我思ふ Pt.142
先日行った山梨県は身延山にある久遠寺へ続く287段あるという急階段。
こいつを登りきると涅槃に達するとの事らしい。
涅槃に達するとはすなわち「死する」という事か?
仏門の事はよく分からない。
まぁ流行り病明けの体でここを登れば確かに逝くかもしれないし、さつま白波を飲めば自宅に居ながら涅槃に旅立つ事ができるのであえてこの苦行に挑もうとは思わぬ。
うむ、絶景なり。
「時間は平等」とかいう偉い人がいるけど平等じゃねぇよ。
与えられた絶対量も違うし、その瞬間の価値も人によって違うし、どう使うのが有意義なのか、それにどれくらいの量が必要なのかも全然違う。
自分が偉くて博識で成功したからって適当な事をぬかしてんじゃねぇ。
あんたらみたいに崇高な思考で生きてる奴ばかりじゃねぇんだ。
基本的に平等なんてものは綺麗事でしかなく、成功者達から我々凡人へ贈られた慰めから生まれた言葉でしかない。
そんな不平等ばかりの世界で、ただ一つだけ意地の悪い創造主が生物に平等に与えたもの、それが「死」だ。
恐怖であろうが、安らぎであろうが、苦痛であろうが、救済であろうが必ず訪れる。
偉い人も犯罪者も成功者もクズも必ず死ぬ。
だから耐え難い苦痛に苛まれたり、激しい憎しみに駆られた時や、行動に迷ってしまった時はこう思おう。
「どうせ死ぬ」と。
その後の言葉を挑戦の足がかりにするのか、救いを求めるものにするのか、後ろを向くのか、それを選択する自由は「死」と同じく「平等」だ。
ネットスラングか知らんが「無敵の人」というのがあるがアレがいい意味であればもっと活躍できる人間が増えるのになと我思ふ。
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