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短編:【昨日と同じ年末と、今日と違う新年】

幼い頃。実家ではコタツが出ていて、新年用のおせち料理を作る煮物の薫りが立ち込めていた年末。大掃除をして片付けを終えると、すぐに新年の用意をして、その新年のために使ったたくさんの食器や飾りなどを片付けてと、当たり前のように、またはそれが誰もが行う行事のように行われていた。

会社員となって、年末が来ると忘年会があった。会議室に集まって、関係各社から届いたお歳暮の缶ビールと、近所のスーパーで購入して来た乾き物、あるいはデリバリーのピザを数枚並べて、みんな笑顔で、真っ赤な顔をしていた。そう、ちょっと前まで、出前と言えば、そばうどん、ピザぐらいのものだった。

いまの時代では考えづらい現実。5年もあれば、世の中は変わってしまうことをまざまざと証明して見せた、いまの世の中。

正月三が日はどこのスーパーもやっていない時代から、年始早々に福袋を販売して、正月一日からコンビニが開いていて、また24時間営業が当たり前だった時代が少し落ち着いて、それでもお酒を呑んで運転するなどは以ての外で…。どんどん目まぐるしく変わる世界。

いま自分がどこにいて、何をしているのか分からなくなりながら、なのに必死に何かを考えていて、考えることが仕事となって、考えていないと自分の価値も失われるような気がして。それでもいまは生きている。

便利な世の中になったと思う。しかしその便利は誰にとっての便利なのか。その便利を得られるためには、どれだけの人が努力し、何かを犠牲にして、いまの便利に辿り着いたのかを意識しなくてはいけない。誰のために何のために。次の時代が楽になるように。明日が楽しい日となるように。

考えることが仕事という政治家が、考えるのはコンピュータに任せれば良いと言い出した。おっしゃるとおりで、人間を楽にさせるために機械が生まれ、人の何倍も早く計算処理できる知能が生み出されてきた。イタチごっこのように、犯罪とフェイクニュースが多くなり、それを信じる人間が痛い目をみる。10年前には思いもしなかったこと、5年前には想像もできなかったこと。しかし30年、50年前には予知していた「いま」がある。

当時、時代の象徴として建てられて建造物が、いまでは各地でポコポコ誕生し、その役割を終えようとしている。昨日の当たり前は、今日の非常識となり、明日には遺物として扱われる現実。

年末年始の瞬間は、いつもの繋がりの延長線とは異なり、昨日と今日と明日は別物として扱われる。しかし現実は昨日と同じ今日であり、今日と同じ明日が来ているだけである。

希望は持ちたい。期待もしたい。だけど、同じかも知れない。それでも私達は、今日と違う明日を生き抜かなければ、生きていられないのだ。

     「つづく」 作:スエナガ

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