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ジブリの一般化

ピーマンやブロッコリーといえば野菜だ。野菜や肉といえば食物だ。このように、ヒトの思考には上から下に向かって(下を起点にして上へ伸ばしても良い)枝が無数に伸びていく樹木のような形式が備わっている。
さて、ピーマンから野菜へ、そしてさらに食物へと遡っていく作業を難しい言葉では帰納(induction)という。一般化(generalization)でも構わない。
たとえば、noteにあふれている多くの映画評のように、「プラトーン」とか「地獄の黙示録」など個別の映画を論じることが末端の方にあるとすれば、コッポラ監督を論じたり、戦争映画を語ることは、個別の映画の感想よりも一般化されたものと言える。さらに進むと、映画というメディアそのものについてマクルーハンみたいに批評することになる。
多くの人は、この「一般化」が苦手である。なぜなら、適切に一般化するためには少なくともなるべく多くの経験が必要だからだ。
人生で3人の男と付き合い、いずれの男も寝相が悪かったとして、
「男って寝相悪いじゃーん」
と言う女は、一般化をミスしていることに本人だけが気付いていない。
この「本人は気付いていない」という点が、類は友を呼ぶの根源だ。ある人物の持っている一般論は、ほとんどの場合、本人の経験のみに基づくからである。だから読書は大切なのだ。
もちろん、個別の話より一般化されたものの方が高尚だなんて話ではない。3次元をn次元に拡張して便利なのは数学や物理学でのことだ。僕にとっては「これらの物事をどう一般化するか」ということが、その人の個性の発揮だと感じられるのだ。
たとえば、多くの人はスタジオジブリの映画を数本観たことがあるだろう。だから「宮崎アニメ」という単語によって一般化して話が進められる。そのとき「少女の成長」という要素が最もポピュラーなのだと思う。
僕にとって宮崎駿監督の作品は常に「失われたもの」についての話だ。
「風の谷のナウシカ」では領土が失われていた。「となりのトトロ」では母親が、「魔女の宅急便」では魔法の力が、「紅の豚」ではジーナ、あるいはイタリアの誇りが失われていて、それらの失われたものを巡ってストーリーが展開している。
これが僕にとっての宮崎アニメという一般化だ。
ちなみに、どんな分野の事柄であれ、帰納という作業で大切なことは、前提が真でも結論が真とはならないので、常に人生の経験を重ね、要するに一般化をアップデートし続けた方が、おバカなことを真顔で言ったり書いたりせずに済むということだ。

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