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マスメディアのうそ

いま持っている生徒たちが中3なので、卒業式が終われば学校に来なくなる。一週間前から授業の多くは予行練習でつぶれており、他の学年よりひと足早く最後の給食がやってきた(写真)。
給食はいわゆる「盛って」いないので、この写真は全くおいしそうに見えないと思う。献立名は、鶏肉とあさりの炊込ご飯、けんちん汁、ちくわのきつね揚げ、わかさぎ揚げ、白菜と糸昆布の浅漬。漢字かなまじりの献立名はただの沢庵でもおいしそうにみえるが、実際、これは食べてみるとおいしいのである! 給食センターではなく、自校で作って運ばれてくる。大根はあっさり軽いみそ味、わかさぎも炊込ご飯もだしが効いていて、ひと口ごとに味がしみだしてくる感じ。去年、「おいしい給食」というドラマが放映されていたけれど、公立学校にいる間は、私も給食のために学校に来ているのだ。……甘利田先生かい!

舞台は古きよき昭和。放映中は「おいしい給食見た~?」が朝の職員室の挨拶でした

みんながみんな中学受験しているわけじゃない

学校では、来年度から生徒が増えて3クラス分の増設になる。もちろん給食目当てということはないだろうが、似たような話は他校でも聞いており、実は「私立中ブーム」は現場からそろそろ終わりはじめるのではないだろうかという気もしている。
文科省は私立の小中高に通う子がいる家庭への就学援助を平成29年度から行っており、学費の面では公立と私立の負担はさして変わらなくなってきた。ではなぜ「私立受験を支えるのは父親の財力」(ドラマ「二月の勝者」より)とまで言われるのかというと、学費ではなく塾費が問題なのだ。

中学受験ブームを象徴していたドラマ「二月の勝者」

政府は塾の費用などもちろん免除してくれない。週一回通うとしてテキスト代とあわせて月2万円、それに夏期講習や冬期講習、合宿費までついたら年間50万円は行く。有名中学受験の場合、小学校4年生から準備するので、3年間で計200万円以上の出費となる。そこまでして、給食もない私立中学に通うだろうか。大学受験に有利な学校に行きたいというなら、実は高校受験で勝負しても十分間に合うのではないか? 保護者たちはそろそろ気づきはじめており、小学校3,4年生から準備しなければならない私立中学→私立高校(大学付属)のルート熱はそろそろ冷めてくるんじゃないか……と、公立中学に入る地元の子の増加に思った。
ドラマでは熱く取り上げられたけれども、全国区のドラマで放映される頃には、ピークアウトしている……という見方がある。サザエさんの長谷川町子さんが、「家電はほとんどの家庭で使われるようになってから漫画に登場させる」と決めていたように。これが流行、といわれるころには、現場では熱が冷めている……そういうことはどうしてもあるように思う。
だから、「ブームだから」「よその家でも行っているから」という理由で私立に大枚をはたくのは少し思いとどまったほうがいい。私立の特徴だった、ICT教育の導入には、公立もそろそろ動きはじめている。タブレットは全生徒支給になっているし、オープンキャンパスで見学に行って、各教室に電子黒板があったら、私立と遜色ないICTが導入されている可能性もある。
ちなみに私立や国立の超有名進学校は、アメリカの大学でいう、いわゆる「飛び級」をしていることが多い。中一で大学受験の勉強をしていることもある。実質的な飛び級なのだ。そして勉強することがなくなった中三あたりだと、教科書すらやらず、弁論大会や英語劇、ロボットコンテストに取り組んでいたりする。「教科書は家で勉強してね」というスタンス。もちろん教科書の内容はさほど難しくなく、自習でも十分なくらい基礎的なのだが、それも「友達がいないとやりがいがない」というタイプは、教科書を学ぶためのライバルと会いに塾に通い続けることになる。
それなら、普通に学校で教科書をやってくれるところに通う、という道もあるだろう。矛盾しているようだが、東大合格者を数十人単位で送り込む学校ほど、「うちは受験予備校じゃない」というプライドが高いように思う。ちなみにそういう学校でトップを取れるのは、教科書を見ただけでカメラのように画像記憶できたり、左手と右手に鉛筆を持ち左右から計算できたりするタイプ。私も会ったことがないのだが、年配の先生が「一万人に一人くらいいる」と仰っていた。そういう人は、本当に、そういう人向けの学校に行かないと、孤独でしようがないことと思う。超進学校は、そういう孤独な天才向けの学校であり、塾に通って頑張るというのはどうしても少し違うように思ってしまう。

英語ができる=キャリアウーマンになれる、のウソ

ではなぜこんなにも「塾へ行き私立中学に受かり付属の高校→大学へ」のルートができあがってしまったのかというと、某大手塾(中学受験中心)がマスメディアとタッグを組んでキャンペーンを張った……というのを昨年聞いた。仕掛けだったのか、と少しびっくりした。
マスメディアというのは、どこかで何かが流行ると後追いで取材する。だからどうしても、これが流行! と取り上げるころには「終わっている」ことが多い。しかし、その一方、誰も何も求めていないのに、あたかもブームであるかのように取り上げて世間をあおる、ということもできてしまうのだ。

幻想文学と純文学を掛け合わせたような作風の松田青子著『英子の森』(河出書房新社)

 最近、『英子の森』という本を読んだ。短編集だが、表題作は読んで字のごとく「英子ちゃん」という英語がよくできる女の子の話。著者が同志社大英文科卒なので、どうしても自伝・自虐的なところがあるのではと見てしまうのだが、英子さんは二十代前半になっても、英語で簡単な受付をするくらいの仕事にしか就けない。英語ができれば幸せになれる、特に女子は……と母親にも学校にもマスコミにも広告にもそう教えられて必死にがんばったのに「嘘ばっかり! 嘘ばっかり!」という内容だ。そもそも誰もが勉強する英語で頭角を現すには、英子さんがそれまでしてきた努力と違う角度の努力が要ることは容易にわかる。
今より少し前、まさに英会話ブーム、学校を卒業しても英語は習い続けようという機運が起こったとき、私もマスコミの一員として取材させていただいた。英語ができると本当に幸せになりますよ、とは取材させていただいた監督は言わなかった。今思えば、マスコミの空気を変に読まない、とても良心的な方だったと思う。

英語ができても仕事なんか来ない。日本語ができる日本人が、「日本語ができる」というだけでは仕事にありつけないのと同じ。

……ということでした。そりゃそうだ。英語ができて医療ができる。カメラマンで英語ができる。英語ができて野球ができる。……そういう人が「プラス英語」で仕事を広げていくのであって、英語「だけ」必死で勉強してきた英子さんが、派遣で食いつぶすしかないのは、もう、あたりまえのことだったのだ。もちろん英語「だけ」でも仕事ができないことはない。しかしそのためには、翻訳とか通訳とか英語教師とか、すごく限られた職業に向けての専門的な努力が必要となっていくのだろう。
連載している雑誌には、ほとんどその通り書いた気がする。その皮肉をどれくらいの人が気づいたのかな。雑誌に広告をのせてくれる英会話学校は、記事をいやがりもせず、あまり気にもしないようだった。まあ、一人くらいが疑問めいた記事を書いても、チリのように吹き飛ばされるくらい、「女性のたしなみ」「教養としての英語熱」はすごかったのです。

英語ができれば道はひらける、と信じて英語「だけ」勉強して他のことは何もしなかった英子さん。彼女はマスメディアの犠牲者だろうか。
似たような話を最近、ウェブの対談で読んだ。70年代、「女性の幸福は結婚」説が大ブーム。「大学に行くともらい手がなくなる」「職業婦人は男性に嫌われる」「短大を出てすぐ家庭に入る女性が勝ち組」と言われ、仕事を一切しなかった女性が、いま中高年になり、夫との死別・離別・DVで社会に放り出された。「あのとき専業主婦が幸福とあおった連中はみんな責任を取れ」という内容で、その対談の中では語られていなかったけれども、60代で撲殺されたバス停のホームレス女性が思い出されてしかたがなかった。
「サンデー毎日」で連載中の小説、桐野夏生さんの『真珠とダイヤモンド』はまさに80年代バブルが舞台。せっかく証券会社で働いていたのに結婚相手に請われてあっさり退職、都心のマンションに住んで毎日遊んでいる主婦が描かれる。実は彼女の末路は連載初回で証されている。胸が痛いが、彼女は「犠牲者」というよりは、時代の象徴たる存在として作者に書き紡がれようとしているふうに見える。

マスの広告なんて信じない

そうして「マスメディアはみんな広告」と思うようになった私には、こういう#NOTEの存在は本当にありがたい。ただ好きなものを好き、そう表現する人の集まりのようで、眉にツバをつけないで済むのである。SNSにはもちろんインフルエンサーがいるけれども、ミニマムな分、人の一生を変えてしまうほどの力はないと思う。
リーマンショック前年のころ、それこそ有名大学を出ても就職できない、未曾有の氷河期が発生した。今でこそ、社内留保を優先させてリストラと採用手控えを進めた経団連の責任と多くの人が指摘しているけれども、経済紙は「本人の自己責任」「企業が求めているのは仕事ができる人(就職難は能力がないせい)」と言ってはばからなかった。そのころ読んだビジネス誌にのっていた「唐揚げ伝説」を今も忘れられない。
  

8ケの唐揚げを3人で分けるには

唐揚げスカウトは都市伝説

その居酒屋には、企業の会長、取締役、社長といった面々で行った。三人で唐揚げを頼もうとすると、ひと皿四ケ、とメニューにある。十二ケ頼むのは多すぎる。「まあ、ふた皿頼もうか」と相談していると、そばで器をさげていた青年が言った。「ひと皿三ケにも変更できますよ」
見ていると、青年は、テーブルもきっちりと片方向で拭き、客の手があがればテキパキと行く。見ていた社長は叫んだ。
「君、ウチに来ないかと言われないかね?」
青年はきょとんとした。「ええ、月1度くらい言われますが……どうしてわかるんですか」
記事は、「本当に仕事ができる者にはキャリアパスはいつでも開かれている」と結んで終わる。

それを読んだとき、「できる人はすごいなあ」と素直に思った覚えがある。学歴も何も関係がない、誰かが見ているものなのだと。
しかし今ならわかる。雇用崩壊の責任を「都市伝説でごまかしてんじゃねえよ」
その証拠に、同じような唐揚げ伝説を、経団連がらみのビジネス紙で何度も読んだ。その一方、どこからも「僕は居酒屋から企業エリートに転身した」という「摩天楼はバラ色に」系の本人談を全く聞かないのである。

私が知らないだけかもしれない。僕がその唐揚げ伝説の主人公です、本当にあった話です、という人は教えてください。そこまで企業に請われてもなお居酒屋から動かなかった理由と共に。

ブラッシュアップしないのは本人の自己責任というけれど


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