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保身だらけのこんな世の中じゃ / 「羅生門」

よくてらって人間を信じないと云うけれど、人間を信じなくては生きてゆけませんよ。そこをぼくは『羅生門』で云いたかったんだ。つきはなすのは嘘ですよ。文学的にあまいというけれど、それが正直ですね。人間が信じられなくては、死んでゆくより仕方がないんじゃないかしら…。

黒澤明

日本列島の歴史をじっと眺めていると、なんでそうなるの、と言いたくなるようなことが山ほど起きている。たとえば、有名な例を挙げると、「真珠湾攻撃はなぜ奇襲にすると決定されたのか」という問いに誰も答えることができない。日米交渉をしながら12月1日の御前会議で開戦が正式に決まるものの、そもそも外務省は11月から宣戦布告の有無を含めて検討していたし、一方で海軍の幹部は8日開戦であると把握していた。11月27日の大本営政府連絡会議までの間に、誰かが、開戦するということと、奇襲するということを決めて、昭和天皇のOKをもらっているのだ。あるいは、昭和天皇みずからの”聖断”である。こんな重要なことでさえ、小説や映画などでテーマにされず、ほとんどの国民が開戦の経緯さえ知らないというのは異常なことだと思うし、だからこそ公文書は大切なのだと現在の与党に言いたいが、このnoteは「羅生門」の話である。
僕は以前に”あらゆる真実は語られることでフィクションになる”と書いた。上記のように、歴史とは誰が語るかによって物事の見え方がまるで異なってしまう。天皇、陸軍、海軍、大本営、内閣、それぞれが勝手な言い分を披露するものだから、こんな最近のことでさえきちんと把握することができない。言い換えると、誰かが起きたことをそのまま話したとしても、他人が検証できない限り、それは真実にならないということだ。STAP細胞はありまぁす、では真実にならない。特に「羅生門」では登場人物たちが検非違使に捕まり、誰かが裁きを受けるかもしれない状況に追い込まれている。こうなると”藪の中”である。このことをよく”エゴイズム”と評している文章を見かけるが、そういう意味の曖昧な横文字を使って得心している人たちは保身という日本語を知らないのだろうか。羅生門とは保身の話だ。つまり、どこの会社でも毎日起きていることである。役員と局長や、上司と部下の間で、問題や失敗について年がら年中”羅生門”している。これをエゴイズムと言うだろうか。戦後に”戦争責任”や”戦犯”などの言葉が流行するなかで、いったい誰の語ることが真実になるというのか。全ては保身である。
さて、よく言われることだが、真実は杣売りが見ていた、という解釈がある。僕は全くそう思わない。見ていたということは杣売りの主張に過ぎず、巻き込まれるのが嫌で黙っていたということも真かどうか分からない。すると、杣売りは嘘をつく動機がないじゃないか、ともっともな意見が出てくるが、杣売りは誰も語らなかったことを行ったり、知っているかもしれないのだ。動機の有無なんて本人にしか分からないことである。つまり「羅生門」という話には真実がないし、それが人間の”真実”なのだ。だからこそ、黒澤明はじぶんで脚本家に追加させたというラストシーンにおいて、”赤子を育てる”と言う杣売りを信じることにした。みんな保身ばかりの世の中だからこそ、負担を"引き受ける"と言う人を信じようという黒澤の優しさである。ひょっとすると、”俺はもともと戦争に反対だった”などと言って保身を図る連中が山ほどいた当時の風潮に、黒澤明は辟易していたのかもしれない。

余談になるが、「羅生門」のフィルムは2008年に復元され、Netflixで美しいモノクロ映画として配信されている。光の塩梅などが鮮明に分かるようになったので、おすすめである。

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