから私に受け渡す。私は凪に作り方を教えてもらいながら、レシピを微妙に改変していく。

 その調整が終わったら、私はレシピを自分のものにするために何度も練習をする。そうしていくうちに私がメニューのバリエーションを思いつくので、違う野菜を試したり、食材の組み合わせを変えてみたりする。そこまで行ったら、メニューの完成だ。お店にやっと出せるようになる。

 私の経験上、メニューの具材は変えても、スパイスブレンドの配分とスープストックは自分では手を加えない方がいい。その辺りに手を出すと、料理のバランスが破綻してゆく。

 同じ具材、同じレシピで料理を作っても、私が作るものと凪が作るものでは味が全然違う。表現が難しいが、凪が作る料理は全てが渾然一体となっているのだ。お皿の中に入っている全ての要素が完全に溶け合っていて、調和している。一口の中に全部が入っている気がする。具材の味も、スパイスの風味も、料理人の丁寧さも。

 一方で、私の料理は具材の味が際立つ。凪のようにまとまった味にはならないが、素材の味が引き立ちやすい。

 アメリカは昔、『人種の坩堝』と呼ばれていたが、『人種のサラダボウル』という方が適切だという話を聞いたことがある。その例えを借りるのならば凪の料理は坩堝に近くて、私の料理はサラダボウルに近い。どちらが良いとかではなくて、そういう特徴があるんだよ。とは凪の言葉である。

 そんな事情で、凪が作ったレシピを私用に改変してもらわなくてはならない。引き立ちすぎたスパイスの量を控えめに、具材を少し大きめに、それに合わせて加熱時間を増減⋯⋯などなど。

 一応凪もこのことを考慮に入れてレシピを持ってきてくれるのだが、料理は水物だ。実際に作ってみて、食べてみないとどうなるかは分からない。

 最近だと、凪が考えた『ごろごろ野菜のポトフ』は傑作だった。私の技術が活きるように考えてくれたレシピで、春の寒さに凍えるお客さんたちに好評だった。

 私は凪のようには料理を作れない。でも、そんな私に凪は言ってくれる。

「緑川の料理の具材は、みんなイキイキとしている気がする。そういう風に作れるからこそ、このカフェに助けられる人がたくさんいるんだよ」

 この言葉に私は何度も救われた。


「ねぇ、やっぱりこのカレーには紅茶がよく合うよね。紅茶に関しては、またあやめちゃんの力を借りたいんだけど、良いかな?」

 私は思いついたことを目の前の凪に聞いてみた。凪はちょっとだけ反応が遅かったけれど私の方を見て答えてくれる。

「いいと思うよ。最近は色々と落ち着いているみたいだしね。それに『沙絵ちゃんの力になりたい』ってよく言っているよ」

 そんな話をしながらあやめちゃんの方を見てみると、さっき注文したホットのヌワラエリアを楽しみながら、嬉しそうな顔を浮かべている。

 凪が料理を作る時、具材に対してまっすぐ向き合っているように見えるけれど、実際は違う。凪が向き合っているのは、成分とか温度とか料理の性状とか、そういう目に見えないものたちだ。

 凪は基本的に抽象的なものに対するのが得意で、そういう世界に生きている。考えてみれば、凪の仕事の分子生物学だって、具体物とはいえども想像力の世界の学問に思えるし、心なんて抽象物の最たるものだと思う。

 もちろん凪は具体物の世界を軽視しているわけではないと思うけど、場の空気感とか話の流れとか、リズムとか、価値観とか⋯⋯。そういうものはみんな実在物ではないわけで、私の目にははっきり見えてこない。

 対して私は『モノ』に興味があると思う。カフェの店主という仕事をしているのにも色々な理由があるけど、結局人とモノをつないだり、人と人がつながったりするのが好きだからなのだ。

 凪がカフェの店主になったら、彼は彼でうまくやるのかもしれない。だけど、きっと今のai's cafeのようにはならなかっただろう。だって、凪と私とでは問題に対するアプローチが違うのだから。


 カフェを始めた頃、私はすごく弱った。自分のカフェを持ったものの、思ったようにいかなかった。状況を変えたくても、何に手をつけたらいいのかわからない。夢の実現が見えて来ているはずなのに前に進めない。そんな感覚に打ちのめされそうになっていた。

 そんなとき、凪が連れて来たのがあやめちゃんだ。最初の頃はお互いに遠慮があったが、凪抜きの二人で遊ぶようになってから私たちは仲良くなった。

 ある時、お店がうまくいかないことを相談しているとあやめちゃんは言った。

「沙絵ちゃん。私ね、生活も仕事も全部自己表現の一環だと思っているの。毎日何時に起きて、何を食べて、いつ家を出るのか。どんな服を着るのか。そしてどんな仕事をして、何に生きがいを持つのか。全部、私が選んで表現しているものなんだって思っている」

 私は、この時まではあやめちゃんのことをもっとふわふわしたところのある人だと思っていたけれど、話をする様子から心の奥底に揺るぎないものを持っている人なのかもしれないと考えるようになった。

「恋人に凪を選んだのもそうなんだ。私らしさを表現するためには凪と過ごすことが必要だったの。それが私のかたちだって確信したんだ。沙絵ちゃんにとってはカフェもそうなんじゃないかな? 沙絵ちゃんの夢とか理想とか、沙絵ちゃん自身とか⋯⋯。そういうものを表現するためにカフェをやっているって言っていた。だけど話を聞いていると、モノも生活も行動も『こうするべき』って考えて選んでいるだけで、沙絵ちゃんの理想を追っていない気がしたよ」

 私は衝撃を受けた。
 生活も、仕事も、自己表現の一環?
 恋人に誰を選ぶかも自己表現?

 そんなことを考えたこともなかった。でも、不思議と腑に落ちた。素敵なカップに素敵なメニュー。それらのものをとにかく揃えることに必死だった。なんとなく周囲の人の真似をして、カフェの完成度を上げることだけしか考えていなかった。

 自分のカフェにどこかで冷たさを感じていたのはそのせいだったかもしれないと考えるようになった。カフェには立派なソーサーも、コーヒーも、メニューもあったと思うけど、それらを扱う気持ちが抜けていたのかもしれない。あの頃の私のカフェには、私がいなかったのだ。

 そのことに思い至った時、私は一時お店を閉めることにした。いろんな人に頭を下げて、お金も借りて、助けを求めた。だけど、全然苦しくなかった。その時になって自分がやっと大きな一歩を踏み出しのだと気がついたのだ。ついに自分の夢を、理想を表現できるのだという喜びに満ちていた。

 そして同時に私の胸にとある考えが浮かんできた。凪も私のカフェに必要だと思ったのだ。それまでは、レシピの相談や試食をお願いしてもらうだけだったけれど、もっと本格的に参加してもらわないと気が済まなくなってしまった。

 私の理想を実現するためには私だけじゃ足りなかった。凪には飲み物や食べ物を通してだけじゃなくて、もっと直接的に人を助けるための活動をこの店でやってもらいたかった。頻度が低くてもいいから、迷い込んだ人が元気になって帰っていくようなカフェを凪と作るのだと私は決めた。

 そんな経緯でai's cafeには相談屋ができ、助けを必要としている人が集まるようになってきた。あやめちゃんのおかげだ。

 あやめちゃんが、私と凪の関係にもたらしたものはとてつもなく大きい。いつも抽象的な世界に生きていて、浮世的な空気を持っている凪。具体的な物を扱うのが得意だけど、そういうものにばかり目が移ってしまって大局的な感覚に欠ける私。そんな二人を繋いでくれるあやめちゃん。

 全ての歯車がかっちりとハマった音がして、私たちは人生を前へ前へと進めることができるようになった。

 私は目の前の凪とあやめちゃんを見る。あやめちゃんも紅茶を味わい終えて、まっすぐと私の方を向いている。凪も考え事を終えて、いつもの柔らかい目をしている。

 私はこの二人が好きだ。三人でいるこの時間が好きだ。二人とも私の幼馴染みたい。家族みたい。恋人みたい。お兄ちゃんみたい。お姉ちゃんみたい。弟みたい。妹みたい。

 なーんてね。



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