コロナと。 ②SNSとこちら側


 SNSの内容からイメージしていた世界と現実の世界は少し違っているようだ。

 ネットである似通った価値観の情報が共有されて、いわばネット民共通認識のようなものが形成されることもあるのかもしれない。
 SNSのシェア頻度の高い情報(感情面を含む)が、あたかも大勢の人の総意だとイメージしがちになる。でもそれはどこまで現実を反映したものなのかは疑問の余地がある。


※ここで言う共通認識とは、例えばTwitterなら「100日後に死ぬワニ」など、ユーザーの多くが知っていそうな事。流行やよく触れる価値観や多く拡散されている情報などのことだ。「ああ、アレね!」とお互いにやり取り出来そうな事柄のことだ。


 例えば、何らかの「ある傾向」を持った投稿が少し増えるとする。それらがタイムラインに流れる機会が増えるので、当然リツイートやシェアなど拡散される機会も増える。すると、増えてきた投稿(しかもそれらは何らかの共通する傾向をもったもの)が目につくと、それとは違う意見を持つ人が投稿しなくなるようなケースも起こってくるのではないかと思う。

 つまりネット上でも空気を読むのだ。そのネット媒体の中で自分の価値観がマイノリティだと感じた人は、ネット上での炎上や批判、フォロワーとの衝突を避けるために、投稿を控えるようになる。これによって、更にある特定の傾向をもった投稿ばかりが目立つようになり、まるでそれが大多数の意見であるかのように錯覚するということもあり得ないだろうか?

 ネット上では誰もが匿名で呟ける空間だろうが、SNSの種類によっては、ネット上であっても空気を読んで投稿しなくなるということも起こりうるのではないかということだ。すると、ネット上でも主流の価値観とマイノリティの価値観が生じるように見える。それに翻弄される人もいるかもしれない。

 だが実際は、投稿した人の意見だけが現れていて、他にも多様な意見を持っている人がいるのに、そうした人々が投稿していないだけなのかもしれない。

ネットやSNSの利用頻度が低い人とやりとりをすると、それこそ「多様性」なるものを実感するという不思議な現象も起こる。

 ネットと、実際に人と人とが面と向かって対話するときと、どちらがより自由にものが言える状況があるのか、という疑問も生じてくる。

少なくとも対面で対話しているときに、発言が「炎上する」と言うことはないだろう・・・。

私には、ネットの普及によって自由がもたらされたかのような漠然としたイメージがあった。しかし、実際はどうなのだろうか?という疑問符がクッキリと浮かびあがってきたのが今回の出来事(コロナ)だった。
 
「SNS疲れ」という言葉も、以前に増して聞こえてくるような気がする。そもそもSNSで疲れるとは具体的にどういうことなのか?単に情報を得ることに疲れているのか?それとも、自分でも無自覚ながら、SNS上での空気を読んでいて、そのことに疲れるのか?

空気を読むということは、実際の人間関係の中で用いられてきたと思っている。

ところが、今は、知り合いとの関係でさえ、実際に会うこと以上にSNSで繋がっていることが多くなっているかもしれない。会ったことのない人やフォロワー同士の間でも、投稿内容から相手の様子を読み取るということがあるだろう。
 実際に接している時もお互いの空気を読み、実際には会っていない時も、ポケットの中に常に持っているスマホの中でしょっちゅう、自分を取り巻く世界の空気を読むのに神経を使っていたとしたら、きっと気持ちは休まらないだろう。

ここで書いたことは、私の中でもまだハッキリしないものが多く、厳密さには欠ける。ある部分何か別の問題を混同しているかもしれない。うまく整理し切れていないとも思う。

コロナのことで、私が考えさせられたテーマの一つとして記しておきたいと思う。

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