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客観性

客観性を持つと言うことは、己の価値感や考え方、思い、感情などを排して

 「他人の目を気にする」
 「他人の同調圧力に屈する」

ということではありません。それは「他人の主観に依存しているだけ」であって客観的でもなんでもないのです。

客観性を持つと言うことは

 自分を含め「人」の常識(価値観、考え、感情、etc.)に依存しない

ということだと私は考えています。ある意味で「機械的」なのかもしれませんが、そんな低俗なレベルの話にとどまらない…のではないでしょうか。

 ・事実
 ・因果関係

だけを用いて美しい数式のように組み上げていく道理の筋道のようなものを持つとき、初めて客観性を帯びてくるのだと思います。

自分の価値観に当てはまるかどうかは関係ありません。

他人が納得するかどうかも関係ありません。

たとえば「北はどちらか」と言った場合に、一人ひとりが主観的に判断していると、みんなそれぞれ思い思いの北を指さすかもしれません。ですが、事実に基づいて個人の考えや判断、価値観等に左右されず指さすのであれば、皆一様に同じ方向を指さすことになります。

このように同じ道理に基づいてしまえば同じ結果に辿り着くような流れに乗ることを「客観性を持つ」ということなのだと、私自身は解釈しています。

また、仮に因果関係よりも結びつきの弱い"相関関係"を用いる場合は導き出した答えやシナリオ通りとならないリスクを勘案しなければなりません。また因果関係を明確にできない懸案についても同様にリスクを考慮しなければなりません。100%の結びつきではなく、もう少し荒い結びつきを根拠にする場合はどうしても想定しておかなければならないことです。

主観による判断も、相関関係による分析も、ものごとの因果関係を特定できない根拠も、すべてはリスクを検討しなければならないものとなる…と考えておいていいでしょう。


そもそも「人」に依存した基準を持ち出した時点で客観性は崩れます。

なぜなら、自分の考え方や価値観を中心に据えたとしても、他人の考え方や価値観を中心に据えたとしても「人の持つ主観性」と強い結びつきを持ってしまうからです。

主観的であることが決して悪いというわけではありません。それらはその人たち自身にとっては正しいものです。

たとえば『好き嫌い』。

他の人にとって好物であったとしても、自分にとっては嫌いとなる…普通にあることです。高いところが好きな人もいれば、苦手な人だっています。様々な乗り物を乗りこなす人もいれば、体質的に酔いやすい人だっているでしょう。個性は千差万別です。そしてそれらは何一つ悪いものではありません。

ですがどんな形であれ

 「他人に干渉する」
 「他人を巻き込む」

となると話すは別です。

主観的な考えのもとに判断されたものはその人たち自身にとっては正しいものなのでしょうが、他人にとって、世の中にとって正しいかどうかは別物です。

言い換えるなら、適用できる対象スコープが著しく狭いのです。

 「これ美味いから食べてみな?」

何気なく勧めた食べ物が相手にとって苦手なものだった…ということだってあります。それは自分自身が思ったものであっても、他人が思ったものであっても関係ありません。「人」が個人的価値感や感情をベースとして判断したものであれば、それらはすべて

 主観的

となります。他人の意見に流されるからと言って、それが客観性を持つことに名はなりません。他人の主観性に流れているにすぎないのです。

しかし、たとえば

 殴る → 打ち所が悪い → ケガをする → 痛い

と言ったように、それぞれが強い結びつきを持った因果関係によるものを判断軸とすると話は変わってきます。自分も他人も関係なく、誰にとっても等しく同じ結果、同じ判断が可能となります。これが客観性です。

なんでもかんでも客観性を持つことが正しいわけではありませんが、主にコミュニケーションにおいて「相手に納得してもらう」「相手に理解してもらう」ためには、

 相手の主観に合わせ、相手にとって都合がいいシナリオを構築する

か、

 相手に反論の余地が無いほど納得できるストーリーを用意する

しかありません。もちろん前者でもかまいませんが、しかしそれを人間関係の構築やビジネスの中で取り入れようとしたとき、長続きできるのでしょうか。

ビジネスも基本的にはコミュニケーションが主体となります。人間関係もコミュニケーションが主となるでしょう。そのような中で、常に相手の顔色を窺って自分自身が損してでも相手の顔を立てる…そんな関係性が真っ当な関係と言えるでしょうか。それを望んで害を被りたいと思う人が存在するのでしょうか。

答えはNoです(何事にも例外はいるかも知れませんが)。

相手が誰だろうと関係ありません。
自分がどんな立場だろうと関係ありません。

一方にとってのみ都合のいいコミュニケーションの進め方で、人間関係もビジネスも長続きできるわけがないんです。

ですから私は、私自身の個人的に持っている価値観も信用しませんし、私が個人的に抱える感情も信用しません。根拠も明確でないままに私の頭の中で考えついたこともハッキリとした根拠が紐づくまでは信用しません。好き嫌いすら自分の中で持っているだけで、それを他人にどうこうさせようなんて考えたこともありません。

ただし、私自身が害を被りそうになったら逃げますし、離れますし、二度と近づかないようにしますけど。別に逃げてより良くなればいいだけなので。

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物事の事象やその結果には必ず因果関係があります。

複雑すぎて完璧に把握することは難しいかもしれませんが、ごく一部であればたいていのことは解明できるものです。であれば、事実情報をもとに

 ・情報の複雑な関係性をほぐす
 ・ほぐした情報を整理する
 ・整理した情報群から因果関係を検討する

を幾度となく繰り返していけば、わかることもたくさん増えてきます。


かと言って「主観」の全てが悪いと言っているわけではありません。

中には客観性を持つよりも良い結果を生み出すことだってあります。しかしそれは「より良い主観」であった場合に限ります。人の個人的思想や概念の全てが悪いというわけではありません。個性的ではあっても、客観的事実よりもはるかに良い結果に結びつけることだって可能だと思います。

問題は、そうした主観優先とした文化やルールを「周囲が納得するか」「組織全体で運用できるのか」です。

特にビジネスや集団活動のなかでは機能しにくくなります。1人が主観的な意見を持ち出すと、チームや組織全体で「主観が許される」という空気を放ちます。結果、「良き主観」以外の「悪しき主観」も許容されたと勘違いする人たちが出てきます(まぁ本人自身は悪しき主観と思っていないかもしれませんが)。

そのリスクがある限り、仮に一部の特殊な人が良き主観を持っていたとしてもおおっぴらに採用することは難しいのではないでしょうか。


IT業界に飛び込んで25年。

内15年近くをトラブルプロジェクトがらみのなかで過ごし、その内10年ほどは解決に関係する立場を経験してきました。上から見れば度の立ち位置に存在するかわかりませんが、問題解決や問題の根本的原因の特定は人並み以上にできている自信はあります。

少なくとも現役のITエンジニアよりはマシだと思います。
まぁあくまで主観的な見解ですけど。

そんな中で、この『客観性』をもってきちんとリスクやバグ、問題、課題などに判断、対応できている人というのをほとんど見た記憶が無いんですよね。どこか「自分にとって都合のいい案」を押し通そうとしていたり、そこにそれらしく…よく聞けばつじつまの合わない理屈を根拠として述べるシーンを幾度となく見てきました。

一応、若かりし頃は忖度ばかりしてしまって私もその場で反発するようなことはほとんどありませんでしたから同じ穴の狢…と言ってしまえばそれまでなんですけど、だからこそ今は「自分を含む誰か」に流されず、本当に適切で、妥当で、納得できる判断をくだしたいと思います。

すくなくとも自分のこれまでの苦労や実績を裏切るような判断や行動はしたくないと考えています。

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