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【無料】誠樹ナオ『薬膳の料理人〜桃源探奇譚〜』前編

 蟠桃 (ばんとう)は我が大華帝国が原産とされる桃の品種で、普通の丸い桃とは異なり平たい形をしている。別名、座禅桃と呼ばれ、彼の西遊記に登場する孫悟空や猪八戒が食した不老不死の桃とも伝えられていた。
 包丁を入れると蝶のような形の切り口が風雅で、手に入りにくいことから都の貴族の間では殊に珍重されている。

 食糧庫を覗くと、酒に漬けた蟠桃を確認して軽く硝子瓶を振る。去年採れた物の残りだ。
 今日は昼過ぎに朝廷の使者がこの鶴翼館を訪れ、饗応する料理を準備するために厨房は上を下への大騒ぎになっている。

「……朝廷の使者とはいえ過剰接待だよな」

 王都の郊外、緑の奥深くに潜むこの鶴翼館の厨房が私の仕事場だ。
 鶴翼館は道教の導師や見習いが修行をする、地上にあって仙界と繋がる特殊な場所。帝や朝廷のため、市井のために道教に則った行事を行うなど、大華帝国の宗教的支柱でもある。
 ここに勤める料理人には、特殊な知識と技術が求められる。導師が仙界に近しくなるべく、食の面で助力(サポート)をする。要は、薬膳の料理人足らなければならない。

「『まだ』もったいないな」

 蟠桃漬けを棚に戻し、食料庫から他の食材をピックアップして厨房に戻る。

 まさか、私のような痩せぎすで貧相な小娘が、主菜(メインディッシュ)と水菓子(デザート)を担当する料理人だとは誰も思うまい。
 腕や足には、年頃の娘らしからぬ傷や火傷の跡が散見される。新しい料理を探求していて、油が跳ねたり包丁で切ってしまったり……。未熟な頃の努力の証ではあるが、私の傷を目にした人に痛ましそうに目を背けられることも多かった。

 頭の中で次の段取りを組み立てつつ、主菜の渾羊歿忽 (フンヤンモウフ)の焼きに取りかかる。

 渾羊というのは羊丸ごとという意味だ。歿忽は一種の宴席のこと、つまり羊をつかった宴席料理のことを指す。羊を使いながら、その肉を使うのではなく、釜の代わりに羊を使うというなんとも贅沢な料理だ。
 鵝鳥をつぶし、内臓をきれいに取って、その中に味つけしたもち米を詰める。それを更に、内臓をとってきれいに調理した羊の腹に収め、縫い合わせ、火で炙る。食べる時には、羊の腹から鵝鳥を取り出してそれだけを食べる。

 羊を丸一頭使いながら、食べるのは中に詰めた鵝鳥だけという無駄が美しいとして貴族には好まれる料理だ。

(なんてもったいない)

 その価値観は甚だ理解できない。

 とはいえ、鶴翼館の料理人としての責務は果たす。前日から仕込んでおいた羊を鉄の棒に吊るし、窯に火を入れる。
 ジューっという音ともに羊と鶏の脂が火に落ちて、香ばしい匂いが漂い始めた。

 取り出した羊の肉は……どうしようか。

 羊を吊るした鉄棒をひっくり返すと、火で照らされた石窯に影が落ちる。

「芦燕(ロエン)。観主(かみ)がお呼びだ。大広間へ行け」
「……大広間?」

 いつの間にか背後にいた兄弟子の声に、滴る汗を拭った。
 大広間といえば例の使者殿と、この道観を統べる観主が会談をしているところだ。
 そんなところに、下っ端料理人の私がなぜ……?

「早く行け」
「はい。火を見ていてください」
「言われなくとも」

(どうだか)

 微妙な火加減が、この愚鈍な兄弟子に分かるものか。

(なるべく早く戻ろう)

 手塩にかけた料理の火加減に後ろ髪を引かれながら、厨房を後にした。


 広間に行くと、使者殿の一行は前菜に舌鼓を打っていた。

「蟠桃を、新しい帝に献上せよ……と、仰るのですか?」
「そういうことになるな」

 床に膝をつき、拝礼している私に事情を説明したのは使者殿ではなく観主だった。使者殿は次の料理を待ちかねているのか、そわそわと何度も入り口の方に視線をやっている。
 鶴翼館の料理は滋養がつき、仙界に近付く上に美味いと評判だ。祭祀や外交を司る礼部の中で、鶴翼館への使者は人気の役目で諍いが絶えないらしい。
 私がここにいる限り、次の主菜が供されることはないのだけれど。

「広(コアン)皇太子が即位式にご所望だ」
「新帝の命令……」
「今年、蟠桃が献上できれば三年目だからな。即位にあたってどうしても欲しいと所望されている」

 その言葉に、サーっと血の気が引いていく。

 先帝が身罷り、 長い服喪の期間が間もなく明ける。
 私のような身分では遠目でちらりとしか見上げたことはないが、いかにも好々爺といった雰囲気の穏健な帝で、その治世も中庸を旨としていたと聞く。歴代の帝の中では市井の民から慕われていた方で、民たちがその死を悼んだのは帝という身分に対する儀礼的な心からばかりではなかったろう。

 心からの服喪に国中が鬱々としていたからこそ、現在の皇太子であるコアン様への御代替わりが待たれている。もう十日もしないうちに、今度は即位を祝う行事が様々に続く。

 先帝の王子たちも、その血を受け継いだのか傑物だという噂が聞こえてくる。コアン皇太子は切れ者で、賢帝になるだろうと国内はもとより近隣諸国からも評判だ。

 弟君のお一人も、 あの凄まじい難易度と競争率の科挙に、なんと最年少で合格したらしい。科挙だけでも大変なことなのに武科挙まで受かってしまい、先帝の頃から若くして名宰相と名高い。腹違いであるのに、コアン皇太子と頗る(すこぶる)仲が良いという。
 民草の次の治世への期待は、嫌が応にも高まっているのだ。

 「蟠桃が三年連続見つかる」ことは、帝にとって特別な意味を持つ。先帝の崩御と新帝の即位に跨り、時が重なれば、さぞかし即位式も特別なものになるだろう──

(うわ、プレッシャ〜……)

 観主の眼差しから、溢れんばかりの期待と切迫を感じる。鶴翼館がこれに貢献できるかどうかは、コアン新帝の御代でどのような立ち位置になるかを左右にするに違いない。

「あくまで現状では自然に成るものですから、今年も同じ場所で身をつけているとは限らな……」
「ロエン」

 私をこの鶴翼館に拾ってくれた観主は、勿体を付けるように殊更ゆっくりと私の名前を呼ぶ。頼みにくいことを頼む時の、この人の癖だった。

「其方は十年に一度見つかれば良いはずの蟠桃を、去年も一昨日も見つけ出した。この道観の安寧のため、新帝の平らかな御代のために、此度も必ず見つけ出して欲しい」

 ごくりと息を飲み込む。
 まだ即位していないとはいえ、帝の言は天上の言。

「御意」

 首と胴はまだ仲良くしていたい。

「ところで肉の焼き加減が心配なので、もう行っていいでしょうか」

 今にも涎を垂らさんばかりの使者殿に、聞こえるようにわずかに声量を大きくする。
 主菜がまだ出てこないと悟ったせいか、主菜を焼いているのが私だと悟ったせいか、使者殿は目を丸くして初めて私に視線を向けた。


 それから夜になり、日が昇るまでに急いで支度を整える。
 観主が護衛をつけると今回も気遣ってはくれたが、丁重に固辞した。

「蟠桃の在処を他には明かさぬつもりだろう」
「世知辛い女よ」

 他の料理人からの揶揄が、喧しい(かまびすしい)ことこの上ない。

(悔しかったら、自力で見つけてみるがいい)

「ロエン、これを身につけていきなさい」
「これは……!」

 心の中で舌を出していると、観主が与えてくれたのは……鶴翼館の紋章が入った翡翠の珠だった。

「何かあった時に、身元を証してくれるだろう」
「こ、このように過分な物を……っ」
「構わぬ」

 本来なら、仙界入りした正式な導師に与えられるものだ。

「それだけ、其方の肩に乗せたものは大きい」
「……ありがとうございます!」

 震える手の中の翡翠は心地よい重みで、淑やかな艶を纏っている。

「ロエンに、鶴翼館の紋章だと……!」
「しかも、あのように高価な珠を……っ」

 周囲がますます騒つくのを一喝するように、観主が地面に強く杖をついた。

「斯くも厳しい山に分け入る妹弟子に……何か、不服か」

 ピタリと周囲の声が静まって、私は深々と頭を下げるしかなかった。


 目指す蟠桃は深い山道を分け入り、この岩棚を登り、いくつか谷を越えた向こうにある。出立の時のことを思い出しながら、釘を連ねた板を岩壁に打ち付け、崖を登っていく。

 まるで森を守る巨神のような石柱が無数に立ち並び、夜の闇のように濃い緑と切り立った石肌を通る風が、ひやりと私の肌を撫でていく。幸いにして今は天候に恵まれているが、いつ霧が出るともしれない。

「鶴翼館の他の料理人(デブ) に、この崖が通過できるわけないでしょーよ……!」

 葦紐で足に固定した、草履の足裏に打ち付けた釘をも噛ませて進んでいく。この岩棚を越えるために作った手製の道具だ。

 昔は、鶴翼館で修行をする導師や料理人が自ら食材の調達を行っていたと聞く。けれど時代が下り、朝廷の庇護を受ける今、食材は購入するものと決まっているらしい。

 かつては、食材を採るのも修行の一環だったのだろうに。

 太古の昔から聳える奇峰と雲海は、水墨画のようだ。峰を囲むように奇松や怪石が織りなす風景に、仙人が住むという謂れも信じてしまいそうになる。
 天界の西方には、女仙を統括する西王母様の揺池(ようち)があるという。蟠桃だけが咲き誇り、実をつける大きな桃園があって、蟠桃会(ばんとうえ)と呼ばれる宴会が盛大に行われるのだそうな。

 もう少しで岩棚を登り切る。尽きそうな体力の中、小さい頃から鶴翼館で聞かされてきた言い伝えを思い出すと最後の割れ目に手をかけた。

「……なんだってこんな僻地にしか成らないのよ〜、蟠桃ってヤツは!」
「ほう、其方は桃泥棒か」
「!!??」

 誰もいないはずの崖の上から声がする。

(今のは……確かに人の声だった)

 そろりそろりと上を見上げると……
 次の瞬間、頭上の枝葉が大きく揺れた。

「う……わあっ!」

 枝の中から伸びてきた腕が、私の手を 強引に引っ張る。崖の上に引き上げられると、そのまま仰向けに押し倒され、気付くと喉元に剣の切っ先を突きつけられていた。

「動くな。おとなしくすれば、危害は加えない」
「……っ」

 首に触れた冷たい感触に、ゴクリと息を飲む。
 男は私の顔と身形をマジマジと見ると、形のいい唇を美しくしならせた。

「その珠の紋章は……」
「え……?わっ……」

 そのまま強く腕を引かれ、気が付けば男は私を腕の中にしっかりと抱きしめていた。

「其方、鶴翼館の料理人か?」
「そうですけど……」

 男の目に、私が履いている鶴翼館の紋章が入った珠が見えたらしい。

(持ってて良かった……!)

 観主のご厚情に、心中で更に感謝が募る。

「非礼を詫びよう」
「いえ……」
「いきなり剣を突き付けたりして、すまなかったな。地元の娘が、桃泥棒でもしにきたのかと勘違いした」

 ちっともすまなさそうには見えない笑顔で、男は体を離すと剣を柄に納めた。体を離すと、上着の下に男が身につけている帯が真っ先に目に入る。

 目にも鮮やかな黄色が目に入って、息を呑んだ。

「禁色(きんじき)……!」

 帝しか身につけることができない色。先の御代では紫だった。紫は天然に染料が存在する量が少ないがためどの御代でも高貴な色だが、先帝は特に好んだという。
 この度、即位するコアン皇太子は黄色が禁色だ。
 帝以外の者が禁色を身につける……それは、帝の勅許を得た特別な官吏であることを示すもの。

「ご、ご無礼を……!」

 ということは、この男は、朝廷から遣わされた武官だということになる。それも、かなり高い身分の──
 慌てて拝礼すると、男はクスクスと笑みを零した。

「其方、名前は?」
「……惟芦燕(ユイ ロエン)と申します」
「一致するな」

 鶴翼館から派遣された料理人の名前を聞いているらしい。

「俺のことはジアンとでも呼んでくれ」

(……とでも呼んでくれ?)

 では、正名(まさな)ではないのだろうか。

(もしかして、ジアン……って『監』?)

 礼部に属する監察官がそう呼ばれると、何かで小耳に挟んだような気がする。

 組んだ腕の間から、どこか人を食ったような笑みを浮かべる端正な顔をそっと見上げる。輪郭は繊細だけれど、弱々しい印象はない。切れ長の理知的な瞳を細めて、私を見下ろしている。

 服装は山を越えるのに相応しく簡素だけれど、質の良い木綿だった。私のような端女が着るごわごわした麻とは、全く違うものだ。
 一見すると細く見えるが、先ほど押さえ込まれた腕にがっちりと硬い質量を感じた。木綿の衣装に包まれた体躯は、さぞかし鞭のようにしなやかで逞しいに違いない。

 実に均整のとれた肉体で、食にも鍛錬にも拘っているのだろうと察せられる。
 料理人であるからこそ、人の観察には熱心になるものだった。自分の料理を食す相手の趣味嗜好や食習慣を嗅ぎ分け、満足してもらおうと……あるいは不興を買わないように尽くすのが習慣になっているからだ。

 何れにせよ、かなりの身分だ。なぜ、高貴な武官がわざわざこんな山奥に遣わされたのだろう。

 あれかこれかと考えを巡らせていると、ジアン様はひょいっと跪いて私と目線を合わせた。

「そ、そのようなこと……!」

 身分が下の者に目を合わせるなど、高貴な身分の人間にはあり得ない仕草にギョッとした。

「其方、鶴翼館でただ一人、一度ならず蟠桃を見つけているのだろう?」
「……はあ」
「よく見れば可愛いじゃないか」
「お戯れを……」

 言葉は丁寧にしたつもりだったけれど、つい、顎を掴む手を払いのける腕に力が篭った。いくら高貴な方が相手でも、馴れ馴れしくされて喜ぶ女のように扱われたくない。

「おお、結構な力だな」

 踊るような仕草で私の腕を避けながら、ジアン様は感心したように僅かに後方に後ずさった。
 男の料理人にただ一人混じって、毎日、鶴翼館の大勢の導師達が食べるものを煮炊きする大釜や寸胴を運び、鶏の骨まで切り裂く包丁を振るっているのだ。

「どうぞ、非礼はお許しを。高貴な方とお話しすることには慣れておりませんので」
「今のは、慣れてないから思わずという力の入れ方ではないだろう」

 私の無礼な態度にも、露ほども怒った気配はなく余裕が感じられる。

 コアン皇太子は、切れ者な上に深慮を尽くす人物だと聞く。即位の儀式に確実に蟠桃が献上されるように、わざわざこんな山奥に監視役を寄越したということだろうか?
 それとも、献上させるだけでは飽き足らず、自ら蟠桃の生息地を知りたくなったとか……?

「俺の意図を探っているのか?」

 口元だけがゆったりと弧を描く。目はちっとも笑っていなくて、背筋にひやりと一筋、汗が伝った。
 私の頭の中を、読み取っているかのようだ。ジアン様の言葉には裏があり、表情には二心(ふたごころ)がある。

「俺が、コアン帝から遣わされた監視役だと訝しんでいるのだな」
「……っ」
「別に、詰問してるわけじゃない」

 今度は花のような顔(かんばせ)でふわりと笑う。市井の女子なら、誰でもよろめいてしまいそうな芳しい笑みだ。

「諸々は道々説明するとして、先を急ごう。それほど、余裕のある道程ではないのだろう?」
「それは……そうですが」
「とにかく、俺は其方を監視したり、何か裏があったりするわけじゃない。俺がここに来たのは……」

 ジアン様が言いかけたその時、ひゅっと鋭い音が空気を引き裂いた。

「伏せろ!」

 反射的に駆け出そうとして、それより先にジアン様に体ごと引き倒された。

「囲まれたな……」
「ええ……っ!?」

 地面に這いつくばるように伏せて、ジアン様が耳元で呟く。その途端、再び鋭い音がして、背後の樹木を切り裂いた欠片がこちらに飛んできた。
 振り返れば、鉄製の鏃が樹木の幹を二つに割っている。
 状況を理解した途端に、次々と矢が飛んできた。矢継ぎ早とは正にこのことだ。

「な、なんですか、これ……!」
「頭を上げるな」

 匍匐したまま、ジリジリと矢を避けてジアン様は私を引きずっていく。
 けれど、矢は次から次へと茂みの向こうから飛んできて、こちらは見通しのいい岩棚の上にいる。

「ど、どうすれば……」
「ロエン、高いところは平気か」
「どちらかといえば、苦手ですけど……」
「そうか、じゃ……」
「え……?」

 ふわりと体が浮く。

「ちょ、ちょっと……!!」
「喋るな、舌を噛むぞ」

 私を横抱きに抱き上げて、ジアン様は崖の下におどり出る。
 そのまま体が浮遊感に包まれたのは一瞬で……すぐに真っ逆さまに崖の下に落ちていった。


 崖の下は滝壺だった。

「ぶえーっくしょん!」

 ジアン様の懐に抱えられるようにして、どうにか下流に流れ着いたものの荷物も衣装もずぶ濡れだ。持ってきた荷の半分は、ここに流れ着くまでにどこかへ行ってしまった。
 くしゃみをしながら枯葉と落ちていた木の枝、火打ち石で火を起こし、着ていた衣装を乾かしながら荷の残りを確認する。

「せっかく登ったのに……」

 あの往路(ルート)が使えないとなると、さらに回り道をするしかない。

「うーん、それにしては食料が心もとないなあ」

 この場所に落ち着いた頃には、陽が落ち始めていた。
 追っ手を振り切ったのはいいけれど、水と食べ物がなければ道程は続けられない。水は川があるのでなんとかなりそうだけど……

「食い物が足りないのか」
「!」

 上着を脱いで、下袴だけを履いたジアン様が背後に立っていた。

「ちょ、な、なんて格好してるんですか……!」
「なんて格好って……上着は濡れてしまったし、脱いだ方が早く乾くだろう」

 ジアン様を直視できなくて、私は慌てて視線を逸らした。わざとらしく荷を漁る私の側に、ジアン様が屈み込む。

「慣れていないのか。鶴翼館では男子ばかりでよりどりみどりだろう」
「私みたいな変わり種と、好んで口をきく男子なんておりません」

 荷物の中から、小ぶりの鍋を取り出す。
 重いものは捨てろと言われたけれど、煮炊きをする鍋がないと山の中では食事の内容が限られてしまう。食材はどうにかなっても、鍋だけはどうにもならない。

『鍋……鍋だけは……っ』

 溺れかけながらも、そう荷物にしがみつく私を、呆れたようにジアン様は下流まで運んでくれた。
 早速、石を積んで煮炊きをする支えを組むと、川で水を汲んで湯を沸かし始める。特に、水の安全は重要だ。沸かして飲むことができるならば、それに越したことはない。

「変わり種?」
「女の料理人を良しとする者ばかりではありませんので」

 観主に一番下っ端に留め置いてもらっているのも、妬みや嫉みをかわすための処世術だ。それにしては重要な仕事を次々と任されることで、余計に僻みを抱いている料理人もいるけれど。
 熱い鍋を押し付けられたり、包丁を足元に落とされそうになったり……そんなことは枚挙に遑がない。

「……もしや、腕の傷は他の料理人にやられたか」
「ご覧になったのですか」

 袖で覆っていた肌が、服を乾かすのに脱いだ時に目に入ったのかもしれない。

「全部ではありませんが」
「そうか……」
「お目汚しを、すみません」
「いや。俺こそ不躾なことを言った」

 ジアン様はストンと私の隣に腰を下ろした。

「悪かったな。変に揶揄ったりして……」
「……いえ」

(素直だな)

 身分の高い人にあまりにも素直に詫びを言われて、どうしたらいいのか分からない。

「……食料は、道々調達しながら行くことになるかと思います」

 気まずさを誤魔化すように現実的な話に戻すと、ジアン様は鷹揚に頷いた。

「そうか。飯なら、俺も持ってきたが水に浸かってしまった」
「生米なら、何も問題ないのでは?」
「炊いて団子のように丸めてある」
「……なぜ?」
「なぜ?生米では食いにくいだろう」

 贅沢な。
 山では保存が効く状態の方が重宝するのに。

「ください」

 木を編んだ箱が、差し出した手に乗せられる。蓋を開けてみると『元』丸めた米がビシャビシャに水に浸かっていた。

「粥にでもすれば食えるか?」
「それもいいですけど、羹(スープ)の材料が流されてしまいましてね」

 キョロキョロとあたりを見回すと、川が分岐し水が溜まっているところに蓮の葉が浮いていた。
 衣を乾かし、湯を沸かしている火の上にもう一段高い木組みを組むと、蓮の葉を乗せる。その上に水に浸かった飯を乗せると、火で炙られた飯から水分が出てコロコロと蓮の葉の上を転がり始めた。

「燃えないのか……」
「生木と葉は水を含んでいるので、遠火であればそんなにすぐには燃えません。それに、蓮の葉の表面は水を弾く性質があるんです」

 そこに燻した羊肉と味噌を入れると、香ばしい匂いが漂い始める。

「ん?そういえば、鶴翼館に遣わした礼部の官吏が、渾羊歿忽を馳走になったと言っていたな」

 ぎくり。

「まさか……その肉ではないだろうな」
「なんのことでしょう」
「こら、俺の目を見て話せ」
「火から目を離すと、炒飯(チャーハン)が焦げますので」

 隣で沸かしている湯に、生姜をすりおろして投入する。ほんの少し蜂蜜も加えて杯を差し出すと、ジアン様は素直に受け取った。

「どうぞ」
「ありがとう……温まるな」
「それはよろしゅうございました」
「で、その羊は?」

 ……誤魔化されてはくれない。
 本来なら、渾羊歿忽は羊を使いながらその肉を食べないというところが贅沢だと考えられている。

 つまり、私のやっていることは邪道だ。

「……食べ物を粗末にするなど、仙界にあってはならないことですので」
「ほう」
「これも鶴翼館の料理人として、修行の一環だとお考えいただければ」

 炒めるのに使ったのとは別の蓮の葉に盛り付け、炒飯を差し出す。

「!」

 一口食べて気に入ったのか、ジアン様はすぐにかき込むように口に運んだ。

「……美味い」
「気に入って良かったです」
「これは、確かに無駄にするのは忍びないな」
「でしょう?」
「山の中で、こんなに美味いものを食べられるとは思わなかった。味噌の加減がちょうどいい上に、蓮の香りも味付けになっている」

 かき込むような食べ方なのに、全然粗野には感じない。育ちの良さが端々ににじみ出ている。

「……さっき、腕の傷は他の料理人にやられたものが全てではないと言ったな」
「そうです。未熟な頃に自らの腕を炙ったり、切ったりしてしまいました」

 笑いながら言うと、ジアン様もつられたように笑ってくれる。
 私の腕をとって袖をめくると、ジアン様はそっと一番大きな傷跡に指を這わせた。

「では、この傷は勲章のようなものだな」
「……っ」
「その研鑽があったからこそ、こんなに美味いチャーハンを食うことができる」

(気味悪がったり、同情されたりしなかったのは初めてだ……)

 初めて胸に込み上がってくる感情に、どう応えていいのか分からない。
 食事を終えるまで、私の口から更なる言葉が発せられることはなかった。


 食事を済ませて 火にあたりながら茶をすすっていると、ジアン様が問わず語りに話し出した。

「……其方の耳に入れておきたいことがある」
「はい」

 さっきの矢を射かけてきた者たちのことだろう。
 山賊だろうか、それとも……
 私はジアン様の言葉の続きをじっと待った。


後編は2020年8月6日(木)公開予定です。

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