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カニカマ物語① 誕生編「クラゲ」

カニカマを語る前に、クラゲの話から始めましょう。

もともと、カニを作ろうとしてカニカマが生まれたわけではありません。もとはと言えば、「人工クラゲ」の開発を目指していました。

中国で文化革命が起きていた1960年代後半、中国国内の政情不安と日本との国交悪化により、それまで中華料理や珍味として使われた食用クラゲが輸入できなくなりました。そこで、困った珍味問屋さんから「人工のクラゲを作れないか」という依頼がスギヨに舞い込みました。1959(昭和34)年から「人工のカラスミ」を製造していたスギヨなら、もしかしてクラゲも作れるのでは?という期待があったのです。

皆の期待に応えようと、腕まくりをして取り組んだ人工クラゲ開発でしたが、なかなかうまくいきません。水産試験場の研究者に協力してもらい、海藻のネバネバ成分である「アルギン酸ナトリウム」と卵白を組み合わせて、クラゲの完成に近い形までたどり着いたものの、最後に醤油などで味つけをすると、クラゲ特有のコリコリとした食感が失われ、フニャフニャに溶けてしまったのでした。

「これじゃ商品にならない・・・」

結局、人工クラゲは日の目を浴びることはありませんでした。

肩を落としながらも試行錯誤を続ける社員たち。あきらめきれない中、クラゲの失敗作を刻んだり、束ねて食べてみたりするうちに、ひとつの閃きが生まれました。

「あれ?これ、何かに似ているな・・・カニだ。カニにそっくりだ!」

カニカマ誕生50周年記念短編映画「カニカマ氏、語る。」より

閃いたのは当時、開発チームをまとめていた専務の杉野芳人さん(後に社長になります)
おやつ代わりにカニを食べていたという能登の人ならではの「カニセンサー」が発動したのでしょう。

クラゲの失敗作がカニを連れてきてくれました。

カニカマ開発当時、開発主任として実務を担っていた清田(せいだ)稔さん(86)は、こう振り返ります。

工場で作業する清田稔さん

「クラゲに向かって突き進む中、食感が失われるという大きな壁にぶつかりました。失敗に終わりそうな時、ふっと横を見ると別の道が見えた。不思議なことに、最初に目指していた道よりも、横にできた道のほうがもっと面白かった」

クラゲを目指して一直線に進んでいたところに、カニが横歩きで入ってきたようです。

「今の仕事が次の仕事を教えてくれる」

清田さんは、クラゲに没頭したからこそカニの道が見えてきたと言います。失敗は恐れるものではなく、新しい世界へ連れて行ってくれる大事なものだと教えてくれたのでした。

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