見出し画像

X指定の作品賞 / 「真夜中のカーボーイ」

誰にでも思い出に残る映画や小説があるはずだが、僕は若い頃に近所の書店で買った「真夜中のカウボーイ」の文庫が印象に残っている。1965年に書かれたこの本は1969年に映画化され、アカデミー賞の作品賞、監督賞、脚色賞を受賞した。
主人公の二人が冴えない男娼ジョー(ジョン・ヴォイト)と、ダメな詐欺師のラッツォ(ダスティン・ホフマン)であることからも分かるように、力強い主役というような、ハリウッド的な、あるいはアメリカ的な価値観は否定されていて、いわゆる New Hollywood らしい一作である。
僕はこの作品を読んだ中学生だか高校生の頃、ホモとはきわめて珍しい連中なのだろうと勝手に思っていたのだが、身近に山ほどいたであろうことを知ったのは大学に通うために上京してからのことだった。
世の中で少数派として生きている主人公たちがフロリダを目指すというだけのシンプルな筋書きであり、それゆえに二人を取り巻く世知辛い社会が浮かび上がるようになっている。1969年のアメリカでホモをこのように取り上げたのだから、X指定(いわゆる成人指定の映画)されたことも頷ける。ちなみに、アカデミー作品賞を受賞した唯一のX指定の映画である。それだけジョーとラッツォの悲しい友情物語が人々の心を打ったからだろう。
僕がこの文庫本をよく読んでいるものだから、父親が「それはホモの話だろう」と眉を顰めていたことをよく覚えている。ホモだけど良い話だ、と答えると「へぇ」なんて返事をしていたように記憶している。僕は映画などでホモのシーンになると気持ち悪くて目を背けるほどだが、それなのに「真夜中のカウボーイ」をよく読んでいたことが面白い。きっと文字だからだろう。文字と映像ではまるで役割が異なる。ちなみに、カウボーイの話なのに映画版の邦題が「真夜中のカーボーイ」になった理由は、水野晴郎が「カー」の方が良いと主張したせいだという。こういう輩をおだてて"映画評論家"なんてものに仕立て上げたせいで、日本列島で映画を語る時の方法論がおかしくなった。
僕は本を読まない人間による映画の感想なんて何の意味もないと思っている。なぜなら、文学に元ネタがあることがほとんどだし、文字の力を知らない者は映画が伝えようとしていることが見えないはずである。なぜなら、全ての映画には脚本があるからだ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?