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みんなと一緒に流されないための”見ない”というカウンターパンチ

ノーベル文学賞の候補だと毎回騒がれているトマス・ピンチョンの小説を原作にした映画「インヒアレント・ヴァイス」は、ヒッピーが全米に山ほどいた頃の話だ。2014年の映画だが、よくこれだけ当時(映画は1970年の設定)の雰囲気を映像で再現したものだと感心した。ただ、これはドン・デリーロの「ホワイトノイズ」についてのnoteでも書いたことだが、優れた文学は得てして映像にしづらい。映像はどうしても時間が流れていくので、文字のように静止して何かを描写することができないのだ。ゆえに映画は小説のあらすじを撮るか、大幅に脚色するしかない。
さて、前回の「ザ・ビーチ」のnoteでも登場したが、ヒッピーと呼ばれる人たちがその後のアメリカを作ったと言ってもいいだろう。Appleをはじめコンピュータ界隈やダンスミュージック、ベジタリアンのようなムーヴメントに至るまで、これらは”文化”と呼ばれている本流に対抗するように流れてきた。かつてカウンターカルチャーと呼ばれた所以である。今日ではそれらも大きな流れになりつつあり、社会での地位もかなり向上したことからサブカルチャーと呼称されることが多い。むしろ最近では、”カルチャーってたとえばどれですか?”と訊く方が賢明だろう。もはや大通りが霞むほどに、人びとの嗜好は分散している。これにはデバイスの普及が大きく寄与した。
しかし一方で、デバイスを皆が持っていることを逆手に取り、大衆を誘導することはいとも容易くなった。インターネットの普及によって情報が溢れてしまうと、羊の群れは特定の柵に入ろうとする。フェイクニュースなどによる世論の誘導は、行政にとって朝飯前のこととなった。新型コロナウイルス騒動の時でも、皆がデバイスを見ながら”反ワクチン”だの”飛沫感染”だの、戦前のプロパガンダ担当に見せてやりたいような光景が広がっていた。
では、なぜ趣味や性癖や食などのように、デバイスを駆使して人びとは多様な言論へ向かわないのか。
「難しいことは分からない。政府がこう言ってる、詳しい友人がこう言ってた」
つまり、教育の問題である。画面に表示された”記事”を読んで、それをみずから検証したり、考えたりするためには、基礎となる教育が必要だからだ。趣味嗜好や性癖にそんなものは必要ないが、じぶんの言論を築いたり補修したり、他人の意見などに反論するための教養だけは、数分程度の動画から得ることはできない。せめて映画を観ろと言いたい。
ヒッピーたちはベトナム戦争の反対運動と密接に結びついていた。現代のテレビやデバイスを通じた”誘導”に対抗するためには、”そんなものを見ない”のがいちばんだと思う。映画を見たり、学習したりすることだけに使えばいい。

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