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祖父と私。10年以上同じ家に住んでいたが交わした言葉は数えるほど。私は祖父が苦手だった。そんな祖父の死①

みなさんは、祖父母とどういう関係だろうか。
夏休みや正月など、たまに会うと優しくしてくれて、お菓子をたっぷり用意し、お小遣いをくれる。
はたまた同居していれば、夕食を囲んだり一緒に買いものへ行ったり、たまに旅行したり。

私の中にある祖父母とはそんなイメージである。
子どもではなく、孫だからこそ特別やさしくしてもらえるような。

うちの祖父は違った。

どう違う、と聞かれても言語にすることが難しいのだが、祖母のようにヒステリックでもなく、特別優しいわけでもなく、寡黙で変わり者であること、としか表現のしようがない。

ものごころついたころには祖父母の家で暮らしはじめていた私。
祖父の姿は、家の中でもあまり見かけなかった。 なぜなのかは後述する。

定年退職後は市内の温泉へアルバイトをしに行き、その道すがら落ちていたぬいぐるみや本を持って帰る、少々収集癖のある人だった。

ある日、「マミ(祖父が私を呼ぶあだ名)、これ道に落ちとったけぇ」

そう言って祖父が持ってきたのは、エロ漫画。
当時小学生。
さすがの私でもこれは孫に拾って帰るもんじゃないだろうと心の中で突っ込んだが、適当に受け取り穏便にすませた。

また、祖父はお酒が好きでよく警察のお世話になっていた。
ある夜中、ほかの家族が全員寝ているなかで私一人だけUFOを特集したテレビを見ていると、電話が。テレビの内容が内容だっただけに、急に電話が鳴ってどきっとしたのを覚えている。
皆寝ているので私が出ると、警察からだった。

「お宅のおじいちゃんが酔っ払って道端で倒れていたから、今からパトカーで連れていきます」とのこと。

私は母と祖母を起こし、事情を説明。
女3人でパトカーでご帰宅の祖父をお出迎え。

またある日は、酔ってタクシーで暴れているとのこと。
女3人で家の近くまで来ていたタクシーに向かい、祖母から叱咤されるものの、もはや酔いすぎて何がなんだかわからない祖父。
家族がなんとか部屋に連れて入ったものの、スーツのまま眠り失禁している。
警察からはもうブラックリストに載っていると通達が来たらしい。

私が一緒に暮らし始めたころからこんな調子の祖父。
若い頃はもっと大変だったとか。
スナック通いに大金をつぎ込み、生活費がなくなる。
給料日は家族総出で駅まで迎えに行き、スナックで給料が使い果たされるのを阻止していたらしい。
そんなこんなで祖父と祖母の大喧嘩はしょっちゅう。
祖母は祖母で怒り出すとヒステリーの塊なので、祖父が大事に育てていた植物を目の前でちょんぎったり、大変だったとか。

そういう過去があり、祖父は祖母から迫害されるようになった。祖母には子どもはおろか、祖父すら逆らえなくなった(ほとんど自業自得なのだが、祖母は徹底的にやるタイプなので可哀想に思えるときもあった)


祖母が糖尿を患ったのもあり、食事は別。
しかも祖母は祖母、祖父は祖父でつくるのである。祖父の食事など誰も作らない。
洗濯も別。われわれは家の中にある洗濯機を使っていたが、祖父は庭にある二槽式洗濯機を使用していた。
お風呂も祖父だけ銭湯へ。


基本は自分の部屋で過ごす。家の中を無駄にうろうろすることは許されない。孫からも不潔だと思われている。
日本の田舎にもアウシュヴィッツがあったのだ。

しかしそうしてくれて本当に良かったと思う。
潔癖症の私は、ちいさいころから祖父のそういう話を聞かされて、祖父を受け付けなくなっていた。
親父のときの同じように、刷り込まれていたのである。
祖父と極力話をすることは避け、同じ食器を使うことはないし、接触すれば汚いものに触れたような気持ちになり石鹸で手を洗った。

もともとの寡黙さもあり、祖父と話すことはほとんどなく、何かの拍子に私の物を祖父が触ったときは母に消毒してもらっていた。

祖父としては”あまり喋らないかわいい孫”の気持ちだったのだろうが、私としては祖母からの刷り込みもあり”汚くて気持ち悪い祖父”としか思えなかった。

祖父が鼠径ヘルニアや心不全で入院し、長期間家にいないときは心底ホッとした。
読者の皆さまには私はひどい孫だと思われるだろうか。

そして祖父は、私が高校を卒業し進学先の入学式があった翌日に亡くなった。とても急だった。

次回、祖父の死とそこからの母。

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