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トラと漂流してた方がいいじゃない / 「ライフ・オブ・パイ」

みなさんお気付きかもしれないが、この列島では学の無い奴ほど"信頼できない語り手"とか"マジックリアリズム"とか、そういう舶来の単語を使って何かを理解したような気になっている。
2012年の映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」は、信頼できない語り手によるマジックリアリズムだろうか。語り手が信頼できないなんて当たり前のことだし、この映画はマジックリアリズムだ、と言うことは、このカレーはスプーンで食べるものだ、と主張することと変わらない。耳慣れない単語を使っているブログは全て、書き手が自分で何を言っているのか把握できていない証拠である。
さて、この物語は、インドの東海岸の街ポンディシェリからやって来たというパイ・パテルが語る。水泳のプールが好きな父親によって、パリの有名なプールに因んで Piscine Molitor と名付けられたが、後に自ら"Pi"(パイ)を愛称にしたと言う。ヒンズー教の家庭で育つものの、キリスト教とイスラム教にも触れる。ある日、動物園を経営していた親が"緊急事態"になり、一家は動物たちと共に日本の貨物船でカナダへ移住しようとするも、嵐に見舞われて船は沈没してしまうーー。
パイが救命ボートで目覚めると、そこには足を怪我したサバンナシマウマと、ボルネオオランウータン、ブチハイエナ、そして"リチャード・パーカー"と名付けられたベンガルトラが同乗していた。シマウマとオランウータンはハイエナに狩られ、ハイエナはリチャード・パーカーの餌食になる。トラを溺れさせようかと思ったものの、パイはけっきょくトラと漂流することを選んだと言う。
しばらくすると、ボートはある島に辿り着く。キレイな水があり、ミーアキャットたちが群れをなし、パイとトラは元気を取り戻すが、夜になると水は酸にかわり、さながら人喰い島の様相を呈する。パイとトラは島を後にする。
200日ほど漂流してメキシコの海岸に漂着すると、リチャード・パーカーは振り向きもせずにジャングルの奥へ消えていき、パイは寂しさを覚える。病院でパイが治療を受けていると、日本の保険調査員が事の顛末を聞きにくる。もちろんパイの話は信用してもらえない。そこでパイは語り直す。オランウータンとはパイの母親であり、シマウマは船員、船のコックがハイエナ、そしてトラがパイであると。調査員たちは帰っていく。
パイのこうした話を聞いていたライターは、それは寓話だねと指摘する。パイは、どちらの話にしても両親は死んでしまったし、保険調査員も満足しないだろうから、自分にとってはどうでもいいことだと語る。ライターが保険調査員の書類のコピーに目をやると「トラと共に生還した」と書かれていたーー。

これは信仰の話だ。神を信じるとはどういうことか、あるいは、何かの話を真実だと"信じる"とはどういうことか、というテーマである。ほとんどの人は、パイとはリチャード・パーカーであり、生き延びるためにコックらの肉を食べて漂流したのだろうと邪推する。ところが、トラと共に漂流したという話の方を"信じたい"気持ちになっている。ここには、真実というものがいかに無味乾燥であり、我々人間にとっての信仰あるいは神というものが、"語られたこと"への共感や承認であるかということが示されている。それがヒンズーであれキリストであれ、何か我々自身を越えているようなものに対して"私はそうだと思う"と選択することが信仰であり、その信仰は真実という概念とは相容れないもののはずだ、ということだ。
劇中でパイは"and so it goes with God"と言う。ドローン撮影でもしていない限り、パイの漂流の"真相"は闇の中だし、そもそも世の中のほとんどの"ストーリー"はこうして誰かによって語られたことなのだから、ラストシーンのパイの台詞でもあるように、信じるか信じないかはあなたの人生、なのだ。それゆえに、僕は昔から"信頼できない語り手"という文学の世界の決まり文句が嫌いなのだ。それならば、信頼できる語り手とは誰のことだと訊きたくなる。
真実はどこにあるんだと訊きたくなる方は、この映画の語り手の愛称を思い出すといい。フランス語でプールを意味する Piscine (ピシン)という自分の名前が、英語だと pissing (立ち小便)に聞こえて嫌だからと、Pi(パイ)と名乗っている。パイとはご存知のように円周率π、すなわち無理数(irrational number)である。そして irrational とは、理不尽な/不合理な/首尾一貫しない などの意味がある。どこまでも続く円周率のように、パイの漂流譚はいくらでもバリエーションを取り得るものだからこそ、我々"聞き手"は、それを信じるかどうか、そして、信じたいと思っているのではないか、それこそが信仰という誰しもが持っている力の源ではないか、ということを本作は問いかけているのである。

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