見出し画像

短編:【雨のち凪】

増水した川では、生臭い水が溢れそうに揺らめいていた。その淵の柵を越えてしまえば、簡単に藻屑となって川に流れて消えることもできるかも知れない。

「どざえもん…」
不謹慎な言葉が口を出る。
言葉の意味を知った後でも、その響きが幼い頃に好きだったアニメ漫画の名前に似ていたこともあって、非常にポジティブな印象があった。

昔の川はもっともっと汚かった。学生時代は川の横にある学校に通っていた。そこではカヌー部があって、県でも指折りの強豪校だった。帰宅部の私は、校舎からその練習風景をぼんやり眺めながら、よくあんな汚い川で強くなれたものだと感心していたことを覚えている。
カヌー部は上流に向けてボートを漕ぎ、ゆっくりと戻って来ては、再び上流へ向かう。終わるとその重いボートを担ぎ、学校の格納庫に仕舞っていた。

その頃、川の上流には養豚場があって、三カ月に一度程度、脱走し川に落ちて溺死したのであろうデップリした肌色の物体が、下流に流れるさまを見かけた。
いつものようにぼんやり眺めていると、上流から肌色の塊が流れて来た。しかしその塊は布切れをまとっているようだった。校舎からゆっくり見えなくなった所で、すぐ横の土手道をサイレンを鳴らした2台のパトカーが走り抜けて行った。
翌日の新聞には、小さく、本当に小さな記事として、水死体が見つかったと載っていた。

それでもカヌー部は全国大会へ出場できるまでの力を付けていた。
全国大会直前に行われた文化祭の時、校内でタバコの吸殻が見つかった。たまたまそれが、川に最も近いカヌー部の格納庫の側だったこともあって、問題視された。当時はいまのような監視カメラなどは無い時代。しかしその事件が起きてすぐに、PTAの働きがけによって、他の部活OBがたまたま文化祭に訪問した際に、人気のないその場所で喫煙をしたと謝罪が入った。学校とPTA、県の教育委員会の判断で、カヌー部は全国大会に出場させて頂けたのだが、一回戦敗戦という散々な結果だった。

川の側の環境が良い広い敷地。それがこの学校のメリットだったこともあって、当時はこのまま学生が減って来るのであれば、真っ先に消えるのはここだろうという噂が飛び交っていた。跡地はそのまま建物を利用しての老人ホーム。校庭は広い駐車場。まことしやかに囁かれたこの噂は非常にリアリティがあった。

時代と言うのは残酷なもので、いまのご時世であれば大問題として大きな騒ぎになることがらが、いとも日常の、ほんの一瞬の切り取りとしてやり過ごされていた。流れて来た水死体の身元はどうだったのか、原因は、事故だったのか、事件だったのか。さらには校内での喫煙は本当にOBだったのか。上流にあった養豚場はどうなったのか、いまとなってはすべて分からない。

なぜそんな古い記憶を思い出したのだろう。

そうか、これが走馬灯か。私は大量の水に囲まれて浮いている。増水した川は生臭い匂いと共にゆっくりと漂っていた。私は落ちたのか、自身で川に入ったのか。川沿いの淵を歩いていたのは錯覚で、実は死の淵を彷徨っていたのかも知れない。生きているのか、死んでいるのか。この醜いぽっこりしたお腹は元々なのか、たっぷりと腹に溜まった川の水なのか。この川はとても広い。その広い大らかな流れに乗って海まで漂い出れば、すべては関係ない。

口には出せない思考が頭の中で反響していた。
『ボク、どざえもんです〜』

     「つづく」 作:スエナガ

#ショートショート #物語 #短編小説 #言葉 #写真 #フィクション

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?