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自分の感覚が信じられなくなる病い

本当は大学院生活を記録しようと思って始めたnoteだけど、書けなかった。

なんでか。

それは、”自分の感覚が信じられない”病いに陥っていたからだ。

私は元々教育畑の人間なのだけれど、社会人になってから3年次大学編入で心理を学び、心理系大学院に進学していた。でも、心理の世界からすれば「あくまでも教育系の人間」ということで、何か発言するごとに

「教育の人間はそう考えるよね、だけどね…」

「教育の人間はこうやるでしょ?でもね…」

「教育の考え方はそうかもしれないけど、心理ではね…」

という指導を繰り返されていた。

そうこうしているうちに私はすっかり「自分の感覚が信じられない」人間になっていた。何か考えて発言しようとする。すると「これは、”私”の感じていることだけど、”教育”の人間の癖が出ているのだろうか」という迷いが生じる。

自分の感覚が信じられない、というのは、経験してみるとわかるけど、ものすごく不安である。

「まぁ、こんなもんだろう」とか

「大体合ってるんじゃないか」とか

「こういうあんばいかな」

ってのが全く通用しなくなるのである。

いやー、これ、本当に想像して欲しい。初めて経験した感覚だったけど、何をするにも不安になるのだ。

大学院だからディスカッションの場もあるわけだけど、もう何も言えなくなるよね。何言っても「これだから教育の人間は…」と一笑に付されることの恐れが先に立っちゃうのである。例えばロールプレイなんかやる時も”悪いお手本”みたいにされちゃうわけだから。(←若干の被害妄想含む。笑)

経験からいつの間にか得ている、”自分の感覚”ってのは本当に大事で、日常生活をクルクル回すのに役に立っているらしい。

例えば、人参を買うなら「大体このくらいの金額だよな〜」とか、8時から始まる会議には「10分くらい前に着いてれば大体OKだよな〜」とか、車を運転する時には「このくらいのあんばいで走ればいいよな〜」とか、そういう感覚だ。

これがいちいち「あなたの人参の金額の想定はそうかもしれないけど、ここではチガウ」とか「あなたの会議の感覚はそうかもしれないけど、ここではチガウ」とか「あなたの運転はそうかもしれないけど、ここではチガウ」って言われると、なんだか全ての”感覚”が狂ってるのか??という感じになって不安に襲われるのだ。

「その人のもつ感覚を徹底的に否定する」ということは、おそらくとても人を不安にさせるのだろう。

ちなみに私は、「自分の感覚が信じられない」病いからの回復期にある。と思う。今は、「自分の感覚」を取り戻しつつある。でもそれは、私の感覚を「私の」ものとして扱ってくれて、感覚が「違ってもいい」こと、その上で「なぜそう考えるのか」を考えさせてくれる機会を与えてくれた人がいてくれたおかげだ。

ここまで書いていて思ったけれど、人と接する時に大事なのは、「その人の感覚」を大事にすることなんじゃないだろうか。

特性のある人もいる。文化の違う人もいる。性別の感覚だって彩りがある。

でも、その感覚は「違って」いいのだし、「どうしてそう考えるのか」聞いてみてもいい。否定しないことだ。否定し続けたら、本当に不安になって自信を無くして何にもできなくなる。大の大人の私だってそうだった。しかも、まだ傷が完全に癒えたとは言えない。

「これまでの文化を捨てて、完全に新しい人になれ」と言われても、やっぱりそれは難しい。ストレートの若い子たちは新しく吸収するからきっとできるんだろうけど。と、ちょっと羨ましくも思いながら、私は、私で、いくのだ。

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