【小説】小野寺ひかり「昼下がりの人妻たち」文学フリマ特別号
堪え性のない膀胱なんですよ、とパンツにもらしたわずかな尿に溜息をつく。それはトイレのドアを開けた瞬間だったような気もするし、便座をあげたときでもあり、ズボンをおろした時には確実で。つまり、あ、と思ったときには漏らしているようなものですよ、と誰に言い訳するわけじゃないけど言い訳してしまう。
パート先で用をすませてくればいいのだけど、あいにく潔癖症なんですよ。あの店の裏手でぽつんとした、寒々しいトイレにはいるのは嫌なんですよ。だからといって、尿をもらすのは許されるのかしらん、と問う夕方18時。日の入りが早くなったことを小窓から察する。手のひらに落ちてきた日差しを掴もうとしたら、手の甲ですり抜ける。いつの間にか母の手とそっくりだ。その手で水を流す。
パンツを洗濯機に脱ぎ捨てたまま、洗濯物を取り込もうとベランダに立って、すんと、鼻をすすった。お隣さんから流れるタバコの匂い。ここぞとばかりに吸い込んだ。父が愛煙家の部類だったので、匂いは当然のもので。やー、タバコくさーい、とカラオケ店で話す女友達の声が、いつの日かの記憶が、脳みそにリフレインする。頷いているフリをして、そうか、嫌なもんなのか、とすんすん鼻をならしていた。夫は吸わぬし、気づくと街中でかぐことも少なくなってしまった匂いをかぎながら鼻水をすすっていたがなかなか上手くすえぬ。ロングスカートにノーパンなせいで、股間が少しスースーしているせいだろうか。
「すんませんね」
とお隣から女性の低い声がした。指先からたゆたう、スモーク。電子タバコじゃない。本物。
「ああ、……え? なにか?」
揺れるスモークの向こうで、黒い蝶のタトゥーが見える。左肩が動くたびにまるで羽ばたいているかのようだと思って。
「タバコの煙。洗濯物的に、ね。よくないっすよね。なんか今日いいかなって勝手に」
「ややや、そんなことないです。気にしないでください。ちょっと鼻がアレで、垂れてて、こちら下品で申し訳ない」
「普段は外で吸ったりしないんですけど、いい夕日だったから、つい」
ああ、とため息が出る。眼前にはすでに沈み切ったような夕日。鼻の下に指を添えると、間違いようのない鼻水の存在。おっとっと、気づかれているやら気づかれていないやら。さささ、と手元で洗濯物を手繰り寄せようとするが、がしゃんがしゃんと絡まってしまった。大人しく根元からぐいとピンチハンガーごと掴んで部屋にホイと投げ入れた。彼女口元で小さく灯る赤色の炎を見つめていた。首元でばっさりといく、ショートカットの切れ味のよさが見事だった。うなじの白さが浮かんでくる。
「お寒くないですか?」
「……たしかに。そろそろ冬ってかんじの空気ですよね。じゃあ、ども」
お隣さんは、そういって、タバコを片手に部屋に戻ってしまった。ガラガラとガラス戸が閉まる音を聞いていた。
ゆっくりとゆっくりと、夕闇が団地を包んでいく。わたしもそろそろ冷えてきた。部屋着にすっかり着替えてしまおう。新しいパンツもはいて。
夫が帰宅するやいなやお隣さんの話を報告した。小柄な女性で、なんていうか、丸顔なのに、シュッとしてるんだよ、って。 フフフと笑いながらみそ汁の入った鍋を火にかけた。夫もそろいで買った部屋着に着替えながら返事をする。
「へえ、と、そりゃすごい。こんな団地にそんな変わりもんがいたとはなあ」
「もう岡崎京子の住人がぽんって出てきたみたい。家の中はきっとジャングルになってるかも」
「ずいぶんと夢がある話だ。ワニ皮のバッグができたら言ってくれ」
「あ~! ごめん、みそ汁アツアツ!」
私は慌てて火を消して沸騰させてしまったみそ汁を見つめた。グツグツとあぶくを出すみそ汁。味噌の風味が消えるというのだけど見た目には分からない。本当に風味は損なわれてしまったか確かめる術はなし。そこまで敏感な舌を持ち合わせている自信があったならと、フーフーする。
お隣には「松」の表札がかかっている。パートへと向かう私は松さん、お松さん、お松、と可愛らしい姿と渋みのある態度とのギャップにぴったりの名前を繰り返し唱えては、彼女の左肩の辺りで生息する蝶の姿を思い返した。
この町では少しだけ「お高い」スーパーで、私はパートしている。やることは決まっていて、品出しに、商品発注、在庫管理、レジ打ち、商品案内。ある程度の時間を捧げる対価にもらえるある程度の給金。大きなミスを起こさずにいれば、強い叱責を受けることはない立場は存外悪くなかった。手の空いた瞬間を見抜かれたのか、パート仲間で、同じ団地の棟に住まうUさんが耳打ちする。
「ねえ、金子さん、聞いた? 同じ団地にね、いるでしょ、ふしだらっていうのか。いれずみのある若い女の人」
「タトゥーの」
「いやよねえ、なのに堂々としてて。悪さでもしてるんじゃないかって噂になってるのよ。この間、何か声がするなあって。真昼間よ。うちって、おたくの斜め上の階じゃない? 聞こえたのよ」
思わせぶりなトークで、CMまたぎのテクニックか。Uさんは下のほうに指をさして、こともなげに言った。
「あえぎ声」
「……へ!?」
「大きな声出さないでよもう。あのうち、ひとりで住んでるみたいじゃない。おかしいな、おかしいな~。って、男性をとっかえひっかえよ」
「何かの間違いってことは。わたし、隣ですけどそんな声聞いたことないですし」
「うそよ~。きっとあなたがパートに来てる日を狙ってるんだわ。下から上の声って、響くもの」
「ははあ……」
私の部屋からあなたの部屋に、一体何を聞かれているんだ、気になるが口をつぐんだ。噂を信じるわけではないが、あなたの話は理解した。なんて驚きなの!と目を開いて微笑みのサイン。Uさんはお松さんのふしだらさについて話を続けた。
お色気たっぷり。昼下がりの団地のお松さん。何をして過ごしてるんだろう。
お松さんの左肩から自由になり、腕の中で羽ばたくタトゥー。白い体の上を飛び、腕から腕へ、首筋から胸元へ、背中へとひらりと回り、彼女の指先に静かに止まる。少し長い前髪から、のぞく視線。目が合う。そしてスモークの香り。空想のなかでドキリとする。
気づくとUさんの話す内容は、今夜開催されるパートや正社員らが参加する懇親会のために子供を預けてきただの、時給が出ないだのということに話題が移っていたが、レジが混雑してきた頃合いだったので、ヘルプに出てきます、とその場を立ち去った。
懇親会は、街のどこにでもある居酒屋チェーン店で開かれた。店長やパート仲間も、本社の人間らも10人程度が集まった。この時間帯も働く夜勤メンバーは入れ違いに「おつかれさ
まです。行ってらっしゃい」とクールで、これ見よがしに溜息をつく者もいたが、まあ、だよね、って共感できた。特にUさんの気合の入ったミニスカート姿には、その日の疲れも吹き飛ぶくらいに笑いがこみ上げてくるというか……。夫に写真を見せたくて、私は「お似合いだから~」と嘘をつきながら、スマホカメラをUさんに向けていた。せせっとお酌をして回ったり、常に男性陣に寄り添う張り切りよう。仕事帰りとは思えないほどだ。私はその役目をさっさと諦め、少し早めの夕飯をかきこむことに集中し始めた。
よっこいせ、と瓶ビールを片手に店長が隣に座る。
グラスを空にして、店長のお酌を受けた。代りに注ごうとすると、静止を受けた。
「ぼく明日朝6時だからやめとくよ。いや、それにしても金子さんはさ、仕事も丁寧だし、ほかのパートさんと違って頼んでる仕事も多いんだけどね。愚痴も文句も言わないじゃない。助かってるんだよ」
「そうですか」と注いでもらったビールに口をつける。
「今度、時給あげてもらおうと思ってるんだけど、もう一日、週のどっか出れるようにならないかな」
年齢の近い店長相手は、同僚を相手にする感覚に近くてペコペコするのも違うのだけど、その日は曖昧に微笑んだ。
「時給上がってから考えますね」
「言うじゃん」
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