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閻魔帳を盗み見た男(短編・完結済)

 同じ部活の同期に、不思議な噂の絶えない人がいた。

 彼の名を仮に山野辺(やまのべ)としておく。山野辺はまだ二年であるのに部室に居座る主的存在で、文芸部内ではちょっとした有名人だった。
 いわば変人というのだろうか。数々の奇行で知られ、いつも授業なんかほったらかして部室でゲームするかソファで横になるかという、本当にどうしようもない人だった。なんでも一年次の単位数が十単位以下でそれでも大学に通い続けている(?)というのだから驚きである。
 山野辺のおかげで部室の散らかりようはいつもひどい有様で、私はいつも掃除をしていた。床にはカップラーメンの空だのお菓子の袋だの脱ぎ捨てた服だのが散乱し、さながら一人暮らしの男子の下宿のようだ。これでは何の部活だか分からない。

 ここで私の紹介をしておく、名前は同じく仮に砂原(さはら)としておこう。
 どこからこの名前をとったのかというと、自身のペンネームからだ。
 いうまでもなく、私が二年時から入ったのは文芸部だった。

 そして同じ学年だった山野辺とははじめ相容れなかったものの、同じ学年だった他の子たちがあまり部室に来なかったこともあって次第によく喋る仲になった。お互い男女だったが、最初から最後まで恋愛とかそういうのはなかった。
 
 山野辺はなんというか浮世離れした男だった。
 そして彼に関する噂の一つに、いささか信じがたいものがあった。
 未来を予知することができる、というのだ。

 ○

 山野辺の風体は確かにさながら仙人のようだった。
 伸び散らかしたボサボサの髪に悟りきったように疲れた目、食事も菓子とジュース以外摂取している様子はなく、いつ寝ているのか起きているのかもはっきりしない。
 山野辺の醸し出す廃人オーラには、こいつなら未来のことを全て知っていてもおかしくないという説得力があった。

 しかし普段の山野辺は基本、後輩の葵君と先輩のドンさんとポケモンバトルに耽るか、カードゲームに熱を上げるかという、典型的なダメ男だった。
 土砂降りの日に海水パンツ一丁で外に出たり、そうかと思ったらパワフルプロ野球とWii Miiで部員全員分の顔を作って遊んだり、まるで中学生のガキのようでもあった。
 私が最初部室に来た時、冷蔵庫から取り出した2リットルのポカリスエットを大事そうに抱えながら、猫背でテレビの前に戻ろうとしていたのは山野辺だった。
 全員が全員固まって私の方を見つめていて、私は一瞬、何の部活に来たのか分からなかった。
「ああ、すまん。いまちょっと立て込んでるから後にしてくれない?」
 どう見てもスマブラをやっている山野辺が発したのがこれで、最初に聞いた彼の声だった。

 山野辺は社会的常識が著しく欠如し、どうして今まで生きてこられたのかが分からない人だった。
 彼は部員に変なあだ名をつけるのが大好きで、矢本さんを「綾瀬しゃくれ(綾瀬○るかからしゃくれだけを残した顔だから、らしい)」と言ったり、ちょっとぽっちゃりした子(女)を「トトロ」と呼んでみたり、デリカシーの欠片もなかった。
 私に至っては「サハラ砂漠みたいな冷たい干物女だからサハラでよくね?」という有様。

 山野辺以外で、いつも部室に来ているメンバーは以下の通り――
 いじられキャラの葵君、彼氏の愚痴ばかり言う矢本(やもと)さん、大阪人のミッキー、京アニ信者で百合好きのドンさん、そして私だった。(葵君は一年、矢本さん、ミッキー、ドンさんは三年だった)
 他にも色々な人がいたが個性的な人が多く、言い換えれば協調性はゼロだった。
 そして何より問題だったのは、私は純粋に小説を書きたくて文芸部に来たのに、小説を書く人はほとんどいなかった。
 たった一人、山野辺を除いて。

 新歓が終わった後、過去の部誌を眺めながら一人だけ異様に長い文章を書く人がいるのに気づいた。
 その人はいつもすごく長ったらしい文章を書いて途中で放り出している(ミッキー先輩曰く、伏線が投げっぱなしジャーマン)。だが文章力は確かで、内容もとても面白かった。
 私は当初、このヤマノベという人は部室に来ていない人の誰かだと思っていた。
 だがのちに判明したのは、このヤマノベこそ常連の内の一人、しかも彼だったのだ。

 ある時、あろうことか山野辺と二人で原稿用紙を買いに出なくてはならないことがあった。
 社交辞令程度に会話しておこうと思って、適当に話している内に小説の話になった。
 私はその時半ば諦めていて、ああ、この人もどうせ小説なんて書かないんだろうな、という前提で自分の作品について話した。
 すると常日頃やる気もなくぼうっとしている山野辺が俄然目を輝かせて、「砂原、お前小説書くのか?」と言った。

 意外にも山野辺は書いていた。
 山野辺は一緒に入ったうどん屋で、食事そっちのけで自分の小説について延々語るのだった。そもそも彼は一番やすいうどんを買って、無料の天かすを山盛りにして貪るように食っていた。
 どれも他の追随を許さない独創的なアイディアで、私は素直に感心してしまった。
 そうしているうちに、お互いのペンネームが発覚して私は二度びっくりした。
 その時、ずっと軽蔑していた山野辺のことを、私は少し見直したのだった。

 私が部誌に出す作品のペンネームに砂原を使ったのはこのころからだったろうか。

 そんな折、一度文芸部の常連で飲み会に参加したとき、ミッキー先輩がチューハイを片手にボロッと言った。
「ヤマノベは怒らせん方がええで、さっちゃん」
 その日、山野辺は体調が悪いだのなんだの言って部室にこなかった。
 夜にみんなで焼肉屋に行って、一時間も経たないうちに、とうとう意識があるのがミッキー先輩と私の二人だけになってしまった。
 矢本さんが酔っぱらって彼氏の愚痴を言い続けているのを聞き続けたせいで、葵君は早々ダウン。それらをまとめて介抱しつつ、私はミッキー先輩ととりとめなく喋っていた。
 先輩は、前みたいなことはごめんや、とかよく分からないことをもごもご言っていた。
「どうしてですか? 三城先輩」
 私は外で泥酔しない程度に適度にお酒を飲みながら、先輩に尋ねた。
 ふざけて言っているのかと思って先輩の顔を窺ったが、まるで酔いが完全に醒めたように真剣な眼差しでこちらを見つめてきたのでちょっとびっくりした。
「なんや、砂原はあいつのウワサ聞いたことないんか?」
「噂、って何ですか?」
 確かに色々不思議な噂があると聞かされてはいたが、具体的にはよく知らなかった。
 すると先輩は、ためを作ってからゆっくり話し出した。
「言うて、嘘かホンマか、いまだにはっきりせえへんのやけどな……。あいつ未来が分かるらしいんや」
 それはとんでもない話だった。

 ○

 以前、文芸部で合評――互いの作品を品評し合う場――を行った時、一人の女子が山野辺の作品の発表の途中で突如青ざめた顔をして「帰ります」と言って帰ったことがあった。
 あとで問いただしたところ、どうやら山野辺の書いた小説に問題があったらしい。
 山野辺はいつも部誌に複数以上作品を投稿する。大体SFかファンタジーか、そういう派手なものが多いのだが、今回一つだけホラーを書いてきた。出来としてはイマイチだったが、語り口が恐ろしかったそうだ。

 内容はこんな感じ。
 ある女子高生が、親友が学校でいじめられているのに気づきながらいじめを止められず、とうとうその親友の子は不登校になって転校してしまった。自傷癖で腕は傷だらけになり、今でも引きこもりを続けているらしいというのが風の便りに聞く話だった。
 そんな折、大学生になった彼女のもとに一通の手紙が届く。中身を見ると、赤い毒々しい字で「絶対にお前を許さない」とだけ書かれていた。その日から彼女のもとにどんどん手紙が届くようになった。「お前を見ているぞ」「呪ってやる」「死んで償え」――明らかにそれは、ある人物からの手紙だと思われた。 彼女は精神的に追い詰められていき、ある時手首を切ろうと思ってカッターを手に取った。
 夜中の十二時、洗面器に水をためて刃物を手に持って水面を見ると自分を恨んでいる人が映る、という話を聞いて、彼女はその時間にカッターを持って向こうを見た。すると映っていたのは、ニッコリ不気味に笑う自分の姿だった。
 自責の念にとらわれて、彼女は人格が分裂してしまったのだった――。

 よくありがちなもので誰も気にも留めなかったのだが、一人だけ部誌を見るなり戦慄している女の子がいた。彼女は山野辺の作品を見るなり凍りつき、何も言わずに焦点の合わない視線を虚ろに投げかけるばかりだった。
 その子はあまり部室に来ない子で、今回の部誌にも作品を提出しなかったが合評には参加していた。
 ミッキー先輩はその子を追いかけて、後で事情を聴いたのだという。
 するとその子は、これは私の話だ、と言い出したのという。
 ここに書いてあることは全部実際に起こったことなのだと。

「そんなの、以前その子から聞いた話をそのまま文章に起こしただけなんじゃないですか?」
「いや、俺もそう思ったんやけど、問題はこっからで……」

 その子はたしかに、山野辺に相談したことがあったのだという。
 自分の親友がいじめられていて、苦しかったという話をしたことがあった。
 ただディテールについてそこまで触れなかったし、おまけにそれについて山野辺先輩に相談した時点では彼女には脅迫状も届いていなかったのだそうだ。
 入学してしばらく経たないうちに彼女には脅迫状が届くようになったが、恐ろしくて誰にも相談できなかったそうだ。
 そして彼女が精神的に追い詰められて、刃物をとって水面を見たのもつい先日のことらしい。

「な? 怖いやろ?」
「でもその脅迫状とかって、山野辺さんが書いたんじゃないですかね? あの人ならやりかねない」
「それだけなら説明つくやん? せやけど、家で一人でカッター持って洗面器拝んでたのは、誰にも見られてないっちゅう話なんや。それにな、そもそもその時自分が思うてたこと、言うたこととかが見事に一語一句おんなじなんやて!」
「それじゃ、いったい?」
 私は怪訝な目で、先輩を見た。
 先輩は複雑な顔をして、いまいち腑に落ちない感じで話を続けた。
「それがどーも、あいつに聞いても釈然としなくて」
 山野辺は確かに、彼女についての話を書いたが、最近ほとんど部室に来なくなった彼女がまさか合評に来ると思っていなかったらしく書いたとのこと。
 そして肝腎のどうやって彼女の行動をまるで全て見ていたかのように言い当てたのか、というのは分からずじまいらしい。
「ただ、何にも言わんかったあいつが最後に一言、これだけゲロったんや。『まるで自分が被害者みてえな口ぶりしてるのが許せなかった』てな」
「……というと?」
「俺は真実が分からんから何も言われへん。けど山野辺は、おそらくその子はわざとその親友の子がいじめられるように予め仕向けた上で罪悪感に駆られてたんやないか、って言うたんや」
 ようやく、山野辺が彼女に『制裁』を加えた訳が分かった気がした。
 ちょっと友達がしつこいから――もっとも理由なんて何でもいいのかもしれないが――という理由で、より大きなグループの子たちと結託して友達を代わりにいじめてもらう、意図的に外す、誰かを敵にして団結する……。
 女子高ではありがちな話、だと思う。

 結局、その女の子はそのまま文芸部に来なくなったのだという。
「まー以来、俺らの中じゃ、山野辺には未来予知能力がある、とか、あいつが小説になんか書くと現実になる、とかそういう噂が流れるようになって、気ぃついたら学校中でそういう話聞くようになってな。
 どっから流れてるのか分からんけど、予想以上に色んなところに広まってしもて、当の本人に申し訳ないから部内ではその話は禁句になっとるんや」
「そうなん、ですか」
「念のために言うとくけど、俺が流したわけやない」
 それだけ言い終わると、先輩は申し訳なさそうな顔で黙り込んでしまった。

 ○

 しばらくして、山野辺は矢本先輩のおごりでみんなで飲みに行ったことを聞くと、だだをこねる幼稚園児のように部室の床を何べんも叩きながら非常に悔しがっていた。
 なんだか、私はほっとした。
 相変わらず先山野辺は人の食べているお菓子をお手洗いに言っている間に食い散らかしたり、「のどかわき病になった」と言っていろはすを全て飲み干したり迷惑行為がつきなかった。
 こんなしょうもない山野辺に、未来を予知する能力がある?
 バカげてる。
 オカルトまがいの話を一切信じない私は最初そう思っていたが、そういう固定観念を決定的に覆すできごとがあった。

 合宿の場所が決まった。
 何を隠そう、行先は関東の北部のとある田舎の町、私の地元だった。
 夏休みを目前に控えたある日、私と山野辺、ミッキー先輩、矢本先輩、そして部長のドンさんで近くのインドカレー屋にやってきて相談したとき、山野辺がこんなことを言った。
「日程を一週間前倒しにできないか」
 いや、もっと軽い口調だった。「すまん、俺その時期ゼミの課題が切羽詰まってるから」とか「夏休み最終週は残しておきたいんだ」とか、へらへらした口ぶりだった。
 はじめみんな、どうせ山野辺のことだからどうしようもないことで都合が悪いだけなんだろう、と思っていた。ドンさんは「ヤマノベ君が学校の課題気にするなんて珍しい」、矢本さんに至っては「どうしたの、熱でもあるの?」と言って一人で大爆笑していた。
 山野辺は「うるせー、しゃくれ」と言いながら、半笑いで矢本さんとお互いちょっかいを出し合っていた。
 しかし私は気づいていた。
 皆が立ち去った後一人たたずむ山野辺は、目が全く笑っていなかった。

 結局、電話して旅行の日程を三日前――一週間はさすがに無理だ、と言われた――にずらすことにはなった。
 そして後日、本人を問い詰めたら白状した。
「いや、実はさ天気予報を見て、強い雨が降るらしいって聞いてたから……」
「さすがに無理があると思うけど」
 私は部室で、山野辺と二人きりになったときに話した。
 午後九時ともなるとあたりはもう真っ暗で、夏だったけれど涼しかった。
「ホント、演技下手だね。あれじゃバレバレだから」
 得意げに言ってみせた。
「……何の話?」
 冷凍庫から取り出した白くまアイスをしゃりしゃり食べながら、山野辺は私と目を合わそうとしない。
 彼はこの頃、飢えた子どものように冷蔵庫の食料を消費し続けている。
「とぼけないで、知ってるんでしょ? 何か」
「何を?」
「何かを、だよ。一か月以上先の天気が分かるなんて、まるで未来を予知できるみたいじゃない?」
 私は軽く睨みつけた。
 山野辺は少し驚いたふうに、普段メガネの奥で半開きにしている目を大きく開いてみせた。
「去年の部誌の話も聞いたけど、あんた何なの? 超能力者?」
 そう畳み掛けて、山野辺は答えを渋っていた。
「じゃあ占いでもやってるの? こっくりさんでもやったワケ?」
「とんでもないっ! 俺はただ……」
 山野辺はできるだけ視線を合わせないように下を向いたまま、大きくためいきをついた。
 そしてほどなく、観念したようにこんなことを言った。
「俺は別に超能力者でもないし、未来を予知しているわけでもない」
 それじゃ何なの、と言いかけたが押し殺して、私は彼の言うことに耳を傾ける。
 だが彼の話はとても漠然としていて、抽象的過ぎた。
「その……俺は、分かることしか分からない、特定のいくつかのことしか分からないんだ。それに未来が分かったって変えれるわけじゃないし……、こんなのしょうもないし、能力でも何でもないさ」
「じゃあ、私の未来は分かるの?」
 しびれを切らして私は聞いてしまった。
 山野辺はこの時、頭を抱えて苦しそうな顔をしていたことを今でも覚えている。
 いけないことだと分かっていた。
 でも、未来が分かる人間が本当にいたとしたら、誰しも好奇心にかられて自分の未来を知りたがるだろう。
「それは……」
「一つでもいい。何か一つでも、山野辺が分かることを教えて」
 聞かなきゃよかったと思う。
 彼はためを作ってから、真面目な顔で宣言した。
「年内に、彼氏ができるよ」
 不思議にも、私は納得してしまった。
 後付けでしかないかもしれないが、そういう出来事が自分に間違いなく起こるような、そういう人が現れるような予感がしたのだ。
 山野辺はさらに付け加える。
「年度内に、かもしれない。だけど未来は一本道だ、お前にはかならず彼氏ができる」
「そりゃまた随分適当な未来予知だこと」
 私は鼻で笑ってみせた。
 すると山野辺はいつもの間抜け面に戻って、うじうじと言い訳を垂れた。
「しかたないだろ、何もかも分かるわけじゃないんだ。
 ああ、あとそれから相手は俺じゃないし、文芸部員でもないよ。安心しな」
 愚かにも、私は山野辺の言葉を信じて疑わなかった。

 ○

 それから夏休みは飛ぶように過ぎていった。
 文芸部でバーベキュー&花火したり、九月につくる部内誌のテーマ設定について話し合ったりしたが、私と山野辺は実家に帰らずにずっと下宿にいたので、たまに顔を合わす機会があった。
 山野辺は私となるべく二人きりにならないよう、私を避けていたが。

 九月、東武伊勢崎線に乗って、合宿に行った。
 合宿自体は無事に進行した――山野辺の予想が全て的中した、というのが大きいかもしれない。
 朝、大学から出発する時も時刻を早めたおかげで人身事故による遅延に巻き込まれずに済んだ。
 さらに、天気予報では数日後に土砂降りの雨が降ることが予想されていたが、その日はちょうど日程の最後の日になっていて、私たちが現地に着いたときには雲一つない晴天だった。合宿期間中は雨が降らないそうだ。
 『想定』していたことではあったが、現実味を帯びてくると山野辺のすごさを思い知らされた。
 さらに、極めつけはこれだった。

 私たちが行った温泉街の町は丘陵地帯にあり、町全体が傾斜していた。
 そして一部の場所に行くには、山奥に向かって伸びている狭い山道を通らなくてはならなかった。
 最終日、ミッキー先輩の提案で、桟橋を渡って山道を歩いて行った場所にある足湯に帰る前に寄っていこうという話が持ち上がった。
 その日は朝から雨がぱらついていた。
 同じホテルに宿泊していた観光客の団体についていって、桟橋を途中までわたりかけたのだが、この時私は山野辺が顔面蒼白で吐きそうになっているのに気づいて、自分自身もはっとした。
 山野辺がどうしても避けたかった出来事というのは、これなんじゃないか。
「あのぉ! すみません!」
 私は桟橋の真ん中で立ち止まり、大声で叫んだ。
 案内してくれた団体さんに無理を言って、山野辺君の体調が悪い、スケジュールが合わない、などという嘘をついて抜け出したのだった。
「なんや、さっちゃん? 一緒に行けばええやん、別に」
 ホテルに戻ってきて、ロビーに入ってバスを待ちながら、手持無沙汰になったミッキー先輩は不平たらたらだった。
 山野辺に至っては葵君と小学生のようにロビーを楽しそうに走り回っていた(あとで判明したが、積年の恨みから追い掛け回されて必死で逃げていただけらしい)。

 だがしばらくして、事態は急変した。
 フロントに警察がやってきたのだ。
 それからというものの、旅館は大騒ぎになった。ドンさんが確認しに行ったところ、どうやら山の方で土砂崩れが起きてここに泊まっている人が巻き込まれたらしいのだ。
 ミッキー先輩は話を聞くなりこうつぶやいた。
 ――俺らがあそこで一緒に行ってたら巻き込まれずに済んだんちゃうんか。
 ドンさんがすかさず「馬鹿言え、一緒に行ったら巻き込まれてたじゃないか」と言ったが、何かに気づいて苦虫をかみつぶしたような顔になった。

 一同が沈黙して、せっかくの旅行の雰囲気が台無しになりつつなる中、私はなんとかして場を和ませようとした。
 そして、「もし、もし山野辺君があの時旅行の日程を自分の都合でずらしてくれなかったら、あの時気分悪そうにしてなかったら、今頃私たち死んでたかもしれない。山野辺君が最悪の未来を回避してくれたんだ」と口走ってしまった。
 この時、意外にも普段山野辺と口論ばかりしている矢本さんが「そうだよ、全部やまちゃんおかげだ」と、フォローしてくれた。
 すると、それまで悲しそうな顔をしていたミッキー先輩、葵君、ドンさん、そして山野辺の顔が少しだけほころんだ。
「せやな、お前は命の恩人や!」
 ミッキー先輩は山野辺にヘッドロックをかけて、くしゃくしゃと頭を撫でた。
「今度から馬券どれ買ったらいいか、山野辺君に聞こうかな」
 ドンさんがこういってくれたおかげで、みんな笑った。

 以来、山野辺の部内での地位は「どうしようもない廃人」から「みんなの命の恩人」に格上げされた。

 ○

 それから、山野辺が未来を予知できる、という話は部内で禁句ではなくなった。
 みんな彼に色々しょうもないこと――アイドル声優の次の公演場所、テストの答案、グミの当たり外れ、というか全部一名が聞いたのだが――を聞いて困らせたりもした。
 山野辺はそのこと自体で怒りもしなかったし、むしろようやくずっとつっかえていた何か、わだかまりようなものが消えて、自由になった気がした。

 小説に関しては、山野辺は相変わらず完結できない長編を四つも五つも抱え込んでいたし、ドンさんは女子高生の太ももについて熱く語って矢本さんに非難され、再起不能なまでに落ち込んでいた。

 秋に入ってからだいぶ涼しくなって、キャンパス中を落ちた木の葉が埋め尽くすようになった頃、副部長の矢本さんの企画で鍋パーティーをすることになった。
 そして鍋をするんじゃつまらないから、ということで結局闇鍋になった。

 その日、矢本さんと二人で具材をスーパーに買い出しに行った私は、また矢本さんの彼氏の話につきあわされることになったのだが、そこである変化に気づいた。
 彼女は、どうやら大学を出たあとも彼氏とつきあっていくつもりらしいのだ。
「実は~、彼氏にプロポーズされたんだ!」
 矢本さんの彼氏は一年学年が上で、仕事の内定も決まり就職すれば収入もそれなりに得られるのだという。
 確かに大学生カップルで、そのまま結婚するという話は聞く。
 しかしまさか、散々愚痴ばかりだった矢本さんがそうなるとは。
「私、彼とならたぶん上手くやっていけると思う」
 矢本さんはアルフォートやらトロピカルフルーツの缶詰やらを買い物かごにいれながら、笑顔でそう言った。

 結局その日、ミッキー先輩宅で行われた闇鍋で、キムチ鍋で煮詰められたタピオカとマンゴーの被害者になったのは葵君だった。彼は翌日も下痢で腹を下し続けたらしい。一方山野辺は「コレうめぇ! 死ぬほどうめぇけど何コレ?」と言いながらビチャビチャになったアルフォートを食べていて矢本さんにドン引きされていた。
 真っ暗闇で鍋をつつくという性質上、なんか怖い話でもして盛り上がろうということになり、一人ずつ百物語みたいに話をしていった。
 ミッキー先輩は関西人なのもあって話に毎度毎度ちゃんとオチがついていたが怖くはなかった。ドンさんは全部百合おちにしてけむたがられた。
 そして山野辺は、一人だけ真面目に怖い話をした。

 人間には一人ひとり閻魔帳というのが存在するのだという。
 閻魔帳は人によって色々な形をしていて――ハードカバーだったり、辞書みたいだったり、はたまた和綴じだったり――どこかで管理されている。そして閻魔帳には自分の人生で起こることが全て書かれており、人生のターニングポイントになる出来事は大筋生まれてきた時から決まっていて既に記載済みなのだそうだ。
 経過は変えられても、結果は変えられない。
 これが絶対のルールだった。
 だが、それに干渉しようとした男がいた。
 男は病気で死ぬ運命にあった友人を助けようとして、なんとかして閻魔帳を見つけ出して書き換えてやろうと模索した。とうとう閻魔帳を見つけて内容を盗み見た男は、何月何日に友人が死ぬという内容のページを破り去り、運命を変えようとした。しかし結果、思わぬ事態を招いた。
 なんと友人がこの世から抹消されてしまったのだ。
 誰に聞いても、男以外の人間はその友人という人物がいたことを思い出せず、さらには友人がいた痕跡がこの世から完全に消えてなくなってしまった。友人という人間の存在は世界の矛盾として処理され消滅してしまったのだった――。

 正直創作としては起伏が少なく、つまらなかった。
 第一に、閻魔帳という言葉の使い方が間違っている気がした。
 だが話しを始めた時点で、ああ、これは山野辺自身の話なんだろう、という推測を立てていた。
 私もそうだった。

 夜、みんなが寝静まった後――矢本さんは男子がいる横でも平気で雑魚寝しているが―私はさすがに嫌だなと思ったので――家に帰ろうとした時に、山野辺はむくりと起き出してついてきた。

 自転車を押して、午前二時過ぎに町を歩いた。
 道沿いの自販機でお酒を買って、途中公園で休憩しながら暗い夜道をただひたすら山野辺と二人で歩いた。

 大学の近くには、日本一汚いと言われる川が流れていて、よく酒に酔って飛び込む学生が相次いだそうだ。
 私たちはその川を横目に、駅名の由来にもなった住宅街のすぐそばを通る道を歩いていた。
 街灯が頼りなく足下を照らすのみで、人もなく、誰もしゃべらないので、まるで静寂が全ての音を奪い去ってしまったようだった。

 そして、私はやっぱり彼に単刀直入に尋ねた。
「閻魔帳を否定する方法って結局ないの?」
「さぁ、自殺ぐらいしかないんじゃない?」
「ていうか、あれ、ホントにあった話じゃないの?」 
 すると、山野辺はふて腐れたように笑った。
「まさか。現実的じゃないにも程があるでしょ」
 山野辺はらしくなく、ポケットに手を突っ込みながら快活に笑っていた。
「そのセリフは、アンタみたいな人間が言うべきじゃない気がする」
「そうか」
 そりゃそうだ、今まであれだけ色々やっておいて、今さら自分は関係ないなんて。
 それでも山野辺はいつも通り情けない顔で、こう漏らしただけだった。
「俺、文芸部入ってよかったと思うよ」
 今まで色々あった。この奇人のおかげで騒動に巻き込まれたり、はたまた助けられたり、山野辺はいつの間にかなくてはならない存在になっていたと思う。
「ココ来る前はずーっと人間関係うまくいかなくってさ、友達全然できなかったんだよね。俺やっぱ人格に問題があるんだと思う」
「いやま、自分で自覚があるだけいいんじゃない? 自覚があるうちは、病気じゃないさ」
 内心苦笑した。彼は自分で分かってやっていたのだ。
「でもま、今は仲間がこれだけたくさんいて楽しいわ」
 いつもバカみたいないたずらばかりしている山野辺だったが、やっと本音が聞けた。
 おそらく本心から思っていなからったら、こういうことは口から出ないだろう。
 私は心底、安心した。
「それはよかった。私も文芸部入って、楽しいよ」
 精一杯、可愛く笑ってみせたつもりだったが、山野辺は私なんか無視して月を見てぼんやりしているだけだった。

 ○

 間もなく、山野辺が部室に来なくなった。
 あれだけ入り浸っていたのに、跡形もなく彼は消えてしまったようだった。

 大学と同じ県内にある実家に電話したところ、家にずっと引き籠っているのだというので押しかけようとしたが、メールで「来るな」とだけ言われたのでやめた。
 忸怩たる思い、というのはこういうことなのだろうか。
 仲間が一人減ってしまうというのは、これだけ胸が締め付けられるのだろうか。
 願わくは、彼も同じことを思っていてほしいと、私はどこかで期待していた。

 ミッキー先輩も矢本先輩も何かとても焦っているようで、なんとか連絡を取ろうとしていた。
 みんな心配していた。

 そして、年が明けて一月になって、それでも学校に来ようとしない彼を無理やり連れて来ようと画策していた時、あることに気づいた。
 そういえば山野辺の誕生日は二月だった。私は誕生日が四月なのでもう二十歳になっていたせいで、すっかり忘れていた。
 今は一月の終わりだ。
 サプライズパーティでも企画すれば、アマテラスよろしく岩戸の影から出てくるんじゃないだろうか。

 私は早速部員たちに連絡をとって、山野辺に内緒で計画を進めていたはずだったのだが、すると山野辺の方から私の携帯に突然電話が来た。
「よぉー、サハラ。お前にしちゃ珍しいな? 率先して人集めて何かやろうなんて」
 山野辺は声の調子からは元気そうに聞こえた。
 部室に一人でいた私は、
「な、何の話かしら?」
 私はすっとぼけてみせた。考えてみれば、私たちの行動の一部始終はお見通しだったのだ。
「何でもいいけどパーティなんぞやらんでいいぞ。今の俺はピンピンしてる」
 そもそもお前が何の連絡もなしに来ないからみんな心配してたんだろうが。
「今までどうしてたの?」
「ただ、風邪ひいてただけだ。小説も書かなくちゃいけなかったしな」
「それより授業に出ようよ」
 相変わらずのダメぶりに呆れたが、いつも通りで安心した。
「ま、明日にゃ学校行くから?」
「ホントに?」
「ホントだよ。明日は午後から一コマ、テストだけだ」
 どんな履修登録したらそんな予定になるんだろうか。
 私はもうテストもどうせなかったので、思わず、
「どうも怪しいから、私が山野辺ん家に迎えに行くわ」
 と言ってしまった。
 
 そこから、ちょっとした旅が始まった。

 ○

 山野辺の実家は、県西部の田舎の方だった。
 駅舎からすごく歩かねばならず、私はここまで来てしまったことを後悔した。
 ついてみると意外にも大きな家だった。
 小さな庭のついた伝統的な日本家屋で、まさか彼がこんな家で生まれ育ったとは思いもよらなかった。

 私は玄関についたインターフォンで山野辺を呼んだが、彼は相変わらず出てこなかった。
 二、三度電話すると、メールで返事が来た。
 内容は「今起きた」。私は呆れて帰ろうとかと思ったが、寝間着のまま慌てて玄関から飛び出してきたので、家に上がった。

 山野辺の部屋は二階にあって、入るなり大量の蔵書に驚かされた。
 書棚には溢れんばかりに雑誌だの辞書だのがぐしゃぐしゃに詰め込まれ、床はゴミと脱ぎ散らかした服だらけ。
 部室がああなる理由がここに明らかになった。
「遠いから来んなって言ったろうが」
 山野辺は相変わらずボサボサの頭をかきながら視線を逸らした。
 すこし頬がこけて、なんだか痩せたように見えた。
「ちゃんと食べてる?」
「三日間何も食ってない」
 部屋にはポカリスエットの空のボトルが二、三本転がっていた。
 これなら死にはしないだろうが、絶食はよくない。
「つかテストは? 今十一時なんだけど、今から学校行ってギリギリ間に合うぐらいか」
「もういいや別に」
 寝ぼけ眼で諦めたように言って、彼はあくびするとベッドにゴロン、と横になった。
「それはよくない、出なさい」
「うるせーな、おかんじゃねえのによ」
「卒業できなくなっても知らないよ? 文芸部のみんな優しいから言わないけど、私はもっとあなたにちゃんとしてほしいんです」
「ちょっとトイレ」
 いつものごとく、山野辺は言い訳をして逃げた。
 私は一人、置き去りにされた。

 改めて部屋を見回すと、本棚と本以外のものが、彼の部屋にはあまりなかった。
 せいぜい机の上にパソコンが載っていて、そんなものだ。
 机の上もグチャグチャで、書きかけのメモの紙やら出しっぱなしになったノートが散乱していた。
 机の引き出しも、幾つかは空きっぱなしになっていた。
 よーし、整頓してやろう。
 私は勝手に中身を拝見して、山野辺のプライベートを漁りまくった。
 ラブレターでも出てこないかと期待したのだがそんなものはなく、あったのはせいぜい小学校、中学校の時から書き溜めたノートぐらいだった。
 すごく字が汚く読めないものばかりだったが、一つ気になるものを発見した。
 あるノートを持ち上げたとき、ぱらっと一枚の紙が落ちた。そこには「病気で死ぬ」という文字の上に二重線がひかれ、「生きる」という文字が横に大きく書かれていた。
 不審に思ってそのノートを開いてみた。それ自体は日記帳のようで、表紙に山野辺の本名が書かれていた。そして途中までは、今日誰々君と一緒に遊んだだの、どこに行っただの、ということが書いてある微笑ましい内容だったのだが、彼が十四歳の時を境に何も書かれなくなっていた。
 どこまでめくって真っ白。
 ある一つの不安に胸騒ぎを感じながら、それでも私はページをめくるのをやめられない。白紙のページがずっと続いていって、最後のページにたった一行だけ、「××年二月十日、死ぬ」とだけ書かれていた。
 それは今年の日付で、山野辺の二十歳の誕生日の前日だった。

 言うまでもなく、私は気づいた。
 これだ。
 これこそ、彼の閻魔帳なんだ。

 私がノートを持って愕然としていると、背後に気配を感じた。
 山野辺だった。
「あー、それか。ふざけて書いた奴だから気にしないで」
 山野辺はヘラヘラしながら部屋の柱によりかかって、私を寂しそうな目で見つめていた。
「ふざけて、って何だ……」
 しかし私はそんな態度に、本気でキレてしまった。
「こんなもの、冗談でも書くべきじゃない! 今すぐ捨てろ!」
 つい感情的になって、ひどいことをたくさん言った気がする。
 でも山野辺は一切、私の言うことを否定しなかった。
「そうだよな、すまない」
 彼はこれしか言わず、しばらく口を真一文字に結んで、時折唇をかみしめていた。

 そして、しばらくしてからまた口を開いた。
「でも、これ、実をいうと冗談じゃないんだ」
 その時、私はどうして彼が今まであんな廃人のように生活していたのか、ということを想った。
 彼は自分が死ぬ日付を明確に知りながら、今日この日まで生きて来ざるをえなかったんだ。
 私は今までにないほどの圧倒的な恐怖を感じた。
「本当に、死んじゃうの?」
 山野辺は私の質問に対する答えを、しばらく出しかねていた。
「あぁ」
 否定、しなかった。
 これがどれだけ冷たい意味を持つのか、彼は知らない。
 私は必死に反駁した。
「そんな、今までだって土砂崩れ言い当てて巻き込まれずに済んだりしたじゃん。あれは全部山野辺のおかげ……」
「俺はあくまで土砂崩れが起こるということを知っていたんだ――俺が予測できるのは、絶対に変えられない未来だけだ」
 山野辺の口調は、さっきまでとは違っていた。
「俺たちの人生には無数のターニングポイントがある。人によって数は違うが、それぞれこのタイミングで起こるということが絶対に決まっているんだ。閻魔帳にはそういう節目が全て書かれている。前も言った通り、経過は変えられても、結果は変えられない。
 俺ぁね、土砂崩れがおきて、君らが人が死ぬ様子を直に見てしまうことを恐れたからああしたんだ。あの日のことは全部そうだ、人身事故も、何もかも。
 未来は一本道なんだよ、過去が一本道であるように、未来に起こることは全部決まってるんだ」
 ここまではっきり、小説以外の何かについて語る山野辺の姿というのは新鮮だった。
 だがそれが、私の怒りをますます増幅させた。
「んなわけないでしょ、そこまで分かってて防ごうとしないんなんておかしい」
「防ごうとしないんじゃない、防げないんだ。俺は今までどうやっても、どうあがいてもこの道に向かって進むしかなかったんだ」
「じゃあ、生きる意味なんてないじゃないっ!」
 彼の言うことは理不尽だったし、到底事実とは思えなかった。
「閻魔帳なんてフザけるのも大概にしてよ、そんなものこの世にあるわけない。あってたまるか……」
 気づいたら、泣いていた。
 ボロボロと流れ落ちた涙は、絨毯に小さなシミをたくさん作った。
「未来なんていくらでも変えられる。あんなに仲間できて楽しいとか言ってたのに、そんな死ぬとか馬鹿なこと言ってないでよ。ホラ、なんでもいいけど、たとえば、女の子とつきあえば人生変わるって」
 私はあくまで冗談めかしてそういった。
 だが、山野辺はものすごく悲痛な表情で一言、
「俺の人生には、そういうのはないんだ」
 と、のたまった。

 私は、あまりのことに呆然として、そのままひどく惨めな気持ちで山野辺の家を後にした。

 ○

 それから、私は学校を休んでいた。
 山野辺と過ごしてきた時間が全て無駄に思えて、砂原というペンネームすら見るのもいやになった。
 そんな折、私は夢を見た。

 二月に入ってすぐの日の夜、寝つきが悪く私はずっと起きていた。
 ようやく眠りに落ちたところで、夢の中に山野辺が出てきたのだ。
 最悪、だった。

 夢の中で、山野辺はすごく広い図書館にいた。
 しかしせっかくハードカバーや辞書、和綴じとあらゆる種類の膨大な本が並べてあるのに、彼以外の人が全く見当たらない。
 職員も、本を読みに来ている人も誰もいない、照明の落とされたまるで倉庫のような巨大な図書館――
 山野辺はたった一人で、とある本棚の前に立っていた。
 ふて腐れたような顔つきで、片手をポケットに突っ込んだまま、彼は本棚で何かを探していた。
 しばらくして、彼はある一冊の本を取り出した。
 割と装丁がしっかりした白い本だった。そしてカバーには、赤銅色の印字がされていた。
 それは、私の本名だった。
 
 山野辺はポケットからライターを取り出して、本に火をつけた。
 みるみるうちに炎は本の表紙を黒く焦がしていき、彼は本が完全に焼けてしまう前に、火がついたままの本を図書館に投げ捨てた。
 火はどんどん他の本に燃え移っていって、炎が全てを飲み込む勢いで図書館を焼き尽くしていく。
 山野辺はこちらに背を向けたまま、魂が抜けたようにただぼうっと立ち尽くす――

 そういうところで、私は目が醒めた。

 それが最後に見た山野辺の姿だった。

 ○

 まもなく、山野辺は自室で首を吊って死んでいるのが見つかった。
 日付はあの日記帳に書かれた日付よりも前だった。
 彼が外した、最初で最後の未来予知はよりにもよって自身の死だった。

 文芸部の代表でミッキー先輩と葬式に出た時、まるで蝋人形のような山野辺の死体を見ても現実感が湧かず、涙も出なかった。
 山野辺のお母さんにお葬式が終わってから呼び出され、何か変わったことはなかったか、とか、何か言っていなかったか、とかとりとめもないことを山ほど聞かれた。
 彼女はひどくやつれた様子で、化粧をしても隠しきれないほど濃いくまが目の下にあった。
 山野辺の母親の話の中で唯一、頭に残っているのはこんな話だった。

 山野辺には中学時代親友がいたのだが、その親友が重い病気になってしまった。入院してから山野辺は毎日のように病院に通って、励ましに行っていたのだという。
 しかし看病の甲斐なく、親友は死んでしまった。
 そういえば、その時息子は一冊のノートを持って行っていた。何のノートだったかは分からずにいたのだが、遺品を整理していた時、本棚の奥からなぜかページが一枚切り取られた「閻魔帳」と書かれたノートが出てきたそうだった。
 皮肉すぎて、私はなぜかちょっと笑ってしまった。
 山野辺は死神にでもなるつもりだったのだろうか、と。
 でも、どんなに否定しても、彼は未来を変えることはできなかった。
 未来は着実に一本の道へ向かって進んでいったのだ。

 親友の死は厳然たる絶対に変えられない事実として、思春期真っ盛りの彼に襲い掛かった。
 以来彼は、何をするにもやる気がなくなり、今のようになってしまった、ということらしい。

 話は分かった。
 でも、でも私は、どうしても彼の考え方を受け入れることができなかった。

 ○

 山野辺の家を出てから、ミッキー先輩との間に会話はなかった。

 外は雨だった。
 二人分の傘がなく、しかたなく私たちは相合傘をして歩いた。
 道路を通る車が、時々私の足下に泥水をひっかけていったが、もはや気にする気力も残っていなかった。
 信号待ちをしている時、ミッキー先輩は最初一人事のようにこう言った。
「――これで、二度目や」
 私は単純に、どういうことだろう、と思った。
「俺の周りで、どうしてこうもぽんぽん人が死ぬんかな。勘弁してほしいわ、ホント」
「……どうか、されたんですか?」
 はじめ、私は合宿の時の話かと思った。
「どうもこうも、去年俺オカン死んだばっかりなんやで」
 私はなにせ初耳だったので少しびっくりした。
「ああ、言うてへんかったっけ? うちのオカン去年死んだんやけど、それもこいつが予言しとったんや」
 ただただじっと宙を見つめて、ミッキー先輩の顔は険しいままだった。
 私は自分以外にも、山野辺に未来を聞いた人がいたことにまずびっくりした。
「今でもよう覚えとるわ。俺例の合評事件の時、女の子の件で山野辺問い詰めたんや。そしたらあいつ何て言うたと思う? 『お前の母ちゃんな、あと一年以内に死ぬんだぜ? 信じられるか。母親大事にしろよ』とかぬかしおったんや」
 たしかにひどいが、山野辺なら言いかねない感じだった。
「あん時俺マジ切れして、本気でぶん殴った。ブラックユーモアっちゅう言葉で片付けられんやろ、そんなん。それで俺山野辺っちゅう自称未来予知能力者のアホがおるんやって、そこら中で騒いで回った」
 噂を流したのは、やっぱりミッキー先輩だったのだった。
「でもな、半年経ってウチのオカンマジで病気になって死んだんや。
 実はもう、あいつが俺に予言とかいうてほざいてた時点で、オカンちょっと最近体の調子悪いから病院通ってるって話しとったんよ? だからこそ俺、オカンが死ぬはずない、そんな未来否定したかった、っちゅうか、なんちゅうか……」
 話を続けるミッキー先輩の顎からは、雨水と混ざり合った涙がしたたり落ちていた。
「それで、俺あいつに謝りに行ったんや。むかつくけど、でも噂ばらまいたのは悪かった、って言わなあかん思てな。
 そしたらあいつ『いや、謝るのは俺だ。本当にごめん』って逆に平身低頭謝って来よってな。あいつ曰く、未来が見えることが重荷になりすぎてしまった、ってことらしい。
 それ以来、あいつの未来予知は予知やのうて、現実に起こることのスケジュール表持っていてそれをひたすら読み上げているようなもんなんや、って思うようになった。こいつも大変やったんやなぁ、って」
 辛いのはミッキー先輩だけじゃなくて、山野辺も同じだったんだ。
 未来予知ができるということが、ここまで残酷だなんて想像だにしなかった。
「先輩、実は私も――」
「サハラもそうなんやろ? なんかあいつに未来聞いたんちゃうん?」
 先輩には、ばれていたか。
 まあ、未来予知能力者がいたら、聞きたいことなんてみんな同じだよな。
 そう思った矢先、先輩はさらにこういった。
「っちゅうかな、人間の性ってやつやろ。文芸部のやつらみーんな、山野辺に自分の未来について聞いたみたいなんや」
 先輩は山野辺の死後、部員全員が集まった時に自分の罪について告白したのだという。
 すると、矢本さんや葵君、ドンさんも、全員が全員自分の未来について質問していたということが判明したのだった。
 山野辺は私のときと同じで、一人一つずつしか答えなかったのだという。
 葵君とドンさんは共同で製作した作品が五年後に受賞し、大きく評価されること。
 矢本さんは現在付き合っている彼氏と結婚すること。
 ミッキー先輩以外は、みんな明るい未来を約束する内容だったそうだ。
 そして、この時の私は知らなかったが、これらは全て数年後に現実になった。
「アホみたいな話やろ? それで、お前、あいや、砂原は何聞いたん?」
 先輩はようやく破顔して、力なく笑いかけた。
「実は、アタシ……」
 私は喉まで出かかっているあのことを言いかけて、やっぱりとどめておくことにした。
「死ぬ前に、山野辺と一回会ったって話しましたよね。あの時、山野辺が具体的にいつ死ぬっていう話をされただけです」
 年内に彼氏ができる――それはやっぱり、嘘じゃなかった。
 山野辺の言葉は、心の奥にしまっておくことにした。
「まあ、ほんでも、常識のある奴でよかったわ。
 もうええ! この話は終わりにしよう。俺、どうせ文芸部やめるしな」
「そうなんですか?」
 唐突に切り出されて、びっくりしてしまった。
「山野辺死んで気分も悪いし、就活もせなあかんしな。大丈夫や、部室にはたまに来たる。サハラ砂漠にもオアシスが必要やろ」
 私たちは駅に向かう道中、お互い自分のことについてよく話した。

 ○

 結論から言うと、私と先輩は付き合うことになった。
 閻魔帳がどうとか、そういうのは関係なく生きていきたいと思ったからこそ、そうしたのかもしれない。

 もちろん、山野辺のことは忘れない。
 未来予知ができるなんて、全部妄想だったのかもしれない。
 それだけでは説明できないことが多すぎたが、そう言い聞かせることで、今は自分を納得させている。

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