スティーブンスかく語りき / 「日の名残り」
文学というものは文字によって伝達するのだから、良い作品であればあるほど映画に向いていない。映画は音声と映像によって進行するメディアなので、どうしてもあらすじを眺めることになるからだ。1993年の映画「日の名残り」は決して出来の悪い作品ではないのだが、1989年に出版されてブッカー賞を受賞したカズオ・イシグロの小説の根幹がすっぽ抜けたように感じられる。
その根幹とは、我々はみんな自分の流儀で物事を考え、生きているからこそ、いろんなことが行き違うのだ、ということだ。これを当たり前のことのように感じるかもしれないが、しかし人はいつも他人に期待したり、何かを望んだり、恋をしたり、そうやって関わりを持ちながら、決して交差することのない線のように生きているのではないだろうか、ということをイシグロは描いてみせた。
主人公の執事スティーブンス(アンソニー・ホプキンス)は、いつも dignity ということに拘って生きている。このことによってスティーブンスはケントン(エマ・トンプソン)との恋がうまくいかず、父との関係も最後までぎこちないままだった。しかし、dignity という言葉をどのように理解しているか、このことは各人によって異なっているわけで、それはちょうど各人がそれぞれの人生を生きていることに等しい。誰もが大切にしている事柄、あるいは言葉とは、他人にとって違う意味を持つものだ。愛という言葉もそうである。
ダーリントン・ホールの外の世界が戦後にガラッと変わったように、ケントンもまた結婚によってベン夫人となり、スティーブンスは自分が dignity によって人生を変える機会を失ったことをあらためて知る。いわば、自分で打ち立てた観念によって自分が潰されてしまったような男だ。ところが、実はそうした人が多いのではないか、とイシグロは本作で指摘しているのだ。スティーブンスにとっての dignity のような観念をイギリス社会、あるいは世界の各地でみんなが抱えているのではないかという問題提起である。
そしてこの小説は、スティーブンスが語っている。ダーリントン卿とのことやケントンのことなど、スティーブンスが生きた時間をスティーブンスの目線で見つめ、記憶の取捨選択、時には改竄を行い、読者に提示してみせることで、我々がいかに"都合良く"生きているかということを描いている。僕が何度も書いているように、語られたこととは、語られたことだからこそ、全て信頼できないものなのだ。信頼できない語り手なんて用語を得意気に使う奴は、信頼できる語り手を挙げてみればいい。これはスティーブンスの語った人生であり、仮にケントンが同じ時期の話を書けば全く異なったものに仕上がるのだ。そしてそれが、我々が世界あるいは他人を見る流儀なのだ。
そういう意味において、本作は「ロスト・イン・トランスレーション」にやや近い映画とも言える。内なる心と、実際の行動では、いつも何かが異なっている。スティーブンスならば dignity というフィルターによって、あらゆる本心が濾過されてしまう。同じところで同じことを経験しても、それは各人によって受け止め方がいつも異なっているという現実が描かれた映画だ。
こうした本心を抑制した生き方というものが実に"イギリス的だ"と本国では称賛されたそうだ。イギリス英語は回りくどい表現をすることが多い。スティーブンスは人生の残りの時間(remains)も、スティーブンスらしく生きたのだろう。
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