受身の姿勢で、真っ逆さまに落ちる
前回の記事の続き
私がTetugakuyaで、人との出会いを通して、いろいろなことに触れる機会があったように、お客さんもまた、いろいろなお客さん同士との出会いを通して、閃きや喜びがあることを願っていた。
何か、こうでなければならないようなあり方ではなく、どんなふうにでもいいからやってみよう!そういう場があればいい。
私が願うまでもなく、型破りな(クリエイティブな)お客さんたちが、試行錯誤しならが、挑戦していく過程に、まるでその場の一員のようにいさせてもらえることも、お店をやっている面白さだった。
だが、そういう受身の姿勢が、悪く作用するケースもある。
いいことばかり書いたので、最悪のケースもきちんと書いておこうと思う。
Tetugakuyaは、未完成で、私が私の身の丈にあったペースで進めている店だ。当然、不十分なところが多い。それを理解したうえで、長い目で見て楽しんでくれているお客さんもいるが、せっかちな人たちもいるのだ。
自分の秩序を持ち込む人たち
今でこそ、それなりの空間になってきたが、最初の頃は、まだ商品も少なく店内の雰囲気もまだ思うようにはなっていなかった。建物は広くポテンシャルはあり、触りたい放題だったので、それだけで十分魅力的な場所だったと思う。
色々な人が関われる余白があれば、本当に・・・色々な人がやってくる。
出会った人たちの中には、いろいろなアドバイスをくれる人もいたが、あまりに熱心な人の中には、私を褒めたり説教したりして、私をコントロールしたがる人もいた。
色々な人たちとの人間関係で成り立っていたが、私と別の人たちとの関係について不満を言われることもあれば、「ああいう人はTetugakuyaにふさわしくない」と露骨に言う人もいた。それでいて、大体その手の全ての人たちが、Tetugakuyaになんらかの私物を置いて半分拠点のようにしていた。自分が関われない別の人たちと、私が何かを一緒にやることを露骨に怒ったりもした。
最後は、私がいかにダメな人であるかという攻撃に変わる。これがお決まりのパターンだ。そんなことが定期的に起こることにもエネルギーを奪われていった。
あらかじめ見抜けそうなものだと、思うかもしれない。
案外そうでもない。
人は、やりたいことでも疲弊する
夢中になることが、全て楽しいかというと、どうだろう?
集中して丸一日、店の仕事のために費やしてしまうことがある。
別に、誰にも強いられていない。
けれども、全然疲れていないかというと、そうではない。
集中しているときは、時間が飛ぶように過ぎて、損得計算もしていない。
お客さんに出すものだから、これでもダメだし、あれでもダメかもしれない、と厳選している作業にはものすごい時間を費やしていたりする。
その間、これだけの時間をかけて、どれだけ売上に反映されるのか考えたりしない。もし、自分の仕事を時給換算するなら、もっともっと適当なところで切り上げさせるだろう。そうでなければ、採算が取れない。
そういう損得勘定は抜きにして、夢中になってデザインをやったり、リサーチをしたりしている。
自分から、やりたくてやっているのだ。
それにもかかわらず、ふとした瞬間、なぜこんなにも多くの時間を仕事のためだけに生きて、自分の生活費に結びつかないのだろう、と打ちのめされる瞬間は必ずくる。
接客も同じだ。人と出会うことも、真剣に対話をすることも、お客さん同士を繋いでいくことも強いられていない。
貰っているのは、飲み物代だけだ。
やりたくてやっているのだ。それにもかかわらず、接客に使うエネルギーを回復させることができない。
でも、本当に、ものすごくやりたくてやっているのだろうか?
どうだろう? カウンターの前に人がいるのに、目の前から消えて、事務所の中で仕事することはできない。目の前の人が帰らない限りは、カウンターに立ち続ける。
では、カウンターよりもテーブル席に重きを置いていくのかどうか。
やはり、カウンターは何かが生まれる場所であり、そこで得る喜びも多い。
人の喜びは、自分の喜びに変わる。
人を喜ばせることが嫌いな人なんているだろうか。
だが、カウンターがメインで、お酒を出さない場所なんて聞いたことがない。それはそうだろう。そんな場所、採算が取れるはずがない。
売上と仕事にかけるバランスがおかしくなり、疲弊していく。
他者の心の中も自分と同じぐらい複雑
私自身をとってみても複雑なのだから、お客さんも複雑なのは当たり前だ。
良かれと思って、あるいは、やりたくてやってくれたこともあるだろうし、一方で、なんの見返りも求めていないかというと、心境は複雑なはずである。
それが拗れていくこともある。
少なくとも、相手に何か親切をするということは、相手に好意を持っているからだ。これは、同性異性関わらず、嫌いな人に近づこうとは思わないだろうから。
例えば、私が断捨離のために部屋にあったいらない小物を知り合いに譲ることがあるとする。(もちろん、欲しいかどうか聞いてからだが。)
欲しいと言われると、なんとなく、相手を喜ばせることができたような気がして嬉しくなる。元々は捨てようと思ってたもののくせにだ。
そうして、相手に譲っておいて、その後、相手と疎遠になると、なぜか、そこはかとなく寂しく感じる。元々はゴミにしようとしていたものがゴミにならずに欲しい人の元に行ったのだから、よしとすればいいのに。
人は、相手との絆を大切にしたくて、相手に何かしたいと思うのかもしれない。別にお返しを期待していないとしても、相手に大切にされたいと思っているのだ。
いや、それぐらいならまだいい。大切にされたいというのが、特別な存在として扱われたいということになると、もっと厄介にもなりうる。
人の心はそれほどに複雑なのだ。特に、店とお客さんの人間関係には、常にバランス感覚が必要だ。
だが、相手は生身の人間であり、こっちも生身の人である。自分も複雑ときていれば、相手も同じ。そう簡単じゃない。
ほんの僅かに、いつの間にか、ほんの少し、変わってくることで、だんだんおかしなことになる。そして、挙句の果てには、やっぱり、疲弊してしまう。
こう見えて私が経営者である
ある意味一人ぼっちなので、色々な人に色々なアドバイスを求める。その過程も好きなのだ。できれば、お客さんの期待に応えたい。
だが、最も重要なことがある。
お客さんには、私が、期待に応えられるような動きができないことが、あることを常に大前提にしておいて欲しいということだ。
気持ちはあるが、できるかどうかは別だし、体力もエネルギーの使い方も、人によって違うように、私には私の体内バランスがある。
私が思う、私自身の身の丈にあったペースがある。
時には大雑把に物事を進めることもあるし、逆に人が大雑把すぎて、「なんでやねん!!!どうなってるんだこりゃ!?」と悲鳴をあげたくもなるが、ここは、そもそも、そういう色々な人々が集って、てんでバラバラでありながらも、なんとなく何かが起こるそういう場所なのだ。
違って当たり前、自分の思い通りに人が動かなくて当たり前。
ハプニングも当たり前。
それをわかってくれる人が相手でなければ、何かを一緒にすることはできない。
そして、周りの色々な人たちと出逢いながらも、最後にTetugakuya(私が立ち上げたもの)について、何かを決めるのは、いつも私であり、いつもそうしてきた。これからもそうしていくだろうと思う。
なかには、私を「守ってあげたくなるような女の子」と見る人もいるらしいが、ご存知の方も多い通り、返り討ちに合うこと間違い無いので、気をつけてほしい。
家族や長年の付き合いのある友人たちは、私のことを「タフなやつ」だと思っているのか、泣きべそをかいても、私以上に私のことを信頼していたりする。
おそらく、彼らは、今まで幾度となく、私が膝から崩れ落ちそうになるような経験をしながらも、復活してきた姿を見てきたからだろう。
ある日、メソメソしていると「あんた何言ってんの!あんたは、規格外の馬鹿で、俺なんかより精神的にメチャクチャタフよ!」と言われた。
「よくこの店6年も続けたな。俺だったら1年目で気が狂っとる。」と言われたのは、最高の褒め言葉だ。
だが、言おう。
20211年と2022年は、本当に参っていた。
今までとは違う。
これからのTetugakuyaをどうしていくのか、目標を見失ったうえに、長年積み重なってきた仕事と人間関係のバランスの危うさには、本当に参ってしまった。
そして、だいたい5ヶ月もの間、休業することになった。
私は一体何なんだろう。
自分がとても弱くなった気持ちだった。
その間は、療養しながら、哲学対話に邁進した。
余白のある店
ある程度の自由さ、私の言う何かが始まってもいい「余白」をTetugakuyaに保つことに、実は、ものすごくエネルギーを使っていたことに気づき始めていた。
人間の心のなかは、複雑なので、リスクも大きい。変に拗れそうになることもある。その度に、危うい状況に直面する。
私のことを馬鹿にする人も出てくる。こんなこともちゃんとしてないのかと。「あんたのこういうところがだな!」と説教を喰らう。
自分の大切にしている「余白」を「隙だらけ」だと捉える人もいる。「そう、隙があるから、あなたのような人が、今、私にああだこうだ言えるのだが」と私は思う。
幸い、喧嘩別れしたお客さんは一人もいないが、そういう一人一人が嵐のようだったと思う。定期的にやってくるハリケーンのようなものだ。
何度も繰り返すが、人には人のペースがあり、他の人から見て時間がかかることもあるし、当然、抜けているところや欠けているところが多い。
だから、店も店主も未完成な店だと堂々と公言している。
完成してしまったら、きっとそういう人にとっては面白味のない店になるのだろう。
2022年、今の形となって、この「余白」は、どの程度必要なのだろう。
きっと必要とする人が、うまく使ってくれるだろうと思う。
何が起こるのか、まだ待っていたい。
時には、「おい!うちは公民館じゃないぞ!」と叫びたくなることもある。あっちこっち席を移動して、冬になれば、ストーブのそばで立ち飲み談笑が始まる。
「おい!うちの閉店時間どないなっとんねん!!」と言いたくもなるが、元々は見ず知らずの間柄だった人たちが、そんなふうに談笑したりしている姿を見るのは、私にとっては、奇跡のようでお金では買えない幸せな体験だ。
だが、私にだってお金は必要だ。
それに、やりたいことなら、人は疲れないわけではない。
シビアな現実と、アンバランスさを抱えて、ヘンテコで凸凹なTetugakuya は、かつての良さを保ちながら、成長を続けられるのか。
システムを改良し、自分自身の仕事への向き合い方を見直し、できうる限りのことはやったけれども・・・・
長い目でその結末を見守ってほしい。
HPも改良した。
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