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「うっかり起こるミス」の原理

うっかりミス。なくしたいですよね。
まぁでも、人間である以上、完璧になくすことはできないんですけど、少なくとも1度起こしたミスは2度も3度も繰り返したくはないものです。

 でも、やっちゃうけど!

私はあまりオフィシャルの場で繰り返し同じミスを起こすことは無い(というか、無いように気を張っている)んですけど、プライベートではその反動か、よく起こしてるような気がします。

以前、東京に住んでた頃は、ちょいちょい引っ越しが多かったので、面倒くさがって住所変更による郵便物配達先の移転手続きをしていなかったら、3度連続で『免許更新』の期限を過ぎ、"うっかりミス"扱いで講習の受け直しをしたことがあります。

あと、10年に1度くらい、火をかけっぱなしで出かけたり、寝てしまったりで、炭を作ったことが…(今どきのコンロは勝手に消えてくれるので助かってる)。

まぁ、オン/オフの切り替えってことで!オフィシャルで頑張ってる分、プライベートがgdgdなのは、けじめのついてる子ってことで!!

ヒューマンエラー

ミスを防ぐためにまず一つ、必ずおさえておかなくてはならない事実があります。それは、

 「ミスを起こすのは、人間や動物と言った生き物だけである」

ということです。機械やコンピューターは、ミスをしません。

 「え、そんなことはありません。よくシステムエラーを起こしますよ」
 「たまにニュースで、コンピュータ
の採点ミスで大学受験の合否が変   わってしまったなんて話を聞きます」

そんな声が聞こえてきそうです。たしかに、システムエラーを起こすことはあるでしょうし、そんなニュースも聞いたことがあります。

しかし、それはコンピューターが起こしてはいても、厳密には『コンピューターのミス』ではありません。

ハードウェアやソフトウェアは、人間が設計・製作した通りのことを、忠実に実行しているだけです。ですから、そのミスを起こしたのは、そのハードウェアやソフトウェアをつくった人間です。その設計や製作に難があったから、意図した通りに動かなかっただけ。コンピューターのせいではなく、人間がそう動くように命令したに過ぎないのです。

ゆえに、ソフトウェアやハードウェアにおいて「バグ(不良/欠陥)」とは、究極的に言えば

 ヒューマンエラー(人の起こす問題)

しか存在しません。人間様がどのくらい偉い(と思い込んでるだけの)存在なのかは、このことからもよくわかるかと思います。

これは、「ミスの原因はどこまでも人間にある」という厳しい事実を突きつけてくる反面、「どんなミスでも人間たちの力で防ぐことができる」という希望にもつながります。コンピューターも機械も、自分から勝手にミスすることはないからです。理論上、人聞から失敗をなくせば、あらゆるミスをなくすことが可能なのです。


ミスをミスであると認めること

何か重大なミスが起こったとき、多くの人は、

 「まさかこんなミスが起こるとは思わなかった」
 「こんなことがあるなんて、想像もできなかった」
 「気がつかずに見落としてしまった」

などと言います。「想定外」とか「予想外」とか。

ミスをなくすことがなぜ難しいかというと、ミスは"思いがけず起こる"からです。言い換えれば、ミスを想定しないから起こるわけで、ミスする自分を予想しないから無くせないだけなのです。

「これはミスにつながるだろう」とあらかじめ認識して起こったミスは通常たいした事故にはなりません。想定したつくり、想定したプロセス、想定した準備等、なにかしらが行動に伴います。想定もしなかった未曾有の事故・事件が起こったときこそ、そのもととなる重大なミスへとつながっていくのです。

その典型例が、2011年の東日本大震災と、福島第一原子力発電所の事故ではないでしょうか。

 「あんな大きな津波がくるなんて、思いもしなかった」

と感じた方も多いのではないでしょうか。実際、東京電力の元会長である勝俣氏も同じようなことをおっしゃっています。

そして、そう思っていたからこそ、東京電力も日本政府も混乱し、対応が後手後手に回ってしまいました。後から検証をしてみると、「あんなに大きな津波はこない」と思っていたこと自体がミスだったとわかります。


リスクマネジメント

ビジネスの現場では、『リスクマネジメント』と言う考え方があります。

国際規格ISOでは、ISO 31000:2018で規定されていて、今ではISO内の多くのマネジメントシステムにおいて導入されており、世界中のいたるところで活用されている規格でもあります(日本工業規格でも、JIS Q 31000 で翻訳され、取り込まれています)。

リスクマネジメントの基本は、「あらかじめリスクを特定し、管理し、発生頻度や発生確率、および発生した時の影響度などから、対策優先度をつけて、計画的に対応していきなさい。起きたものは管理して、再発防止しなさい。」というものです(と、私は解釈しています)。どんなに確率が低くても、『想定しない』と言うことがあってはいけないのです。いざ万に一つ、億に一つでも起きてしまったら致命的な問題となってしまうからです。

「失敗学会」という、世の中で起こったあらゆる失敗を検証し、再発防止に努めるための組織があります。

たとえば、化学工場の爆発やプールでの事故、電車の脱線事故、飛行機の墜落など、事故や不祥事が起こるたびに、そのデータを収集し、原因を分析します。そして、同様の事件が二度と起こらないよう、データベース化しているのです。

ある意味で、企業内にある「品質管理」とおなじことを、全国的に取り組んでいる団体…とでも、言うべきでしょうか。

失敗学会での取り組みを通して見えてくることは、世の中の事故も不祥事も、

 「まったく新しいこと」
 「まったく想定外のこと」

が原因で起こることはほとんどない、ということです。すでに現代では既出のものであったり、想定できたはずなのにしなかったことで世の中は溢れています。

前述の原子力発電所の事故にしても、15メートルの津波がくることが本当に、まったく想定できなかったか?というと、「失敗学会」の出した結論はNOです。

事実、震災以降「ここより下には家を建てるな」という、祖先が残した石碑が改めて注目されています。

高き住居(すまい)は児孫(こまご)に和楽(わらく)、
想へ(おもえ)惨禍(さんか)の大津浪(おおつなみ)、
此処(ここ)より下に 家を建てるな。

明治二十九年にも、昭和八年にも津波は此処まで来て部落は全滅し、
生存者、僅かに 前に二人後ろに四人のみ
幾歳(いくとせ) 経る(へる)とも要心あれ。

これは、1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メ­ートルの場所に建てられた石碑の警告です。海抜60mまで津波が来た事実が過去にあったことを示しています。これだけでも、60m級の津波が来ることは(億が一かもしれませんが)予測できるはずです。


あるいは、2012年にコンクリート板が崩落し、多数の犠牲者を出した笹子トンネルの事故も、実は2006年にボストンでまったく同じような事故が起こっていました。その事故を共有し、対策を講じていれば、笹子トンネルの事故は絶対に防げないものではなかったはずです。

このように、過去に起こった事故やミスを活かせていれば、「まったく予想だにしていなかった失敗」は実はほとんどないのだということがわかります。想定できなかったのではなく、想定しようとしなかったことがヒューマンエラーとして問題なのです。


失敗を共有する努力

個人がビジネスや日常生活で起こすミスと、これらの大事件とを並べて考えるのは違和感があるかもしれません。しかし、個人レベルでも、基本的な考え方は同じです。

個人レベルでは、

 「え、まさかそんなことが起こるなんて」

と思うようなミスでも、チーム全体、部署全体、会社全体、世の中全体、と視座を上げていくと、必ずどこかで類似の失敗が起こっていることに気づけます。それなのに同様の失敗が今も起こり続けているのは、かつて起こった類似の失敗が共有されていないから、それだけです。

ソフトウェア開発で起きているここ数年の大トラブルプロジェクトについても、その原因を特定し、抽象化すれば、その原因はおそらく2~3種しかありません。

つまり、

 失敗が関係者全体の中で常に共有され、
 一人ひとりが責任意識を持って改善に取り組んでいれば、
 大多数が再発することはなかった

と言うことを示しています。あるいは、過去に起こった失敗がうまく体系づけられていないために、同類のこととして捉えられていないために、共有することの意義が見出されていなかっただけなのです。

回避のコツや、以前に起こった失敗の原因と対策がわかれば、既出の失敗を格段に減らすことができます。また、失敗が起こり始めたときに、その兆候に気づくことができるようになります。

失敗を防いだり、被害を軽くするためには、この「過去に必ずヒントがある」という気づきは重要です。過去にあった偶然の産物かも知れない成功ばかりを自慢げに語るだけではなく、過去にあった目を背けたくなるような失敗から、現在に活かせる情報を抽出する方が、よほど生産的で、よほど世の中に貢献しているとは思いませんか?

私は常々、「勝つ(成功の)ための計画」ではなく、「負け(失敗し)ないための計画」を立てることに大きく意識を割きます。野球で言えば、1点も取れなくても、1点も与えなければ、負けることは無い…という戦い方です。実際、負けない算段さえ整えば、勝つのは難しくありません。ほんの少し、どこかのポイントで僅か1%でも相手の予想を上回ればいいだけだからです(まぁ、経営者向きではない考え方なんだろうなー、とは思いますが)。


愚者、狂者、賢者

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 『愚者は過去を語り、 賢者は現在を語り、 狂者は未来を語る。』

言わずと知れた、フランス革命後に帝政を築くにまで至り、王冠を受けたナポレオン1世、ナポレオン・ボナパルトの言葉です。こよなく「不可能」という言葉を愛さなかったナポレオンは、特に名言が多い歴史上の偉人ですが、このセリフはさほど有名な部類ではないかもしれません。

IT業界については90年代以降、多少の波はあれど、未だに技術革新真っただ中というところでしょうか。ナポレオンが放ったこの言葉は、「意識の高さ」「視座の高さ」を表している言葉だと、私は思っています。そして視線の先を照らし出す言葉でもあります。

 ・ただの批評家になるな。
 ・同じ場所に居座るな。
 ・足元に注意しろ。
 ・理屈倒れになるな。行動で示せ。
 ・未来に備えて、準備を怠るな。
 ・言いなりになるな。常に考えて行動しろ。

これらは、視座を高く、視野を広く持ち続けるためには、絶対に必要なテーマです。

特に最初の「ただの批評家になるな」は、重要です。相手を批判、批評するのは簡単です。傍観者が意見を述べることなど、非常に容易いと言えるでしょう。それ自体、「第三者の視点から」という意味において必要なことではありますが、そこから生まれるモノの比率は、圧倒的に低いと言えます。

国民性とも言えますが、「批評家」という職業が存在するのは、日本くらいではないでしょうか。諸外国では、れっきとした職業を持っている上でコメンテーターとして呼ばれることはありますが、「批評家」が職業として認められるようなことはまずありません。

この批評家現象は、過去しか語れない状態へと陥り、プロジェクトチームにおいては、何の役にも立ちません。

 「じゃあお前がやってみろよ」

と言われても、批評家は批評しかできないからこその批評家であって、自分では何もできないからです。自分で何かをできるのであれば、わざわざ批評家と言う立場に甘んじることもないでしょう。自ら動いて、結果を出した方が何万倍も建設的で、何百万倍も貢献できるからです。

だからこそ、発言内容には注意するよう呼び掛けています。

起きたこと(過去)に対して、責任のないところから好き勝手言うだけしかできない人を、ナポレオンは『愚者』と呼んでいるのです。

未来についても同様です。

現在から確かにつながっている未来であれば、それは「計画」と言うものです。地に足がついている人の語る未来は、聞くものにとっても現実となることを確信させます。ただの「夢想」、ただの「絵に描いた餅」とはまったく意味が異なるのですが、その点を履き違えて未来を語って酔うだけの人を『狂者』と呼ぶのです。

 過去の経験や経緯、情報から現在に活かす
 現在を見据え、未来を語り、現在の活動に取り込む

人にできることはそれしかないということを理解している人を『賢者』と呼んでいるのでしょう。

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