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目を背けていられるのは、あとどれくらいだろうか?

乱文かつ残酷な内容になります。注意してください。

 この10年間ほどで、毎年のように痛ましい事件が発生しているように思います。私の成長に合わせて、目に留まるものが増えたからそんな気がしているだけなのでしょうか。私はそうは思いません。やはり現代社会には瘴気のような猛毒が蔓延しているように私は感じます。穏やかな生活に違和を感じ始めたのは2015年の新幹線での焼身自殺、相模原の殺傷事件です。当時私は10代半ばでした。つづいて2019年ごろ、有名アニメスタジオの放火事件、竹下通りの暴走事件があります。記憶に新しいものだと京王線の刺傷事件、元総理を襲った凶弾など。あまり世間を賑わせなかったとはいえ、他にも「死刑になりたかった」という動機で殺人未遂を起こす事件は複数発生していました。「死にたい」「どうなってもいい」というような破滅願望と希死念慮がこの社会の隅々に染み込んでいると私は考えてなりません。

 述べるべきではありませんが、実際私も死にたくて仕方なかった時、「何か大きな過ちを犯せばみんなが私の狂気に気づいてくれるのではないか」「助けてくれるのではないか」と考えたことがあります。「誰かを殺すことで、壊すことでどうにかしたい。どうにかなってほしい。」と心から思っていたわけでは当然ありません。ただ私は、私が全力で泣きながら拒んでも、誰かここから連れ出してくれないかなと思っていました。今ではこのようなことを思いませんが、そんな経験があるため私はこういった思考回路にある程度の理解と想像力があります。SNSを見ているとこのような発言を目にしました。「大型ショッピングモールなど吹き抜け構造の建物を見ると、社会は誰かが急に発狂しない前提で作られているのだなと感じる」、「死にたいと思わないでもない私は、狂気じみた事件を見聞きするたび、私はあと何歩でそちら側に行くのだろうかと恐怖する」といった声。何かが私たちに近づいてきている気がしてなりません。

 社会に蔓延した猛毒は、感染症よりも人々を恐怖に陥れてているのではないでしょうか。多様性や自由の名のもと、同性愛や選択的夫婦別姓、一人で生きること、様々な生き方が議論され、肯定されつつあります。SNSやインターネットの発展によって、経歴や境遇問わず運や実力があれば何でも出来るという様子が大々的になりました。これはとても素晴らしいことだと思います。しかし一方で、これらは人々の孤独も進めているような気がしてなりません。自由が極まった結果、誰もがなんでもできるようになりました。その中で、その自由についていけない人も生まれたのではないかと思います。なんでもできるから何でもやればいいという雰囲気が、できない人を寂しくさせる、孤独にすると思います。自己責任論が物凄い速さで強まっているように感じます。私もその一人です。友人は三名ほどで、住んでいる場所は、とても遠い。何をするにしても話すにしてもこの空間には一人ぼっちになります。好きでもない学校に行き、家では孤独に寝転がり、文字を読み、事あるごとに人生を捨てたくなる。誰かに会いに行こうにも、何となく引け目を感じて会いに行けない。結局元気が無くて何もできない。そういう人生を歩んでいる人がこんな自由な世界でどう生きろというのでしょう。いえ、どうやって孤独を癒し、前を向いて、楽しさと努力を信奉し、苦しさを抑え込んで生きろというのでしょうか。

 この文章は一年以上前に記述したものになります。当記述は私自身の歪んだ心象を一部さらけ出している文章の為、公開をずっと躊躇っていました。人の暗い部分であると同時に危険とも言える部分であるからです。
昨日、京都府で発生した痛ましい放火殺人事件の初公判が行われました。これを見て、私は公開してみようかと思いました。
これに関して、私の意見としては死刑で間違いない、です。ですが私は声を張り上げて彼を正真正銘の悪人、殺人鬼、罪人で即刻死刑にしろと言う気にはなれません。一方で、彼にはこんな過去があるからどうのこうのと死刑だけは避けようだなんて擁護する気もおこりません。死傷者の数を見れば、死刑に”する他ない”だろうというのが本音です。私にはもう死傷者の数しか判断材料がない、というよりあまり考えたくありません。

 メディアを見ていて気になるのは、コメンテーターの手厳しい意見です。その手厳しさが悪いとは思いませんが、やっぱりわからないよなと思いました。アナウンサーやコメンテーターの方々はきっとたくさん努力していい大学に通って更に勉強と努力を重ねて、とそういう人生を歩まれてきたのだと思います。他の立場やご職業の方もきっとそうでしょう。世の中の殆どの人が沢山の努力や苦労の上に今の生活を組み上げている、そして手一杯に生活をしている。それでも、そんな人にはわからないし微かにさえ見えない何かがあるんだろうと私は思います。勿論彼が行ったことは許されるものではありません。こんな言葉で指し示すことすらもできない程のことです。それでも私は、この事件のことを考えると口を噤んでしまいます。それと同時に、自身の周囲で誰かが自殺したり凶行に及んでも、それを「助けられなかった」「言ってほしかった」なんて断じて言うことが出来ないなと思いました。「私も追い詰めた側なんだね」と感じずにはいられません。

 
 昔の友人のことを思い出します。彼彼女たちならきっと元気にしていると思います。私が完全に信頼し甘え切っている友達のことを思い浮かべます。「あの人は強い人だから、」という言葉がいつも最初に出てきます。
 しかし、先日久しぶりに再会した時、彼は珍しく悩み事を漏らしました。そんな姿を見て私は直ぐに、素直に、「君も怯えているんだね」と受け止めることができませんでした。戸惑ったり驚いたりしたのではありません。拒絶したかったわけでもありません。
 私はもう大人にならないといけないと強く思いました。もう友達ではないのだと思います。大人になれば友達や付き合う人間は選ぶことができます。しかし彼彼女らはその対象ではありません。簡単に割り切れないし愛しているから、友達をとっくに超えているのだと思います。「自分が追い詰めた側にならないように」という自分のエゴだとしても、私は皆の傍にいていたいと思いました。

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