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きっとずっとわかりたいし、わかってほしい


言葉がうまく出てこないから押し黙る手法の母
VS
何としても母から文章として成り立つほどの文字数で優しく愛のある言葉をかけてもらいたい娘

「あなたは言葉への執着心がありすぎる」と母に言われた。

私 「ママ、何が食べたい?」
母 「ん〜なんでもいいよ、特にないな」
私 「じゃあ米か蕎麦かパン系かパスタなら?」
母 「あぁ〜蕎麦でいいよ」
私 「ん?蕎麦”が”いいよ、の方がいいな。”で”いいよ、はなんか本当に食べたいって感じしないから。後から後悔して欲しくないからちゃんと考えたほうがいいよ」
母 「蕎麦”が”いいな!」
私 「おっけい〜」

小さい頃から周りの人たちの言葉には敏感な方だったけれど、それは文として正しいか?とかではなくて、表情よりも言葉はその人の考えや気持ちが表されるものだという認識でいたから。
表情だけを見て100%相手の気持ちがわかるかと言ったら答えはNOなはずだ。
まずこの世界で100%他人の気持ちを理解しようなんて事は、裸で宇宙空間に投げ出されて10年生き続けるくらい途方もなく無理な事だ。

私は小さい頃から親に「相手の立場になって物事を考えられる人になりなさい」と言われて育った。人の言葉を”言葉どおり”に受け取る性格の私は「はい!」と答え、『なるべく相手の視点に立って考えるようにする』という癖がついた。
私の頭の中では、『私が相手の目の裏に飛び込んでいって周りを見渡してみる』という図があった。
小さい頃はそれで支障はなかったのだが、成長するにあたり、ある壁にぶち当たった。
「あれ、友達と同じ事を体験しても同じ感情にならない。だって、生まれてから育ってきた環境も周りの人も全部違うんだもん。こんなにもバックグラウンドが違かったら”100%相手の立場に立つ”なんて到底できっこないよ!」
完璧主義が私を狂わせていった。
もうここまでオトナになると、私の中の”相手はこう思っているんじゃないか”という気持ちの想像の範疇や、軽い質問での受け答えでは収まらず、どんどん相手は本音を言っていないんじゃないかという不安に駆られて何ともいえない恐怖心に苛まれた。

そうなると、もっともっとたくさんの言葉が必要になっていく。
「家族構成は?」「どんな風に育ったの?」「この事についてどう思う?」

もはや相手の立場になって考えるとは真逆に、自分の不安をかき消すための確認作業のように言葉を羅列していくモンスターと化していた。

この事に気づいた時、私の世界は崩壊した。
言葉にすること、喋ることは罪だと自分の中で断定した。してしまった。そこから口を開く事は最低限になったし、喋らなくなった。その代わり意味も分からずただいきなり涙が溢れて止まらなくなってしまう事が何度も起こるようになった。

***

記憶が蘇る。
小さいときの事。母が私に怒っていた。見上げても視線が合わないっていうことがここまで冷たいなんて。言葉どおり、身体が北風に晒され凍りついていく。
「ねぇ、怒ってる?」 黙ったままの母。
「私何したの?わかんないから教えて」 無言で台所に立ち家事をする母。
「ごめんなさい、ごめんなさい、許して、なんか言って」
泣き喚いて足にしがみついても何の反応もなかった。冷たさが痛すぎて、自分からその場を去った。
三日間、母は口を利いてくれなかった。

***

この時のことを大人になってから真剣に母に話したことがある。
「ごめんね」と言われた。「ごめんねはいいから、そうじゃなくて無視した理由が知りたいの。何をしたからあんなに怒っていたの?」
「もう覚えてないよ。本当にごめんね。でも私は口があなたみたいに達者じゃないから、突発的にしか言えないからそれで傷つけるくらいなら黙ったほうがいいと思ったの」  「・・・・どんな経験したかわからないけど、言葉で表現しないと私には何も伝わらないし、わからないってことがどれだけ私を苦しめるかもうわかっているでしょ?だから考えながらでいいからちゃんと言葉にして欲しい」

母は「わかった」と言った。医者の前で。
担当医は「言葉への関心は発達障害の特性でもあるので、少しずつでもいいので表現してあげて下さい、お母様の無理のない程度に。」と言った。

***

言葉って、鼓動する心臓だ。
それくらい言葉が無いと生きていけない。いっそ言葉の要らないただ私だけの世界に生きようと思った事もある。だけど、どれだけ強がっても人はひとりでは生きていけない。
誰かの言葉で私は温かく包まれほっこりする。表現できなかった感情を誰かが言葉にしてくれて腑に落ちた時の安堵感もある。気持ちを心で思うに留めず、言葉にして書く作業が自分を癒し救うことも知った。予測できない突風のようにいきなり心を引き裂かれるような言葉もある。それでも私は『知りたい』が勝ってしまう。

期待する言葉になんか空中会話で出会ったことなど無いに等しい。会話の妄想やり取りの中でだけ相手は欲しい言葉をくれる。現実世界では自分が欲しい言葉を相手に言わせるために誘導さえできる技も身につけてしまったように思う。

誰かと互いに作用しあいながら生きていく。愛して傷つけて、愛されて傷つけられて、それの繰り返しだ。その繰り返しの中に『癒される時』『幸せを感じる時』『安心して笑っている時』が必ずあるから生きる喜びを感じられる。どんなに小さい事でも、それを必死にひとつひとつ掻き集めていく。そうすると「ほら、こんなにハッピーが貯まった!だからまだ行けるね!」って笑う小さな子が心に居るんだ。

言葉は勝手気ままに地球上を飛び交っている。
街中の知らない人たちの会話でも、おもわず言葉をキャッチしてしまって、勝手にズーンと落ち込んだり、意識を持っていかれる事もある。
言葉で人を傷つけたくはないよ。出来る限り傷つけないようにする。でも思っている事は言葉にしたいし、母でも誰が相手でも、そうして欲しいと願う。
『私の関心はあなたにあるから』『あなたになら傷つけられてもいい』とさえ思っているって知って。・・・安心した?

言葉を介して理解したい、理解されたいと願う。とても不確かで揺らぐ感情を言葉にしたところで、それが揺るがない確実な事にならないことくらいわかっている。でも私はとても強欲だから他人のその1秒1秒の気持ち、考えを知りたいと思ってしまう。
知りたい私を傷つけるのも、癒してくれるのも誰かの言葉。満たされない心の隙間を誰かの言葉で補っていく。私は不器用なのかな?こうやってしか生きていけないんだ。これまでも、多分これから先も。

「感情のギガ数は体内では限られているから。パンパンになると爆発しちゃうよ。」
「なるべく考えをまとめてからわかり易く言うようにしてみて」
と偉そうに、しかしなるべく穏やかに冗談にも聞こえるように母に言いながらも、自分自身にも言い聞かせる日々だ。

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