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花のサンドイッチ

 ひと気のない北国の山中に、一度だけ訪れた図書室がある。その窓からは季節が色づく周囲の山々を一望することができ、窓際に座る司書はその景色に溶け込むようにひとりで仕事をしている。ときおり手元から目を挙げて、窓からの景色を眺め、また作業に戻る。誰もこない図書室で、僅かばかりの本と静かにそこにいる。図書室はその土地に生まれたある詩人の記念館の中にあり、彼にまつわる書籍を中心に様々な詩集が並んでいる。


 自然豊かな田園に生まれ育ったその詩人・草野心平は、幼い頃からつぶさに周りの生き物や草木、小石など、あらゆるものの造形を見つめて育った。白い紙の真ん中に黒い ● を描き、『冬眠』という世界で一番短い詩を書いた。カエルの冬眠を表しているという。そのほかにも連なるカエルの卵を「るるるるるるるるるるるるるるるるるるるる」と文字で模したり、ページの上にばらっと散らしたアルファベットの「Q」をオタマジャクシに見立てたものなど、象徴詩と呼ばれる作品群もよく知られている。幼き頃に自然を観察したように、文字から意味を剥ぎ取ってその造形に新たな命を吹き込んだ。


 当時ほとんど知られていなかった宮沢賢治の才能を見出して世に知らしめた人物でもあり、居酒屋「火の車」やBar「学校」といった文人たちが集まる飲食店を経営したり、食に関するエッセイも多数残し、エピソードには事欠かない。幼い頃はやたらめったら何にでも噛みつく癖があったようで、大人になってからも渓流で見つけたオオサンショウウオの子どもをひょいとつまんで口に入れたり(中国では高級食材であり、日本でも天然記念物と認定される前は珍味として食されていたようだ)、見つけたサワガニを生でバリバリと食べたり、破天荒な逸話が多数残っている。食への飽くなき探求や、物事をつぶさに観察した象徴詩も、彼なりのやり方でこの世界の輪郭を掴もうとしていたのだろう。



 私のお気に入りは彼が蓼科の山荘でひとり自炊をしていた時、朝食に作っていたという花のサンドイッチだ。トラピストバターやマーマレードを塗った薄切りのフランスパンに、庭先で詰んできた色とりどりの花びらを挟んで食べるというもの。ラッパ付きの蓄音機でバルトークを聴きながら、季節の花々を摘んで食べる独居生活。鮮やかな色彩が浮かんでくる光景だが、様々な花びらを実際に食して精査を重ねてきたらしい。アルカロイドの強い毒性を持つ植物もある中で、自らの舌だけを頼りに、その土地をわがままに頬張ってきた詩人。彼が愛した豊かな景色がいまもあの図書室の窓の向こうに広がっている。


 いま私の暮らす街に山々はないけれど、自家製のハムやソーセージを売っているお店と、美味しいパン屋がいくつかある。引っ越して以来、サンドイッチを頻繁に作るようになった。焼きたてのバゲットに切れ目を入れて、チーズ、ルッコラ、クレソン、トマト、そして切ってもらったばかりのハムやサラミを挟んで胡椒を軽く回し、バリバリと雷のような音を立てて齧る。本を片手にサンドイッチをかじり、ページの谷に落ちたパン屑をとんとんと払いながら、時々あの図書室の彼女の姿を思い出す。そして私もいつか自分で育てた草花たちを起き抜けに庭先で摘んで、サンドイッチを作ってみたいと思う。色鮮やかな花びらが、パンの間からはらりとこぼれ落ちる朝食を夢見ながら。




【浴室の音楽】

こんな毎日でさえ 
暮らしと呼ぶことが 
ようやく許されるようになり
あまり美しいとは言えないが 
わたしはわたしの暮らしの肩を 
やさしく抱き寄せ
何か良いところを見つけてやろうと 
朝から晩まで その時間をなぞってみる
目覚まし時計のいらない朝 
カーテンの隙間から差し込む光
真昼間のバスタブで聞く音楽 
運がいいと買えるパン屋
少しの読書 少しの昼寝 
散歩ついでの一杯のお酒
そして
よくないことだと知りながら
繰り返してしまう幾つかの後悔も含めて
あまり美しいとは言えないが 
わたしはわたしの暮らしの肩を 
やさしく抱き寄せ
その頬に手のひらを寄せる
あと十年も経てば 
おまえのことを幸せな気持ちで 
きっと懐かしく思い出す
真昼間のバスタブで



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