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須田光彦 私の履歴書③

宇宙一外食産業が好きな須田です。

先日、ニュースを見ていると弊社のクライアントが映っていました。
私も有吉ゼミでお世話になっている日本テレビの、エブリィというニュース番組です。

コロナ後の営業再開を追いかけた特集でした。
それまでは行っていなかったランチ営業を行い、営業再開をするという内容でした。
ご覧になった方もいらっしゃると思います。

非常に熱き魂を持った社長さんです。

ちょうど昨日近所に居抜き物件が出たので、物件調査がてらその新たに始めたランチによって来ました。

大盛況のランチタイムでした。

帰り際、「履歴書 読んでます!」と、社長からお声を頂戴してしまいました。

この社長のnoteも面白いので、よろしければ読んでみてください。


さて、母の葬儀を迎えることとなったバカ息子の私ですが、葬儀への準備と対応はビシビシと進めて、段取りよく進行していきました。

準備を進めている間に、残された父とも少し話しをして、姉とは相談しながら色々と決めておりました。

この時、「お前が社長をしていてくれて良かった」と、姉にぼそっと言われました。

葬儀会社の方も本当に良くしてくれて、深く感謝しております。

この間、悲しみもなく使命を全うするかのように頭をフル回転させて、準備を進めていた私ですが、いよいよ納棺という日がやってきました。

葬儀会場の一角で横たわっていた母に、死に化粧を施し着替えをさせて納棺する時がやってきました。

それまで一切の悲しみもなかった私ですが、母に化粧をしている間じゅう姉が母に話しかけながら母の手をさすっていました。

実は、私は母の手が大好きでした。

力仕事をして少し指が曲がっている、変形した手だったのですが、この手には沢山の思い出があり大好きな手でした。
本来、死後硬直で冷たくて硬いのが一般的なのですが、姉がさすっているとだんだんと暖かくなり柔らかくもなりました。

まぁ、姉の手のぬくもりが伝わって暖かく柔らかくなっただけと思いますが、でも、死に化粧を施している方も驚くほど、まるで生きている人の手のような感触になりました。

「おねぇ どけろ お前ばっかりズルい、俺にもお母さんの手を握らせろ」と、私は嘆願しました。

母の手を握ったその時です、何かが強烈に込み上げて来て、号泣してしまいました。
全く自分でもわかりません、なぜ嗚咽して泣いているのかが。

でも、わからないまま今までの思いのたけを込めて号泣しました。
ただ母の手を握り、奥歯が歯茎にめり込むほどの強さで食いしばって、鬼の形相で号泣しました。

どれほど大好きだったのか、これほどまでに母の愛情を欲していたのか、素直になれなかったこと、悪態をついて嫌な思いをさせてしまったことなど、感情と思考がグルグルと走馬灯のように駆け回りました。

気がつけば、姉にお願いして母の手を自分お頭に持って行き、頭を撫でてもらっていました。

そこで、心底気が付きました。
東京に来て、何があってもへこたれずに頑張ってきた、頑張って来られたのは、ただ一つの理由だったことに気付かされました。

私は、ただ母に褒めてもらいたい一心で頑張っていたんです。

この瞬間は、母に頭を撫でられている、ただの小さな男の子に戻っていました。

なんと安堵したことか。

忘れられません。

生前実家で飲みながら「お前は絶対に俺を褒めないよな、いつも文句ばかり言っているよな 小っちゃいころからず~っと文句ばっかな!」と悪態をついたことがあり、その時に母が「お前なんぞは、バカだから褒めるとすぐつけあがるべさ、文句言ってバカにしているぐらいがちょうどいいんだわ、お母さん以外誰がお前に文句が言えるのさ、バッカでないの!」と、言われました。

私は母をお前呼ばわりしていました、それぐらい酷い息子でしたが、この時も素直に聞くことが出来ずに、コノヤローぐらいにしか思っていませんでした。
母の口癖は「バッカでないの!」でしたが、子供の頃からず~っとバカ扱いされて来ました。

しかし、葬儀前の納棺の時にこの言葉が天から振ってきて、深くしみていきました。

母は誰よりも、私の最も注意しなければならない特性を理解していてくれていました。
バカと言われて丁度良かったんです、もう一度バカと呼ばれたくてももう叶わない、愛情深い貴重な言葉です。

「バッカでないの!」

母に褒められたい、認められたい、それよりも有無を言わせないほど認めさせたい、ただこれだけの感情で、私は頑張ってきたようです。

その結果が倒産でした。

怒りが原動力ですから、なるべくしてなっただけのことですが。
実は、怒りの根源はもう一つ、もっと強烈なものがありましたが。

母が亡くなったのは1月31日でしたが、その一か月ほど前の12月に、初めて有吉ゼミに出させて頂きました。

中々、札幌においそれとは帰れない状況の頃です。
やっと、人様と同じくらいの生活が出来るようになっていたころです。

勿論、テレビに出ることを母にも伝えておりました。

後々、姉から聞きましたが、放送になる何日も前からそそくさと準備をしていたそうです。
予約録画をセットして何度も何度も確認して、あと何日で放送だとか言っていたそうです。
当日は、姉にも早く帰って来るように命令をしたそうで、夕食を早々に済ませていて、テレビの前のソファの上に正座をして見ていたそうです。

私が出たのは2時間特番の一番最後のコーナーでしたが、その時が来るまで何度も放送が無くなったのかもしれないと、ソワソワしていたそうです。

放送が始まると食い入るように見ていたそうで、放送が終わってからトイレに駆け込んだそうです。

この有吉ゼミの放送が、私がたった一つだけ出来た、親孝行の真似事でした。

放送を観て母は、「もう大丈夫だぁ」と、呟いていたそうです。

亡くなる直前に少しだけ元気で頑張っている姿を見せられたことは、非常に良かったなと思っています。

日本テレビにも感謝しております。
私を見つけてくれたアシスタントディレクターの方にも、制作会社のAXONの皆様にも感謝しております。

最初の放送後、二回目の収録の時にこの一連のことをディレクターの方にもお伝えさせて頂き、直接感謝をお伝えさせて頂きました。

そんなこんなもあって、私にとっては、有吉ゼミはとても大事な番組です。

まぁ、本当に最後の最後まで、自らの死をもってしてまで、私に強烈な教えをもたらしてくれた母でした。

母の子で良かったと、今は心底思えます。

独立起業したのは、起業出来たのは、実は全て母の教えによるものです。
母の差し金と言っても過言ではないと言えます。

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