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【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】 きっとここにしかない喫茶店で(10)

第九話はこちらです。


第十話

 春の陽気にも久しく会わず、曇りや雨の日が多くなってきた。梅雨の季節だ。

 自称恋愛中、名実ともに会社員の沼田ミカは、今日も仕事を終え、傘を片手に歩いている。雨の日の日暮れ直前、背景は灰色で、紫陽花の赤紫が目立つ。ヘクソカズラの黒紫色の花でさえも、この景色には映えるようだった。

 ミカは「今日こそあの人に会えるかな」と思いながらいつもの道を歩いている。先月、覚悟を決めたミカは相談屋の予約をした。あの男とぶつかってみようと気持ちを整え、準備していたが、一週間前から目が冴えて夜眠れなくなってしまった。

 やっとの思いで仕事を乗り切ったのだが、疲弊して前日の夜に発熱してしまった。這ってでもai's cafeに行きたかったが、想いは叶わず一日ベッドの上で過ごす羽目になってしまった。その後、回復してから直ちに予約をしたが、次に空きがあるのは一ヶ月後であった。今度こそ体調も気持ちもしっかり調えようと堅実に毎日を過ごしてきた。

 それから日が経ち、ついに来週にはあの風変わりな男と二人で話をすることができるようになった。話ができるのだと考えるとミカの胸は疼いて息苦しくなってくる。少し前までは、まだ見ぬ運命の人のこととか、自分の未来のビジョンだとか、そんなことばかり考え込んでいた。だけど、最近はあの人のことばかり⋯⋯。やっぱりこれは恋なのね、と思い込んで、一日一日を数え上げることが楽しみの毎日だ。

 時間があるときは今日のようにai's cafeに行って、美味しい料理とお茶を味わいながら、「あの人を見かけられますように」と祈る。それがミカの日課になっていた。その行動が功を奏したのか、この一ヶ月の間で三回、ミカはあの男に会うことが出来た。でも大抵の場合、閉店時間の間際にやって来て、一息ついた後は店の奥へと行ってしまう。そしてすぐにマスターが「閉店じかんですー」と言ってお店を閉めるので、ミカは帰るしかない。ちょっぴり残念だが、見かけられただけでもミカは嬉しかった。

「あぁ、今日はどうかなぁ」

 そう呟きながらミカは重い身体を動かしてゆっくり歩いた。


 その日のディナーは『赤しそのジェノベーゼとアスパラガスのポタージュ』にした。どちらも不思議な甘みと爽やかな苦味、そしてどこかでスパイシーな香りが漂う一品だった。

 梅雨の空気のおかげで身体中の液体が滞っているような感覚が体を支配していたが、食事後は血液サラサラの元気いっぱいになったと錯覚するほど血の巡りが良くなっていた。

「今日もおいしかった⋯⋯」

 ミカは今日もまた閉店時間まで仕事の資料を整理して、あの怪しい男がやってくるのを待つことにした。

 閉店時間が近づいて来た頃、一人の女性が店を訪れた。女性はすらっとしたスタイルで、服の着こなしは落ち着いており、整った黒髪に控えめに漂う大人の香り⋯⋯。やや地味ではあったが、和の空気を纏う美人だった。

 和の女は店に入ってくると、まっすぐにマスターの方へと向かって行った。

「沙絵ちゃん! やほー。来ちゃったよー!」

「あ、あやめちゃん! ようこそ! やほー」

 マスターと親しげに話している。マスターがあんなに気安く話しているのを見るのは、あの男が相手のとき以外では初めてだ。和の女はマスターに何かを渡して、話を続けている。

 やや時間が経って、閉店の時間がきた。閉店時間になったというのにあの女の人は帰る気配がないので、マスターの友達だろうかとミカは考え始めた。あの空気感とノリをミカはどこかで感じたことがあるような気がしたけれど思い出せなかった。

 すぐミカは会計をして、そして「結局今日も会えなかったんだなぁ」と思い、寂しげな様子で店を後にした。


 次の日曜日、ミカは気分転換に買い物に来ていた。あんなことがあってから、しばらくはショッピングからも足が遠のいてしまったが、今ではすっかり立ち直って、服にアクセサリーにと楽しむ余裕も生まれて来た。

 そんなこんなで買い物も終わり、家に帰ろうと顔をあげたとき、人混みの先にあの相談屋の男が立っていた。しかも、隣にはどうやら女性が腕に絡みついて、親しげな様子で話している。

 ミカは一瞬目を逸らそうとしたが、どこかで見たことのある女性の姿に興味が湧いてきた。

 一歩、二歩、三歩と近づいて見てみると、そこにいたのは一昨日ai's cafeで見た女性、あの和の空気漂う不思議な女性だった。

 全ての辻褄が合った。なぜあの女性があんなにもマスターと親しげだったのか。なぜあの女性とマスターが作る空気感に覚えがあったのか。なぜあの女性が閉店時間になっても帰らずにマスターと話をしていたのか。

 全て分かった。なぜなら、彼女こそがあの人の、あの男のパートナーだからだ。それ以外にない。

 思い至った瞬間、ミカはその場から飛び出した。走って、走って、また走った。今自分がいる場所がどこなのか分からなくなっても構わなかった。携帯も持っているし、お金もある。困ったらタクシーでも何でも使って帰れる。

 だけど、気持ちはどうにも止まらない。どうにも変えられない。

「裏切りだ!」

 いつの間にかミカはそう繰り返していた。男はあんなにミカの気持ちを理解して包んでくれたはずなのに、ミカのことを見ていなかった。もしかしたらミカの気持ちに気づいていたかもしれないのに、恋人とデートするなんて⋯⋯。

「許せないよ⋯⋯」

 走っているうちに息が切れてきた。もうこれ以上進めないと立ち止まり、見覚えのない街並みに目を配る。そしてふと我に帰った。

 本当はミカも分かっていたのだ。
 あの人は悪くない。あの女の人も悪くない。自分が道化なだけなのだと。


 それからの数日、ミカの生活は荒れた。なんとか仕事には行ったものの、家に帰ってからは泣いてばかりいた。同僚にも「何かあったの?」と心配されたが、話す気にもなれず、ただ「大丈夫」とだけ返して乗り切った。

 木曜日、仕事をしているミカの心に「不倫」という言葉が浮かんできた。何度も頭に浮かんで来るうちに、不思議とその言葉が胸に馴染んできた。

 そして気づけばミカは「それでもいい」と考えるようになっていた。

 それからは早かった。ミカは、どうやったらあの男に気に入ってもらえるか、そればかりを考えた。

 金曜日の夜、仕事帰りにこれまでに着たことのない露出度の高い服を買った。気恥ずかったが、そうするのが一番良いのだと自分に言い聞かせて、土曜日になるのを待った。

 とても強大なものが自分に迫ってくるようで、ミカは、怖くて怖くて仕方がなかった。



 土曜日、待ちに待った時間がやって来た。カフェに着くと、いつもの様子でマスターが笑いかけてくれた。マスターはいつも温かい。

「奥の部屋へどうぞ」

 そう声をかけられて、私は約七ヶ月ぶりにあの不思議な部屋へと入って行った。ドアを開けると、前回と変わらぬ風景が広がっていた。落ち着く色味、落ち着く空気、そして落ち着く香り。そして、あの人⋯⋯。ここ最近会いたくて、話したくてたまらなかった人がいた。

 彼を見た瞬間、体が熱くなり、顔が火照る。耳が火事になっているかもしれない。胸に響くような不思議な声で彼が声をかけてくれる。

「お久しぶりです。こちらにどうぞ」

 私はソファに腰掛け、上着を脱ぎ、異国情緒漂う男の顔をまっすぐ見つめた。彼の視線は私の顔に向いている。もっと下に落としてくれてもいいのにと思ってしまう。

 はじめのうち、私は最近のつらさや閉塞感について原因は伏せて話をした。以前のように、あの人は心地よいくらいの相槌を打ちながら、しっかりと私の話を聞いてくれた。最初はそれだけで天にも昇るような心地になった。だけど、話を続けていくうちにだんだんとイライラとした気持ちが芽生えてきた。

 私は知っている。これは相談屋という役割を全うするためのこの人の仮面なのだ。マスターといるときはもっと自然体で、話を遮ることもあったし、ちょっぴり怖いような顔をすることもあった。

 それが今はどうだろうか。私の話をしっかりと聞いてくれて、優しい顔をしているが、あの時とは全く違う。やっぱり、彼は私にはまっすぐ向き合ってくれないのだと思った。

 そう気づいてしまったら、怒りが膨れ上がってきた。私はマスターやあの恋人とは違うのだ。怒りに任せて私は口を開いた。

「私はつらいんです。本当につらいんです。毎日ご飯もちゃんと食べられなくなって来たし、夜も眠れません。仕事もうまくいかなくて、閉塞感を感じています。それがなぜだかわかりますか?」

 お得意の一瞬考えてから返事をする彼の仕草が、今日は滑稽に映る。

「いえ、わかりません」

 その言葉を聞いて、私の怒りは限界を迎えた。なぜわかってくれないのだ!
 私は声を張り上げてまくし立てる。

「あなたのせいです! あなたが私を見てくれないからです! あなたが私をもっと助けてくれないからです! あなたが私の近くにいてくれないからです! いいですか、私のこのつらさも、苦しみも、全部すぐ治るんです! 私には治し方がわかっているんです! それが何かわかりますか?」

「いえ、僕には分かりません。教えていただけますか?」

 裏切りだ。そんな言葉がまた浮かんできて隙間なく詰まり、心を張り裂こうとしてくる。なんとか耐えようとしたけれど、すぐに爆発してしまった。

「あなたが私と一緒にいてくれたらいいんです!
 私と一緒に過ごしてくれたらいいんです!
 一日だけでいいです! いえ、一晩だけでいいんです!
 だから、私と一緒に夜を明かしてください!
 忘れられない夜をこの身体に刻みつけてください!
 私のことをあの人と同じくらい愛して、そして優しく抱きしめてください!」

 私は力の限り怒鳴った。何もかもがどうでもよくなっていて、ただ心の赴くままに言葉を口に出して、目の前の男に投げつけた。

 男は私の顔を見つめたまま、何も言わない。
 一秒、二秒、三秒⋯⋯。ピタリとしたまま、空気すら動かない。
 部屋はとても静かだで、時間がゆっくり流れている気がする。
 なぜか、息が苦しい。
 呼吸をしなければ⋯⋯。

 私は大きく息を吸い込み、そして吐き出した。その瞬間、私は自分が何をわめいていたのかに気づいた。
 血の気がどんどん引いていく。
 私はなんてふしだらな女なんだ。なんてみだらで、身の程知らずな女なんだ⋯⋯。

 途端に目の前が真っ暗になっていく。
 もう、ここにいるわけにはいかない。この人の前にいて良いわけがない。

 出て行こう。そう思って、ソファから腰を浮かそうとした。その時、これまで聞いたことのない声色で言葉が伝わってきた。

「おっしゃる通りかもしれません」

 その声色は力強く、私のお腹に直接響いて来るようだった。まるで大きい和太鼓のような振動が私の心を震わせた。彼は私に考える暇を与えずに続けた。

「ミカさんが分かったとおっしゃった通り、言う通りのことをすれば確かに治るのかもしれません。その感覚はきっと正しいのだと思います」

 彼の目は今までに見たことがないほど、まっすぐで真剣だった。

「——だけど、僕にはできません。ミカさんの言う通りにしてしまったら、僕はこの仕事をやめなくてはならなくなり、恋人も失ってしまいます。マスターにも顔向けできなくなります。すぐに治す道が見えているのに、それを我慢しないといけないのはつらいと思います。でも、僕はそれをすることができません。しかし、その代わりに、ミカさんのその気持ちを違う方法で解消する方法を考えることはできます。だから、少しのあいだ辛抱させてしまうことになりますが、一緒に考えていきませんか? 僕にはそれができます。ミカさんにもできると思います」

 その言葉を聞いて、私はこわばりきっていた体を緩め、ソファに身を預けてめそめそと泣いた。


 後になって思い返して考えてみると、彼がこんな反応を返してくれて本当に良かった。もし、このとき「それは違う」だとか「体を大事にしなさい」みたいに言われていたら、私の心は折れてしまっていただろう。

 この時の私はひたすらに不安定で、自分が世界で一番みじめな人間である気がしていた。あのまま時間が経っていたら自分の醜さで頭がいっぱいになって、立ち上がれなくなってしまっただろう。そうなる前に、瞬く間に彼が救ってくれたのだ。

 私がダメなんじゃなくて、彼の都合で出来ないんだと思えて、私は安心することができた。残念な気持ちもあったけど、こんな自分を受け入れてくれる人がいるんだと心から信じられて、私は不思議と温かい気持ちでいっぱいになった。



 感情を出し切ったミカはへとへとになり、その後はおぼろげな頭で相談屋の話を聞いた。実はその話こそ、今後のミカにとって本当に大事なものだった。

 男はミカが本当は次のステップに進むのを恐れているのだということを看破した。ミカは、自分にとって本当に大切なこと、自分のパートナーや将来のことを考えなくてはいけないのに、その領域に足を踏み出すのが怖くて、男を隠れ蓑にしていたのだと指摘された。

 確かにそれは正しかった。なぜならミカが自分らしさを求めていくと決心してからは、男に対して恋愛の気持ちが湧いてこなくなったからだ。でも、それが分かるようになるのは先の話で、ミカはまだ混乱のさなかにいたのだった。



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