僕だけのモラトリアム vol.1

七年もの間
大学生であり続けた。



『モラトリアム』
〜「猶予期間」を意味する言葉。
 発達心理学では、社会人となり責任のある立場になるまでの期間を指す。〜


謂わば、"大人"になるまでの最後の残された時間。

人より少しばかり長かったこの期間を、僕がどんな風に過ごしたのか
どんな出来事があって、何を思ったのか

記憶が鮮明な内に書き記してみようと思う。


未来の僕以外に、こんなnoteを読む物珍しい人がいるかは分からないが、もしいるのであれば以下の二つの注意点を頭に入れながら読んで欲しい。

・このnoteは、殆ど未来の自分自身にだけ宛てて書くものであり、謂わば大学生活の記録である。(※横書きのため、横画面で読まれることを推奨する。)

・若くて痛々しい時期の事を書くため、小っ恥ずかしい出来事がきっと沢山出てくる。が、これはあくまで記憶を元に書いた創作物であり、全てが事実とは決して限らない。
著者に会うことがあっても、このnoteのことをネタにしてバカにしてはならない。




僕だけのモラトリアムが、そこにはあった。







第1章 一回生の部


「進学、強烈な出会い、演劇部に入部する」

さて、この物語は
兵庫の田舎で育った十八歳の青年が、神戸の大学に進学し、一人暮らしを始める所から始まる。

が、しかし、
正直言って、この頃の事は正確には覚えていない。
何せ七年近くも前のことであるし、日記もつけ始める前だったから、どうしても記憶が朧げである。
一人で迎えた初めての夜のこととか、その時しか持ち得なかった感情とか、
思い返してみたいものだが、それを思い起こす術は恐らくない。
仕方ない。日記を一週間も続けて書けなかった当時の僕が悪い。

何はともあれ十八歳だった僕は、初めて家族の元を離れて、見知らぬ神戸の街で家賃四万円、七畳一間の部屋で一人暮らしを始めた。

神戸への引越しを手伝ってくれたのが、主に父と姉だった。

そんなに多くもない荷物を積んだ車が神戸の都会に着いた時、父が言った
「いいなぁ。これから始まる新生活が羨ましいわ。お父さんも帰らずにここで新生活を始めてみたい」
当時の僕はこの言葉に驚いた。
というのも、僕はこれから始まる、始まってしまう新生活に少なからず不安を覚えていたし、何より父が今の生活に満足しきっていると思っていたからである。
仕事でも私生活でも大きな不満を抱えていなそうな父が、息子である自分の立場を羨ましがる事が驚きの事実であり、それ故にこの言葉は今でも覚えている。
今思うと、父は僕の境遇を羨ましがるというより、その自由さを羨んでいたのだと思う。
大人になるとは、責任を持つことであり、またそれと同時に少なからずの自由を手放すことでもある。
モラトリアム、万歳。


同じ高校出身の友人達とカレー作りに失敗したり、
無知ゆえに、鶏肉を冷蔵庫でとんでもない悪臭を放つまで放置したり、
洗濯に失敗したり、
不意にたまらなく寂しくなったり、

そんな一人暮らしの始まりだったが、一ヶ月もしない内に少しづつ慣れていった。


そして、この頃のイベントとして忘れてはならないのが、「新歓」である。
百は下らないであろう部活やサークルなるものが大学には存在するが、新入生の人数は有限である。ましてや見所のあるような生徒の数はもっと少ない。
よって、新入生が大学のオリエンテーション等で通学を始めるこの時期には、各団体の代表が我先にと、団体の活動内容や勧誘文句が書かれたチラシを新入生に配りまくるのである。
僕はというと、身長は185cm、自分で言うのもなんだがルックスも悪くない。
ぱっと見の見た目でしか新入生を判別できないこの状況では、僕はいわゆる見所のある新入生に分類されたようだった。
そのため運動部や体育会系のサークルはもちろん、文化系のサークルや部活、サークルの勧誘というよりは異性との出会いのためにチラシを配る、猫撫で声の女先輩方からも沢山のチラシをもらった。
毎日、両手でないと持てないほどの量であり、そのうち歓迎ムードに飽きた頃には「僕、二回生なんです」と言って、勧誘の行列をかいくぐる術を覚えた程である。

とは言え、大学生活への期待感と、好奇心、さらに殆どの新歓イベントにはタダ飯がついてくるということもあって、連日連夜沢山の新歓イベントに足を運んだ。
楽しそうだけど練習が超ハードそうなラクロス部や、ご飯会で偉そうにご高弁を垂れる先輩がいたバスケサークル、全員がやたらと声がデカくて話が面白い落語研究会、新歓としてカラオケに行って自分の歌の上手さを見せつける合唱サークル…
どれも刺激的で面白かったが、入部を決断するほどの出会いはまだなかった。

そんな頃に鑑賞したのが、大学が誇る関西一の演劇部、「自由劇場」の新歓公演『室温』である。


圧倒された。


公演の完成度、脚本の面白さ、舞台に立つ役者達の表情やセリフの吐き方、
どれをとっても一級品に見えた。
これまで何度かプロの演劇や、文化祭での演劇を見たことがあったけど、全くもって比べ物にすらならなかった。

これを大学生がやってのけるのか

公演後に行われた役者陣とのご飯会では、もはや羨望のまなざしで先輩方を見ていた。
すらりと背が高くて、舞台上でも一番輝いて見えた先輩の横に陣取り、色々話を聞いていると
なんと、同じ高校の同じ学科の出身で、僕にとって直属の先輩であることが判明した。(僕の母校からは毎年4,5人程しかこの大学に進学しない。)
その瞬間、今はなき味菜という定食屋の座敷席で、ご飯大盛りの唐揚げ定食を食べながら、入部の決意を固めたのだった。









「大学生活に絶望を覚える」

出会いと期待感に満ちた新生活の始まりも、少しずつ落ち着きを見せるようになる。

この頃から根本的かつ本質的な疑問が、僕の頭を支配するようになる。

「何のために、大学に来たんだっけ」

親の目もなく、何を食べてもいいし、何時に寝て起きてもいいという、これまでに経験したことのない圧倒的自由の中、
バイトもせず、部活もまだ本格的には始まっていなかったため
膨大な時間だけがただ存在していた。

大学の授業は退屈そのものだったし、図書館をはじめとする大学の施設も拍子抜けするものだった。

「何のために、大学に来たんだっけ」

同じ学部の友達が家に泊まりに来た日の夜、寝心地の悪いソファベッドで雑魚寝して天井を眺めながら、こんな話をした。

「割と勉強しろってうるさい親だったから、小さい頃から沢山の習い事をしてた」
「気づいたら勉強する事が、正しい事であり、賢い学校に行くのが褒められる事であると認識していた」
「いつの間にか、偏差値の高い大学に入学する事が、人生のゴールになっていた気がする」
「合格を勝ち取って、自分の受験番号を見つけた時に、確かにゴールテープを切った感覚があった」
「合格することだけがゴールであり目標であって、進学した後に何をするかなんて全くもって考えていなかった」
「ゴールした今、進学した今、大学で何をしたいのか、どう毎日を過ごすのかわからないんだ」

友人と話すことで、頭の中は整理できたけど、若かりし僕も友達も、その問に対する明確な答えは持ち合わせていなかった。

かくして僕は、大学の授業に少しずつ顔を出さなくなっていった。

受験のカリキュラムだけで選んだ経済学部の授業にはまるで興味がなかったし、たまに授業に行くと顔見知りの友人達から「久しぶりだなぁ!何で学校来てなかったん?」と問い詰められることになり、僕はその問いに対する答えを持ち合わせていない。
下宿先から大学までの距離が険しかったのも一因である。
大学への道のりは地理学的に”崖”と分類されるほど傾斜が大きく、
これで通学しよう!と息巻いて、父に借りていたロードバイクでは通学できなかった。行きは上りがキツすぎて、半分以上押して上がることになるし、帰りは乗ってるだけで恐怖を覚えるほどのスピードが出る。
歩いて上がるにも片道30分程かかるし、登校するだけで汗だくである。

この、大学自体に対するモチベーションの喪失は、留年を三年もすることになる将来に直結するが、解決にはこの頃思っていたより遥かに長い時間を要することになる。


この頃、人生で初めて煙草を吸った。

とっくに昼夜逆転していた生活の中、人生で初めてと言っていい程精神的に病んでいた。何かが変わるかもしれないと、深夜にコンビニに走って煙草を購入して火をつけたのを覚えている。

結局半年も吸い続ける事なくやめたけれど、煙草にしか寄りかかれなかった夜が確かにあったのも事実である。









「新人公演で挫折する」

あの衝撃を受けた新歓公演「室温」の観劇から、およそ三ヶ月が経過した頃、
十九歳を目前にした僕は、大いなる期待感とともに入部の手続きをした。
しかし今思えば、これが想像を絶する挫折の連続の始まりだったのである。

結論から言うと、この時点で僕が演劇部自由劇場に対して持ち合わせている情報はほんの一部にすぎなかった。と言うより、その実態に関しては何も知らなかったに等しい。
後述することになるが
関西一のクオリティーを成し遂げる活動の裏には、部員達のとんでもない練習量と、毎年退部者が続出するような厳しい体制が存在していたのである。
しかし、そんな実態を新入生に伝えてしまえば入部希望者が極端に減ってしまうため、自由劇場、通称”ジゲキ”では入部を決める八月頃までは、入部希望者からの際どい質問には全力で回答を避けるという慣例があった。(一年が経過し、自分たちが勧誘する立場になる頃には、マンパワーの必要性を嫌と言うほど実感しているため、嬉々として新入生達を自分達がはまったのと同じ罠に引っ掛けることになる寸法だ。)

入部直前の楽しい夏の一大イベント「合宿」を経て
この一連の、新入生を半分騙しての勧誘活動は完遂となる。
(この毎年行われる合宿とは、演劇の活動は殆ど行わず、みんなでバスを貸し切って海の近くにある民宿に連泊し、海水浴や肝試し、BBQやスポレク等、健全な大学生の夏休みの開幕に相応しい、青春を謳歌するものである)
今思えば、先輩が団結して新入部員達にだけ「ジゲキでは伝統として、海水浴はブーメランパンツとビキニで行われる」と情報を流して、当日に赤っ恥をかかせた辺りから、この部活のその本質に気づくべきだったのかもしれない。

そして、合宿から神戸に帰って、約二ヶ月の夏休みが本格的に始まりを告げる頃、新入部員が全員役者として舞台に立ち、お客さんやOBにお披露目をする’新人公演’『学級裁判』の練習が始まる。
ここから我々15名の新入部員達は、ジゲキのその実態を目にすることになる。


まず、約一ヶ月半の間、練習は週に四日行われる。
夏休み中は授業もないため、朝の10時から夜の21時までぶっ通しで続く。
本番前の二週間に至っては、それが毎日、しかも朝は8時か9時からに変わるという徹底ぶりだ。

一日の練習は「肉体開発、通称”肉発”」と呼ばれる、走り込みと筋トレから始まる。
僕はバスケ部出身だったため、他の文化部出身の同期達よりは追い込まれることはなかったが、それでもこの肉発は相当ハードなものだった。
大学のキャンパスを何周も走ったり、ひたすら腹筋を追い込んだり、時には肉発だけで午前中の練習が終わることもあった。運動とは無縁の学生生活を過ごしてきた同期達は、この時点で音を上げることになる。
(しかし、一見無茶に思えるこの肉発も、公演成功のためには欠かせないものだったと後になってから気づく。公演の本番は夏本番の九月初旬。クーラーもない環境でスポットライトの熱を浴びながら、二時間の公演を1日2ステージこなすのは生半可なことではない。普段の練習に裏打ちされた体力がなければ、走り切ることは不可能に近い。)

この肉発が終われば、次に待っているのが「発声練習」である。
この発声練習も一筋縄ではいかない。
と言うのも、百人を超える観客を前に、演劇の舞台に立つ役者に最低限の資格として求められるのが、圧倒的な声量とセリフを観客に伝える滑舌である。
そのために習得しなければならないのが「腹式呼吸」と呼ばれる呼吸法だ。呼吸をお腹で行って、腹から声を出す方法だが、演劇ど素人の我々にとってはこの習得が大きな難関となる。
しかし、喉から声を出す方法ばかりに頼っていると、本番を迎える頃には喉が枯れてガラガラ声になること間違いなしなので、この呼吸法の習得は越える必要のある関門だった。(実際に僕が腹式呼吸をマスターして、演劇の発声を体得するには一年半ほどの時間を要した。)
具体的な練習法としては、ゆっくりと吸ってゆっくり吐く呼吸の反復、丹田と呼ばれる下腹部辺りで体重を支えてひたすら大声を出す練習、ロングブレスに、早口言葉等、一見地味だが真剣にやると中々難しい。

肉体開発と発声練習という、割とハードなアップが済むと、演劇の実践的な練習が始まる。
その一環として行われるのが「ワークショップ」だ。
このワークショップとは、演劇に必要な素養をゲームのようなもので体得していくもので、「だるまさんが転んだ」とか「ウインクキラー」、好きと嫌いの二言だけで感情の起伏を伝え合う「好き嫌いゲーム」、数人でそれぞれが与えられた空間を埋めるように歩き続ける「空間把握」、与えられた設定で5分から10分演じる「即興」等、例を挙げれば沢山あるのだが、
これまた伝統として我々新入部員に立ち現れるのが「感情解放」と呼ばれるワークショップである。

まず前提として、舞台に立つ役者が真っ先に捨てなければならないのが「恥」である。
役者は、役柄を演じながら様々な感情をその身で表現するが、そこに演じることに対する恥が共存すると、たちまち観客が冷めてしまうことは言うまでもない。
舞台に立つ以上、役者は心から泣いて、笑って、その役として生きなければならない。演者の余計な感情など求められていないのだ。しかし、恥を捨てると言っても、これまた生半可なことではない。
そのために行うのが、この「感情解放」である。

感情解放では、一分間という時間が与えられ、我々役者はその一分間で、喜怒哀楽を全身全霊を持って表現する。
具体的には、開始と同時に、まず100%の喜びの感情を全力で表現する。笑ったりするのはもちろん、万歳したり、喜びのあまり叫びながら走り回ったりする。
15秒が経過すると監督者が拍手で合図して、次は100%の怒りの演技。先程の笑顔から打って変わって、怒りの形相を浮かべて、地面を拳で叩いたり、何かに掴みかかったりする。
また15秒が経過すると、次は悲しみの演技。泣き叫ぶ。
最後の15秒で楽しいという感情の爆発。
こういった具合である。
はたから見れば、阿鼻叫喚、感情解放というより人格崩壊、理解し難い地獄絵図であるが、当人の我々はこの上なく真剣そのものである。
そして、この感情解放の最もハードな所が、合格を出されるまで延々とこの一分間を繰り返させられることだ。
一分の感情解放が終わる毎に、監督者から「全然感情が伝わってこない。本当に悲しい時って、そんな顔になる?もう一回。」と個人的にダメ出しをされる。
後半になると、「喜」と「楽」の演技などできる訳もない。何せ楽しくない。その代わりこの状況に対する「怒」と「哀」の演技が洗練されていくことになるのは言うまでもない。
実際この練習は過酷を極めた。半ば感情がぶっ壊れるまで精神的に追い込まれて泣き出す同期もいるが、それでも練習は終わらない。
結果としては、約2時間の練習で合格者はわずか3名だった。
(僕は合格できなかった。やはり恥を捨てきれず、怒りの演技が足りないと言われた。約二年後に再挑戦し、その時には合格を果たしたが、十八の僕にはいささかハードな関門だったのは間違いない。)

この感情解放の他にも、恥を捨てるためのワークショップとして
「おぱんつ、おぱんつ、わーーっしょい!」
という謎の呪文とともに、身体をくねらせながらコマネチのような動作をする、
これまたわけの分からないワークショップも存在するが、感情解放を経験した我々にとっては、これしきのことなどプライドを捨てる必要すらなかった。
何せプライドと呼べるものなど、もうとっくにない。


これらの活動を終えて、昼休憩を取った後に、
ようやく肝心の台本の中身の練習が始まる。
ここまでの説明で、その練習のハードさは伝わったかもしれないが、これはあくまで部員全員に課される試練であって、僕が役者の道を諦めるに至った挫折の要因は、また別のところにある。

セリフを吐く練習を始めてから気づいたのだが、僕の滑舌は相当ひどかった。
日常の会話でも、少し気を抜いて喋ると何を言ってるか伝わらない程だから、セリフを聞き取りやすくスラスラと発音するのは不可能なことにすら思えた。
他の同期が、セリフの抑揚や読むスピードの練習に着手する中、僕はまずセリフをはっきりと発音する練習から始めなくてはいけなかった。
この時点で、僕の役者に対する素養が決して満点ではないことを自覚した。

さらに想定外だったのが、自分の表現力の乏しさである。
演劇に本格的に取り組んでみて思ったのが、演じるとは、表現するとは、こんなにも難しいものか、ということだった。
セリフの読み方も分からないし、表情は思っている十分の一も動いていない。歩き方や立ち姿にまでダメ出しをくらう始末だった。
自分が演じている姿を動画で見た時は、拷問を受けているような心持ちになった。下手すぎて見ていられない。滑稽そのもの。ごっこ遊びと変わらない。
演じることに本気で挑戦してみて、初めてあの「室温」で憧れた先輩方との、如何ともし難い差に気づくことになった。



とは言っても、文字通り十八歳の夏を殆ど全部かけて練習に打ち込んで、やれるだけのことはやったつもりではある。
先輩にセリフを読んでもらって、その読み方を真似してみたり、鏡を見ながら練習したり。
台本のセリフは練習が始まって十日で丸暗記したし、五回あった通し練習にも毎回全力で臨んだ。

でも、
納得のいく演技には到底及ばなかった。
何十回ものダメだしをもらって、半ば泣きながら練習もしたけど、本番でも褒められるような演技はできなかった。
これだけやってダメなら、自分は『室温』で観て憧れた先輩のようにはなれないのだと痛感せざるを得なかった。

こうして、大学最初の夏休みが終わりを告げ
田舎で家族に愛されて育った、純粋な十八歳の青年は、その人生で初めての大きな挫折を味わうことになったのである。






「十九歳、秋、童貞を捨てる」

ここまで、割とハードな大学生活の始まりを書いてきたが、
何も一年中、全てがしんどいことばかりだったわけでもない。

大学の授業としては、”後期”が始まり
(相変わらず授業には行ったり行かなかったりの毎日だったが)
季節は夏から秋へと変わっていった。

新人公演の挫折を経て、僕は役者の道を諦めて
公演をサポートし、観客の動員のためにひたすら活動する「制作」と呼ばれる部署に身を置いて、’秋冬公演’『ポテトサラダ』に臨んでいた。
(ジゲキには他にも多くの部署が存在する。総勢七十名ほどが在籍する大型の学生劇団であるため、望んだ人が必ずしも役者として舞台に立てる訳ではない。公演の台本が決まる度にオーディションが行われ、その選抜を勝ち抜いた人のみが役者になる。(僕はというと、新人公演で心が挫けてしまったためオーディションに参加すらしなかった。)そうして役者陣を選んで、残った人達で他の部署を組織する。具体的には、音響・照明・美術・衣装・制作・宣伝美術・振り付け・殺陣・演出補佐・舞台監督等がある。この部署それぞれにチーフと呼ばれる責任者を設けて、その下に1~10人程のスタッフがつく形で、一つの公演を総力を上げて作り上げる。この秋冬公演では、僕は十人ほどいる制作部署の一番下っ端という立ち位置である。)

相変わらず週四日で長時間行われる活動は、それなりにしんどいものだったが、役者の時に味わった精神的な苦痛がないだけでも、天国のように思えた。

通し練習の際は、一回生の未熟者ながらも、役者陣の演技を観て”ダメ出し”(他人の演技を見て、違和感や改善点を指摘すること)も経験した。
年五回ある公演のうち、”本公演”と呼ばれる三つの公演の一つである、この秋冬公演に出演する役者陣の気合いの入り様は今でも覚えている。
しかしその一方で、「室温」の公演以外で先輩が演技する姿を観るのは初めてだったから、先輩方もこんなに苦労して役を作り上げるのだなとも思った。
同期の中からも三人が役者に選ばれた。
あの新人公演の後に、よくやろうと思えたなと関心したものである。


そんな生活を送る中で
正確な経緯は覚えていないが、以前から気になっていた女の子が、週に何度か家に泊まりに来るようになった。
どちらから一方的に誘うでもなく、ごく自然な流れだったと思う。
綺麗な顔立ちをした少女のような女の子で、一見すると幼く見えるが、時にハッとするような、本質をついたことをさらっと口にする人だった。
同い年の彼女は僕よりも忙しい生活を送っていて、離れた実家から神戸の街に通う生活をしていた。
電車で往復する時間すら惜しむような生活だったけど、今振り返れば神戸の仮の寝床として僕の家を選んだのには、少なからず彼女の中にある程度の覚悟と期待もあったのではないかと思う。

彼女が泊まるようになってしばらく経った頃、それぞれ別の布団で寝ていたのが、一緒の布団で朝を迎えるようになり
それからまたしばらく経った頃に、初めて口付けをした。

どういうきっかけがあったのか、どういう言葉のやりとりをしたのか。記憶を頼りに二十五歳の僕が書き記すことも可能だろうが、
十代の男女が何度も夜を共に過ごし、朝を迎えたのである。
今の僕がその情動を描写することは野暮なことであるだろう。

そんなある日、僕は初体験をして、童貞を卒業した。

感想として覚えているのが、「いまいちよく分からなかった」
ということである。
僕は初体験、彼女も経験が豊富な訳ではなかったし、暗がりの中で最後までしたから視覚的にも実感を得るのが難しかった。

そんな初体験でよかったのか。と思われた方もいるかもしれない。

でも
あの状況で、あの流れに逆らって
何が十代、何が童貞、何がモラトリアムだろうか

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。童貞もまたこれに然り。』
である。



初体験の後。彼女が言った。
「これがセックスだよ」
あの時の彼女の笑顔と、その愛情を独り占めできただけでも
僕の童貞を捧げる価値があったというものである。アーメン。


彼女との関係はその後しばらくして終わりを迎えた。
彼女の忙しい生活が落ち着いたこと、正式に付き合うのは何となく違う気がしたこと、十代の僕たちにはこれ以上の不純な関係がそぐわなかったことが原因である。

ただ、家の窓から見た、彼女が帰り際に手を振ってくれた姿を覚えている。
今、このアパートの隣には一軒家が建ったから、その景色はもう窓から見ることができない。






第二章 二回生の部


「先輩の卒業公演を見届ける。新歓公演で舞台に立つ。」

第一章が終わり、第二章に突入して、二回生になった僕の生活を書き始めたい所ではあるが、もう少しだけ一回生の頃の話が続く。

秋冬公演が無事に終わり、息つく間もなく四回生の先輩方の’卒業公演’『荒野に眠れ』の練習が始まった頃(部署は変わらず制作部署である。)


僕は、ジゲキから退部することを真剣に考えていた。

入部当初に憧れていた先輩のようにはなれなかったし
制作での仕事も地味なものばかりで、ジゲキでの活動に前向きになりづらかった。
それでも公演をつくりあげる一員である以上、それなりの熱量と活動量が求められる。
週四回の長時間に及ぶ活動が、日に日に負担に変わっていくのを感じていた。

出した結論としては、
この卒業公演が終わったら、ジゲキを退部するということだった。

モチベーションの低さを制作チーフに何度か指摘されたりはしたが、一ヶ月半の間、何とか活動日には毎回顔を出して最低限の仕事をした。

そして、先輩方の卒業公演も本番を迎える。
三ステージを無事に終え、残すは千秋楽のみ。
制作で下っ端だった僕は、本番中の仕事を先輩方に託して
満員になったシアター300で、他のジゲキ民たちと一緒に立ち見で先輩方の最後の公演を見届けた。

最後のシーンが終わり
役者陣が舞台上に出てきて、お客さんに挨拶をする

「この公演をもって、我々四回生は自由劇場を卒業します。
長い間、ご愛顧頂きありがとうございました。ここまで続けて来れたのも観に来て下さった皆様のおかげです。
これからの自由劇場は、あそこにいる後輩達に託します。彼らがこれからも素晴らしい公演を作り続けます。引き続きご愛顧のほどよろしくお願い致します。
それでは、長々となりましたが、本日は誠に、ありがとうございました!」

元部長の先輩の堂々とした言葉の締めくくりで
観客の割れんばかりの拍手とともに、千秋楽は幕を閉じた。

あの時に見た、先輩方の達成感と寂しさが入り混じったような顔を今でも覚えている。
舞台に立つ先輩方は、この楽しくも厳しい部活動を四年もの間続けたのである。
そうでないとこの感動はなく、この表情もなく、この拍手もなかった。

この光景を、カチコチになった足で涙を堪えながら見届けた時、
もう一度役者の道に挑戦しようと、心に決めたのだった。




季節がまた変わって、桜の蕾が色づき出した頃
四月の’新歓公演’『うちの犬はサイコロを振るのをやめた』に向けた役者オーディションが始まった。

この新歓公演は、年五回の公演の中で最も部員の参加人数が少ない。
四回生は卒部したけど、新入生はまだ入部していないし、三回生は就職活動真っ只中ということもあって、殆ど二回生と一回生の二学年だけで公演をつくることになる。

そんな中でオーディションが行われるわけだが、
ジゲキ(というより全国の演劇部と言った方が正しいかもしれない)では男女比で言うと女性部員の方が多く、男性部員は役者として重宝されやすい傾向があった。

役者に挑戦する僕にとっては、これ以上ない程のチャンスであり、三日間にわたるオーディションの結果、アウグストゥスという名前の役をもらえることになった。
(演出と話をして、役者として一緒に公演を創っていこうと言われた時は本当に嬉しかったのを覚えている。)

アウグストゥスは、本作の主人公ゴルバチョフ(犬)が入団することになるキャバレーのダンサーの一人で、
二枚目な役ではあるがその残念な性格が足を引っ張り、敬愛するクレオパトラさんのパートナーにはなれずにいる人物である。
本人の謎のポリシーにより、上裸にショートパンツとサスペンダーという奇妙な格好で登場する。
初めて衣装合わせをした時には、本当にこの姿で舞台に立つのかと驚いたが、共演者のみんなの衣装を見ると、どうやら僕は一人じゃないと安心したものである。

と言うのも、この『うちの犬はサイコロを振るのをやめた』通称『犬コロ』は、演劇の台本としてはとても面白いものだったが、その内容と言えば荒唐無稽で突拍子もない、ぶっ飛んだものだったのである。
タイトル通り主人公は犬なのだが、この犬はなんの説明もなく急に人間の言葉を話し出すし、二足歩行で歩き回り、果ては当然のように一家の郵便物を受け取ったりする。
この犬(ゴルバチョフ)の友人はというと、スネ松というトカゲや、コケ子と呼ばれるニワトリ(彼女は一定の確率で鉄製の卵を産む)、マッサージチェア(マッサージチェア)であり、彼らもまた訳のわからないキャラクターであるが、十分な説明もなくごり押しで登場し、当然かのように生活を送る。
そんなある日、軍の陰謀によってゴルバチョフに「少し先の未来を見る」能力が発現し、物語は思わぬ方向に進んでいくことになる。愛する家族の死、仲間達の危機、出会い。一度きりの人生を生きるゴルバチョフは、果たしてどんな未来を選ぶのか。ばかみたいにうるさくて、ぶっ飛んでいて、少し切ない。そんな物語である。

僕が演じるアウグストゥスも、当然このぶっ飛んだ世界に生きる一人なので、演じるにはそれなりの覚悟が求められた。
衣装の布面積は身体の二割にも満たないし、全裸にタオルのみで出てくるシーンがあったり、キャバレーの男性団員とのキスシーンもある。

しかし、新人公演での挫折と、卒業公演を見届けた経験によって、僕の役者としての覚悟は形成されつつあった。下手で元々、才能もないやつが舞台に立つのだから、自分のちっぽけなプライドなど捨ててようやく半人前という所存だ。

このカオスとも呼べる脚本に挑む練習は、あの新人公演よりも過酷だったと言える。
今回は新人としてではなく、部を代表する役者として舞台に立つ。当然求められるレベルは格段に上がった。会話や立ち振る舞いの練習では、数えきれない程のダメ出しをもらった。何度も何度も、趣向を凝らして演じてみて、ダメ出しを受けてまた作り直す。その繰り返しの日々だった。
しかしそれを上回る程に大変だったのが、作中でキャバレーが観客に振る舞うダンスの練習である。キャバレーという設定ゆえに下手なダンスでは役として成立しない。僕を含めた五人のキャバレーのメンバーの役者は、ほぼ毎日振付チーフの熱い指導の元、ダンスの練習を重ねた。
作中には四度のダンスシーンがあり、それぞれの曲に異なる振り付けがある。中には歌詞付きの曲もあって、踊りながら歌うことも求められた。
このダンスの練習においても、僕は決して上手い方ではなかった。身体が大きいし、手足が長いため、少しでも動きがズレるとすぐに悪目立ちする。キレのあるダンスをしながら周りのメンバーとピタリと動きを合わせるのは容易ではなかった。

そんな一ヶ月間の練習の日々もあっという間に過ぎ去って、公演を行うシアターに”箱入り”する日を迎えた。
正念場を迎えたここからの日々は、それまで以上に過酷なものだった。
週に四回だった練習は、公演を終えるまでの二週間毎日行われ、活動時間は朝九時〜夜の九時までに及んだ。
集会室でしていた演技の動きを、舞台美術に合わせていく作業から始まり、音と照明ともタイミングを合わせていく。二時間の公演に、数えきれないほどの調整しなければいけない箇所があるため、膨大な時間を要した。

この作業を終えて、ようやく箱入り前から数えて五回目の通し練習を行う。
この通し練習で、僕は重大なミスを犯してしまった。

今回の舞台美術には、二箇所の円状の地面が回転する仕掛けがあり、僕たち役者は舞台からハケている間、舞台裏でこっそり明滅する光に合わせて舞台を回転させる作業も任されていた。(より具体的に説明すると、この二つの円状の地面は上から見て三分割されていて、パネルに隣接しているため、三分割のうちの一つの部分だけが舞台上に出ているという格好である。足として車輪が幾つか付いているが、時には役者や家具等を載せて回転させるため、三人か四人がかりで回転させる必要がある。)
また、舞台上には六箇所の捌け口があり、シーンによって出入りする捌け口が変わる。衣装転換もあるため、舞台に出ていない間も、着替えたり、回転作業をしたり、小道具を拾って次の捌け口に移動したりと、大忙しである。
役者経験の乏しい僕は、舞台上で演じることで精一杯で、この舞台裏の動きをイメージできていなかった。

お察しの良い方はもうお分かりだろうが、結果として僕はあるシーンを出トチってしまった。
黒服の看守役として出るはずのシーンに、衣装転換が間に合わず、あろうことかアウグストゥスの衣装で出てしまったのである。
シリアスなシーンにも関わらず、ショートパンツにサスペンダーで登場したのだから、とんでもないミスであったことは読者の方にも想像がつくだろう。
集中力を切らさずに演じようとはしたが、共演者が笑ってしまったり、セリフが飛んだり、僕のミスは本番を目前に控えた通し練習をめちゃくちゃにしてしまった。

通し練習の後に必ず行われる反省会では立つ瀬がなかった。
演出にはブチギレられ、そのミス以外でも挽回できる程のものを出せなかったため、言い訳のしようもない。
新たに出されたダメ出しから、僅かな時間で修正もしなくてはならないのだが、疲労もあって頭が回らなかった。

舞台上で排出するエネルギー量は膨大だし、それに加えて舞台裏の忙しさは想像を遥かに超えていた。
帰り道で想像してみたけど、一つのミスもなく公演を終えるイメージは湧かなかった。
半泣きになりながら、母親に電話して「やっぱり観に来ないで欲しい」と言ったのを覚えている。


この絶望的とも言える状況の中、六回目の通しが翌日には行われる。
限られた時間で、僕はある種達観した気持ちで準備をした。

まず行ったのが、自分の出番表を作ることだった。三十回以上ある出入りで、どこの捌け口から入って、シーンが終わればどこの捌け口からハケるのか、衣装は何か、小道具はあるのか、出入りのきっかけとなるセリフや照明は何か。全てのシーンについてのこれらの情報をひとまとめにして紙に書き出した。
その後に、シーン間の舞台裏の動きも書き込む。どのタイミングで着替えるのか、回転作業はいつ行うのか。
また、それまでは一箇所に置いていた自分の衣装と小道具を、それぞれ必要になる捌け口の近くに配置した。これによって舞台裏の移動を最低限に抑えた。
さらには、この出番表をもう一部作って、本番中も二箇所の舞台裏で確認できるようにした。
あとは通し練習までの間、実際に舞台と舞台裏を移動しながら、本番の動きを何度も確認する。
ここまでしてようやく、公演を完走するイメージが湧いた。
結果として、休める時間はほとんどなかった。水分を取ったり、トイレを済ませたり(公演中は何故か必ずトイレに行きたくなる)で精一杯な事が分かった。
僕以外の十五人の役者も同じような感じだったから、この公演が持つ情報量とエネルギーは計り知れない。

そうして迎えた六回目の通し練習。
努力の甲斐あって、大きなミスを犯すことなく終えることができた。
さらにこの過程で、思わぬ副産物を手に入れた。
舞台裏の事を必要以上に考えることがなくなったため、舞台上での集中力が増したのである。舞台美術で演じることにも慣れてきたため、役として相応しい立ち位置と動きを少しずつ考える余裕が出てきた。

あとは上り調子だった。
一度どん底を経験したこともきっかけになったのかもしれないが、今まで積み重ねてきたものが実になる感覚が確かにあった。まだまだ上手いとは言えないまでも、公演のクオリティーを下げない程度には役者としてのレベルが上がっていった。

一日の練習日を挟んで、本番0ステ目である通称”ゲネ”を行い、いよいよこの公演も本番を迎えた。(本番は四日で七ステージ行われる。五回目の通し練習から数えると一週間で十回、二時間の演劇を行うことになる。狂気。)

本番が始まってしまうと、楽しいと感じることの方が多かった。
どの演劇でもそうだが、身内だけで練習していると客観性を失うこともあるため、一ステ目のお客さんの反応を見るまでは本当の意味での完成度は分からない。
今作の反応は上々だった。
感動のあまり泣いているお客さんも沢山いたし、伏線が張られた台本でもあるためリピーターの数は日を増すごとに増えていった。(後に入部した子は四回観に来ました!と言ってくれた。)
僕のセリフでも毎公演必ずウケる部分があったし、役としてのアウグストゥスに対する評判も悪くなかった。

公演をつくる過程では、どうなることかと思った場面は多々あったが、公演自体は大成功と言えるものだった。
(今振り返っても、あの物量をはらんだ台本をあの短期間でよくつくったなと思う。衣装の数も、舞台美術も、役者の数も、何もかもが学生ができる限界に近かった。それをあのクオリティで成し遂げるのは、世界広しと言えども、演劇部としては自由劇場の他にそうはいまい。特に全体を総括する”演出”を担当した先輩が凄かった。締める所はしっかり締めて、緩める所は緩める。公演の雰囲気作りが本当に上手かった。彼がいたから、みんな最後までなんとかやっていけたのだと思う。)

そうして長かった新歓公演も終わり、結果として二十人の新入部員が入ってきてくれた。(男女十人ずつの活発な子が多い代だった。)

初めての後輩ができたこともあって、ジゲキの活動も楽しくなってきていた。
二回生になり、いよいよこれからという時ではあるが、この後思いもよらない困難が僕を待ち受けていた。






「初めての制作チーフ、そして入院、癌」

新歓公演が終わり、一息ついた頃
’七月公演’『SPOOKY HOUSE』に向けた活動が始まった。

他に適任がいなかったこと、『犬コロ』を経て部内の僕に対する評価が少し上がったことが主な理由となって、初めて制作チーフに抜擢されての参加だった。

そんな僕を助けてくれたのが二つ上の女性の先輩だった。(ジゲキでは、各部署で初めてのチーフが誕生する時、必ずSS(スーパーサブの略称)と呼ばれる、複数回チーフを経験している人を側に付ける伝統があった。今回僕のSSを担当してくれた先輩は、入部以来、制作部署一筋の制作のスペシャリストだった(新人公演での役者を除く)。)
ふくよかで、何より優しい先輩なのもあって、見ているだけで謎の安心感がある。僕からすると本当に心強かった。

チーフの仕事には、制作の一スタッフの立場からは見えなかったものが沢山あって、戸惑ったり悩んだりもしたが、SSの先輩とともに一つずつこなしていった。
(目標観客動員数を定めて、そこから逆算して活動計画を決めたり、チラシの入稿、当パンの入稿、予算の作成、DMの発送等)
七人での制作をまとめるのも大変だったけど、みんな文句を言わずに付いてきてくれて、団結感も徐々に高まっていった。

そうして、いよいよこの公演も箱入りの時期を迎えた。



前述の通り、箱入り期間になると文字通りシアターに箱詰めになるため、最後の息抜きとして飲み会に行った。

地元の友達が誘ってくれた飲み会で、大阪で集合して、安い居酒屋にみんなで入った。気分は高揚していたが、その日も練習終わり。連日の疲れもあって、店選びから注文まで友達に任せきりにした。

一杯目のビールでもう酔い始める。
判断力が鈍って、僕はあるものを口にする。

それが”鳥刺し”である。

もうお察しかもしれないが、僕はこの鳥刺しによって食中毒になった。
カンピロバクターというやつである。

安い居酒屋で、衛生的にも危険極まりないが、何より連日の部活の疲れで僕の免疫力は下がり切っていた。
不意に現れた強敵カンピロバクターに、僕の内臓達は太刀打ちできなかった。

翌日からは悲惨だった。

まず、下痢が酷い。日頃からお腹を下すことはあったけど、大体いつもは普段よりだらしのない便を何度か出せば治る。でも今回はそうはいかず、五日以上下痢が続いた。
また発熱にも襲われた。とんでもない高熱で、四十度を超える熱が三日続いた。

症状が出て、これはまずいぞと直感で思った時、近くに住む姉に連絡をして家に来てもらった。タクシーを呼んで、なんとか病院に転がり込むと
「カンピロバクターですね。入院してもしなくても良いけど、どうする?」と先生に言われた。
精神的に弱っていたし、一人暮らしでこれ以上は耐えられないと思って入院をお願いすることにした。
(チーフが箱入り前に離脱するなんて、前代未聞のことではあったが、入院を要する程である事と、信頼できるSSが代役を務めてくれることが作用して、何とかお役御免となった。)

病院は王子公園にある古めの小さな所で、看護師さんや先生は歴の長い方ばかりだった。(患者も僕以外は人生の歴が長い人ばかりである。)
個室に案内され、菌の処理が大変だからとトイレは共同のものを使えなかった。そのため、部屋におまるのようなものが置かれて、そこで用を足した。
便の状態を見てもらう必要があるため、用を足すごとに看護師さんを呼ばなければならない。二十歳を目前にした僕としては、恥ずかしいやら申し訳ないやらで、毎度呼び出しボタンを押す前に逡巡した。

結果として五日間ほど入院した。家族や部員が見舞いに来てくれて有難かった。
窓からは、かの有名な王子動物園が見えて、嬉しそうに向かう人達を眺めながら健康というものはどれほど素晴らしいことかと思ったのを覚えている。

症状が落ち着いて退院が見えてきた頃、先生が「一応エコー検査でお腹を見てみましょうか」と言ってくれた。断る理由もないため、お願いしますと答えた。
何事もなく終わると思っていたけど、先生はお腹にエコーを当てながら「気になる所がありますね」と言った。
どうやらお腹のある部分に翳りがあるということだった。
不吉な予感がした。

見舞いに来てくれていた母だけが別室に呼ばれて、しばらくしてから僕も呼ばれた。
先生は、詳しいことはこの病院じゃ分からないから、もっと大きな病院で診てもらった方がいいと言って紹介状を書いてくれた。
驚いた。
聞こえた言葉の意味を頭で理解するのに時間がかかった。
現実味がない。悪い夢でも見ているのかと思った。



退院をして、すっかり痩せ細った体で千秋楽のジゲキの会場に足を運んだ。
みんなが優しく声をかけてくれたけど、頭の中は先生に言われたことでいっぱいだった。

「もっと大きな病院で診てもらった方がいい。」

挨拶を済ませて、すぐにその日は帰ることにした。

こうして、僕の初めての制作チーフとしての公演は、あれだけ苦労して行った活動の成果である”お客さん”を一度も見ることなく終わった。



母と一緒にひとまず実家に帰った。久しぶりの実家で、友人たちと再会したりもしたけど、心はここにあらずだった。

しばらくして、神戸に帰る。紹介してもらった神戸の大きな総合病院で検査を受けに一人で向かった。
前回の病院とは打って変わって、綺麗でとても大きく、紹介状がないと診察もできないような病院は、入った時に独特の重たい空気を感じた。

泌尿器科に案内されて、まずは採血と採尿をする。採血は問題なくできたが、採尿に手間どった。トイレに立っても、緊張と不安でおしっこが出ない。ほんの少量をなんとか捻り出して提出した。
その後はCT検査を受けた。造影剤なるものを注射で打ち込まれて、全身が熱くなるのを感じながら機械に寝そべって撮影した。

二時間ほど待って診察室に呼ばれる。
この待ち時間はとてつもなく長く感じた。早く結果を知りたいという気持ちと、何も聞きたくないという気持ちを行ったり来たりした。

四十代くらいの眼鏡をかけた賢そうな先生が担当してくれる。
座ってすぐに「検査の結果、左の腎臓に腫瘍があると思われます。」と言われた。

やっぱりかと思った。
前の病院で検査を勧められた後に、ある程度の覚悟は固めていたつもりだったけど、いざ宣告されると何も考えられなかった。
漠然とした絶望感が頭を支配した。

その後も先生の説明は続く。感情の動きに意識を向けないようにしながら、必要な情報だけ聞き取るように努めた。
約一ヶ月後に入院をして手術をするとのことだった。
(当時の僕からすれば一ヶ月も待つなんて信じられなかったが、この規模の総合病院で一月後に手術をするというのは相当な早さである。さらに言えば、担当してくれた先生は”ダヴィンチ”というロボットアームを使った手術の世界的な権威であり、一月後に執刀してもらえるのは異例のことだった。若いうちは細胞の新陳代謝が活発で、その分癌の進行も速い。転移や病状の悪化のリスクを踏まえてのこの対応の速さだった。)

病院を出て、母に電話で報告をしながら、少しずつ検査結果と向き合った。
(母と僕としては、その日は検査を受けるだけで、結果はまた後日知らされると思っていた。母は、この宣告を受けるタイミングにそばにいられなかったことを今でも後悔していると言う。)

簡単にまとめると
進行度合いとしては、4段階のステージ2。転移は認められないが、腫瘍の大きさは初期段階を既に超えている。
転移がないため、抗がん剤は使わずに手術によって腫瘍を摘出する。(ダヴィンチを使うことで傷口を最小限に留める。)
術後二週間〜三週間の入院が必要になる。
手術までの期間に投薬等はなく、普段通りの生活が送れる
というようなことだった。

腎臓は、肝臓と合わせて”沈黙の臓器”と呼ばれる。
この段階まで腫瘍が大きくなっていても、これといった症状が体に現れることはない。症状が現れて病院で検査を受ける頃には…という場合が多い。
食中毒で入院したことで、症状が現れる前に発見できたことは不幸中の幸いだったと言える。
が、今のこの状況を幸運などとは、到底思えなかった。



それからの一ヶ月は、なるべく普段通りに過ごした。いや、むしろ普段より遊ぶようにしていたかもしれない。

大学も夏休みに入っていて、夏の気候が好きな僕にとってはありがたかった。
ジゲキの合宿にも普通に参加したし(男女1組で行く肝試しの希望調査で、女子が選ぶ一緒に行きたい男子の部で一位になって嬉しかった。みんなで夜中まで飲んだり、海を眺めに行ったりする時間は本当に楽しかった。)、
”マサーソニック”と名前をつけて、地元の男友達を十人ぐらい呼んで、無人島のコテージに泊まりに行くイベントも主催した。お酒を飲んだ時に泣きそうになってしまって、テンションを維持するのが大変だった(家族以外にはほとんど誰にも病気のことは言っていない)。そんな僕を見て、まだ若かった双子の弟が「そんな顔してもしょうがないやん。折角来たんだから楽しまないと」と言ってきて、こいつは何も分かってないんだなと思ったりもした。

そんな風にして入院までの時間を過ごしたけど、ふとした時に、こうやって過ごせるのも最後かもしれないと思わずにはいられなかった。


そして、いよいよ入院の日を迎える。
意外なことに夕方から入院した。今は至って健康体だから、早く入院しても仕方がないらしい。部屋に案内されてすぐに、看護師さんに呼ばれて応接室に行く。明日の手術に向けて、今一度詳細な説明をされた。
全身麻酔をする時は必ず言われることらしいが、「万が一は死ぬ場合があります。今までの説明を受けて、了承頂けたらこの書類にサインして下さい」と言われて怖気付いた。が、他に選択の余地もなかった。
夜は絶食だった。ポカリのような下剤だけを飲んで、眠りにつく。
怖くて、心配でどうしようもなくて、誰かに聞いて欲しくなって電話をかけたりした。

手術当日。
体調が悪いわけじゃないから、看護師さんと一緒に自分のベッドを押して手術室まで向かう。両親と別れる時には、いよいよ始まる感じがした。
手術室に行くと、手の消毒をする若い先生や、テキパキと作業をする看護師さん達の姿が目に入った。お願いします。と小さく声をかける。
手術代には自分で登った。寝転がると、ドラマでよく見る大きなライトがこちらを向いていた。
点滴を繋がれて、指には心拍を測る装置がつけられ、呼吸器もあてがわれる。看護師さんの掛け声とともに麻酔が注入されていく。
こんなにサラッといくんだなんて思ってたら、もう意識を保てなくなった。



目が覚めると、一面が白い景色だった。
半分寝ているような朧げな意識の中で、色んな機械音と看護師さん同士の話し声が聞こえる。体の感覚から、いくつかの装置が自分に繋がれているのがわかる。どうやら手術は終わったらしい。
ICUと呼ばれる集中治療室に運ばれていた。
すぐに寝落ちして、半分起きて、また寝てを繰り返した。夢と現実の判別がつきにくい。
どれくらい寝ていたのかも分からなかったけど、何度目かの覚醒を迎えた時に看護師さんがパンと牛乳を運んできてくれて、どうやら今は朝らしいということだけが分かった。
話を聞くと、手術は無事に終わったらしい。この規模の手術になると、術後一日はICUに運ばれるとのこと。
食欲は大して湧かなかったけど、生還した安堵感からか、パンと牛乳はとても美味しかった。
ICUの看護師さんはみんな若くて、とても忙しそうだった。僕を担当してくれた看護師さんが、僕と同じ腕時計をしていて親近感が湧いたのを覚えている。

次の日から入院病棟に戻った。
後から分かったことだが、手術そのものよりも、術後の生活の方が遥かに苦痛だった。
お腹が全体的に痛い。腹筋の近くを切ったらしく、腹筋に少しでも力を入れようとすると激痛が走った。くしゃみなんてしようもんなら、耐えられないほど痛む。
性器からおしっこの管が出ていて気持ちが悪い。早く取って欲しいけど、自力でトイレに行けるようになるまでは取り外しできないらしい。
しばらくしてから、ベッドの上で起き上がる練習を始めた。どうしても腹筋に力を入れることになるため、痛みとの闘いだった。それでも、歩けるようになると回復も早いと言われたことと、自力でトイレができるようになりたいという思いが背中を押して、術後二日目には手すりを持ってゆっくりと歩けるようになった。
ようやく管が外れて、シャワーを浴びてもいいと言われたけど、腹筋が痛すぎて自分の体を洗えないし、タオルで拭けない。浴び始めてからそれに気づいたから、泣く泣く母に頼んで手伝ってもらった。あのなんとも言えない敗北感は一生忘れられないだろう。

それからは少しづつ回復していった。
いくつかの薬を飲まされるのはまだよかったが、毎晩される注射が苦痛だった。普段の注射は慣れたから問題ないけど、この夜の注射は特別に痛かった。

長かった二種間の入院生活も終わって、退院の日を迎えた。
執刀してくれた先生が正式に手術の成果を共有してくれる。手術は成功して、腫瘍を綺麗に取り除けたとのこと。今のところ身体に残存する癌は確認されず、今後は定期的に再発していないかの検査をするらしい。左の腎臓の約半分を切除したが、若いのもあって、右の腎臓と共に通常の機能を果たしてくれるようになるから、食事制限や生活で特別気をつける事は何もないとのことだった。

今後の来院日程も説明されて、母と姉と退院の手続きをする。
まだ全快には程遠いし、実際帰りの途中に傷口から出血したりもしたけど、車に乗って、助手席の背もたれを目一杯倒して実家に向かった。
フロントガラスから覗く青空が本当に綺麗に見えたのを覚えている。


しばらく実家で療養する。実家が温泉旅館であることに改めて感謝した。
でも、特にすることもなかったから、それなりに元気になるとすぐに神戸に帰った。

その頃神戸では、ジゲキの新人公演が箱入りの期間を迎えていた(丁度一年前に人生初の挫折を味わったあの新人公演である)。
シアターに久しぶりに足を運ぶと、みんなが笑顔で迎えてくれた。全員が僕とは違う形で疲れていそうだったけど、歓迎は言葉にならないほど嬉しかった。
シアターで久しぶりに練習風景を観る。シーンが始まると、みんな一気に真剣な顔つきになって、終わるとダメ出しが始まる。
ああ、帰ってこれたんだなと思った。

新人公演の本番日までは、無理をしすぎない範囲で練習を手伝った。
この段階での、初見の感想は案外役に立つ。役者の経験も踏まえて、実践的なダメ出しに努めた。



こうして、僕の癌との闘病はひとまず終わった。
とは言っても、癌は再発することがあるから、今も定期的に病院で検査を受けている。(この再発の可能性が、癌の一番厄介な所かもしれない。最初の二年は三ヶ月に一回、その後の三年は半年に一回、その後の五年は一年に一回、CT検査と採血・採尿をする。)
毎度のことながら、結果を聞くまでの時間は落ち着かない。「今回も変化はありません」と言われて、ふっと肩の力が抜ける。次の検査を受けるまでの間、日常を大切にして精一杯生きようと思って家路に着く。
ただ、いつの間にか採尿をすんなりできるようになっている自分に気づいて、ふと何かが変わってしまったようにも感じる。


この経験を振り返る度に思うことだが、今こうして生きていられることは奇跡としか言いようがない。
もしもあの日飲み会に誘われていなかったら、
もしも飲み会に行く選択をしていなかったら、
もしも誰かが鳥刺しを注文しなかったら、
もしも僕が鳥刺しを食べなかったら、
もしも入院することを選ばなかったら、
もしも先生がエコー検査をしてくれなかったら、
もしも手術がうまくいかなかったら、
僕はこうして生きてはいられなかっただろう。
神やら宗教やらを信じるつもりはないけど、超然的な何かに生かされたのかもしれないと思うことはある。

この経験は、僕の価値観を変えたと思う。
感謝はより伝えるようになったし、生きていることが当たり前ではないと思えるようになった。
誰かに言いたい言葉は伝えるようにしている。恐らく僕達に次回はないから。その一言が誰かの人生を変えることもあるかもしれないから。







「殺陣芝居に挑戦、骨折。」

季節がまた変わって秋が近づく頃、僕は一つ歳を重ねて二十歳になった。

体調も回復してきて、ジゲキの’秋冬公演’『おぼろ』に役者として参加することになった。
今回の台本は本格的な殺陣芝居。身体への負担は心配だったけど、新人公演を観たことで役者に挑戦したい気持ちが再燃していたから仕方がない。

腹筋関連だけは辞退させてもらったが、いつにも増してハードに行われる”肉発”にもできるだけ参加した。

それに加えて、今回は殺陣の稽古もある。剣を実際に身体に当てることなく、切ったり刺したりしているように見せるのは案外難しい。セリフや会話の練習と同じくらい、殺陣の練習を繰り返した。
意外に思われるかもしれないが、この殺陣芝居では切られる方の身体の動かし方が最も重要になる。大げさに言ってしまえば、素人が刀を振り下ろしたとしても、切られる方の演技が上手ければ切っているかのように見えたりする。

まず行ったのが切られることをリアルに想像すること。刀がどこから入ってきて、どんな風な軌道で体を傷つけるのか。痛みはどの程度で、どんな種類の痛みなのか。切られる時に身体はどんな風に動くのか。どんな風に抵抗しようとするのか。表情はどう動くのか。何を思うのか。
そんなことを共演者達と相談しながら、できるだけ正確に想像していく。この下地が半端だと、演技も半端で軽薄なものになる。演技とは言え、命をかけたやり取りであるため、この殺陣の練習はいつも以上に真剣に行われた。
実践練習の反復を積み重ねる。切る方と切られる方に別れて、相手の動きと合わせて身体を動かす練習を重ねる。スローで動いてみることも参考になった。
そして意外と重要になるのが、刀を振るときの掛け声だ。「うおー!!」とか「いやー!!」とか、バカみたいに聞こえるかもしれないが、この掛け声は演技の手助けになる。動きを揃えるきっかけになるし、背後から切られるシーンもあったりするから掛け声なしに演技できない場合もある。そして、この掛け声は演技にリアリティも与えてくれる。真剣の差し合いでは声を出すのが一般的だろうし、観客に気迫を伝える道具にもなる。応用編として声を出さずに、最小限の動きで切り捨てることで、場数を重ねてきた達人感を出すこともできる。

書き忘れていたが、今回の僕の役は”弥次郎”という悪役である。
脚本の舞台は江戸時代。義理と人情で生きる粋な、お江戸の人々が描かれる。
主役は”おぼろ小僧”と呼ばれる青年で、ノミと木槌を武器に戦い、悪党から巻き上げた小判を貧しい人々に振りまく。
そんなおぼろ小僧の宿敵となるのが”捨丸”(すてまる)という悪役である。弥次郎は”半田”と共に捨丸に酔心し、人殺しに放火、女を襲ってと悪事の限りを尽くす役どころだ。

初めての悪役への挑戦に不安はあったが、練習を重ねるごとに演じるのが楽しくなっていった。
練習として行ったのが、弥次郎の深堀りである。劇中のセリフはそんなに多くはなく、弥次郎という人物の詳細には不明な部分が多分にあった。
そこで、自分なりに弥次郎の半生を想像してみることにした。年齢は何歳なのか、どこで生まれたのか、家族はいるのか。悪事を働くようになったきっかけは何なのか、捨丸に心酔したのは何故か、どこに憧れたのか、野望は何か。
それらをつぶさに想像していった。この作業によって、弥次郎が行う悪事や、発するセリフの動機が想像しやすくなっていって、最後には人を切るのが楽しくて自然と笑顔で殺陣をするという所までいった。

この練習のおかげか、弥次郎に対する部内の評価は良かった。捨丸と半田との掛け合いも日毎に良くなっていって、この捨丸一派の演技は役者全体でも一番安心して観ていられると評された。
悪役が際立つと、演劇全体が締まって味わい深くなる。三回目の役者にして、公演に対する貢献度が上がってきているのを感じた。


そうして迎えた本番日。
お客さんの反応は上々だった。弥次郎は案外当たり役だったかもしれない。悪役がハマるとは自分でも驚きだった。

しかし本番二日目、四ステージ目の最中に悲劇が起こる。

普段通りに演技をして、弥次郎として人を切り捨てて下手側から走ってハケる時(次の出番までに舞台裏で早着替えをする必要がある場面)、急ぎすぎたせいか段差を飛び降りる着地で、足首をグネってしまった。より詳しく言えば、裸足で左足首を内側に曲げた状態で、コンクリートの床に勢いよく着地してしまった。
(元々僕の足首は半分壊れている。小学校のスキーの怪我で初めての松葉杖を経験して、そこからはバスケ部の活動で何度も酷い捻挫を繰り返した。中学校の卒業式も松葉杖で参加したし、高校卒業までに五回の松葉杖を要する捻挫(靭帯の損傷)を経験していた。この度重なる捻挫で僕の足首は緩んでしまっていて、少しのことで大怪我につながりやすい。大学で体育会のバスケ部に入部しなかったのも、怪我で多くの時間を棒に振るのが容易に想像できたからである。)

捻挫をして思ったのは「これはやばいかもしれない」ということと「何とか大事にならないでほしい」ということだった。
しかし時間が経つごとに痛みは酷くなって、腫れも大きくなっていく。
四ステージ目の残りは、アドレナリンが味方をしてくれて何とか最後まで演じ切ったが、終盤の大立ち回りでは既にまともに動けず、お客さんにバレないようにするので精一杯だった。

公演を終えて家路につく。既に痛みは尋常ではなかったが、大事にしたくなくて、大事であることを認めたくなくて、足を引きずって歩きで帰った。
一晩寝たら回復していることを祈って、眠りにつく。
しかし、翌日の朝、もう立つこともできなかった。
尋常じゃない程に腫れ上がっていて、患部を触ってもあまり感覚がない。このままシアターに向かっても仕方がないと判断をして、泣く泣く病院に向かう旨を演出に伝えた。

タクシーで病院に行くとあっさりと「骨折です」と告げられた。
藁にもすがる思いで「何とか痛み止めか何かで痛みをごまかせませんか?演劇の公演に立ちたいんです」と半分泣きながら伝えたが、先生は首を横にふるばかりだった。
ギブスをつけられて、何度目かも分からない松葉杖を手にする。そのままバスに乗ってシアターに行った。

シアターに着くと、僕の骨折に対する対応を演出陣が集まって話し合っていた。他のみんなは心配して声をかけてくれるが、愛想よく返す気力もなかった。
僕の状態を見ても演出は怒らなかった。現実的に出れそうかだけ聞かれて、松葉杖なしでは歩くことすらできませんと正直に答えた。
松葉杖でも何とか出られないかという会議が開かれたが、今回の脚本は殺陣芝居。会話劇ならまだしも、素早い動きなしで舞台に立つのは不可能だった。夕方には五ステージ目が控えている。公演の中止も含めて、あらゆる選択肢を踏まえて会議は続いた。
演出陣が出した結論は、僕の降板の発表と、代役は立てずに何とか辻褄を合わせて公演をやり切るということだった。
ここまで僅か三十分。残り時間とお客さんからの期待を踏まえての英断だった。
僕は泣きそうになってしまうため会議に参加できず、なんでこうなってしまうのだろうかと途方に暮れることしかできなかった。

弥次郎役の僕の降板の皺寄せは、当然捨丸と半田にいった。
大急ぎで今まで三人で行っていた殺陣を二人でできるように修正していく。セリフも、場面の説明として残さなければならないものを半田が違和感のないように発することになった。
兼役としての出番もいくつもあるため、その場面の修正も行われた。最も大変だったのが最後の見せ場である”大立ち回り”の修正だった。弥次郎は既におぼろ小僧に敗れているため、捕方の一人としての出演シーンだったが、このシーンでは十人を超える役者による殺陣が行われる。誰がどう動いてどうハケていくのかも細かく決められているため、この修正は難航した。

この修正作業を見るのは辛かった。全てを放り投げて逃げ出したかった。
それでも、役者の一人として、座組みの一員として、最後まで見届けなければならないと思った。



結果として、公演の完成度が少し下がったのは否めなかったが、それでも大きな違和感を与えることなく千秋楽まで走り切った。
僕はそれを客席の一番後ろで見届けて、悔しい気持ちと、ジゲキに対する誇らしさで胸がいっぱいになった。
周りの部員に対しては感謝することしかできなかった。

足首の腫れが酷いからお酒は飲めなかったが、打ち上げにも参加させてもらった。
役者としてようやく自分のスタイルを確立し始めた所だった。
言う資格が無いと思って言わないようにしていたけど、千秋楽を終えた今、演出がねぎらいにきてくれた時に「やっぱり最後まで舞台に立ち続けたかったです」という本音が涙とともに溢れた。


二十歳、冬。
ちっぽけな自分の無力さを痛感するばかりだった。


(余談ではあるが、翌年の成人式にも松葉杖で参加した。
二次会の同窓会では幹事をしたけど、革靴も履けないし格好つかなかった。)








「ジゲキの副部長に就任する」

年が明けて大学の冬休みも終わった頃、ジゲキの幹部が交代する時期になった。

来年度から三回生になる僕達の学年が新幹部になるわけだが、例年この幹部の役職の振り分けは揉めることになる。
と言うのも、入部から一年と八ヶ月ほどが経過して、幾つかの公演で幾つかの挫折と成功を経験している頃合いだから、ちょうど同期の関係がギスギスし始める時期でもあるからだ。

僕達の代(四十期)も揉める羽目になった。
役職を決める会議のはずが、「あんたに本当にこの仕事できるの?」から始まって、日頃思っていた不満をぶつけ合う場に変容していく。
突出したリーダーシップを持った部員がいれば話は変わるだろうが、同期に対する互いの意地も相まって、この役職決めは混迷の一途を辿った。
僕としては部長をやりたい気持ちもあったが、輝かしい功績を残しているわけでもないため同期の支持を得られなかった。

結果として、僕は副部長と新歓委員、部内行事の役を任されることになった。
(振り返ると副部長あたりが妥当だった気がする。先頭に立って走り続ける部長ではなく、部長を補佐して全部員とのバランスを取る副部長になる方が向いていたと思う。)

ジゲキでは部会が月に一度行われる。幹部が中心になって、部内のあれこれを全部員を集めて話し合う場である。
二〇十八年度の二月部会、用事で欠席した新部長の代わりに花束を先輩方に贈呈して、正式に僕達の代が新幹部となってジゲキを牽引していくことになった。



次なる公演、二つ上の先輩方の卒業公演『人魚伝説』では制作のSSを担当した。通常、SSは複数回のチーフ経験がないと任命できない決まりだったが、他に適任がいなかったのもあって、例外的に一回の経験しかない僕がその役割を果たすことになった。

この頃の僕は、制作の仕事に対して真摯に向き合えていなかったように思う。
役者としての活動に重きを置いていた故に、制作の仕事をおまけかのように捉えている節があった。副部長に就任したばかりなのも驕りを生む要因になっていた。
チーフの子が一生懸命やろうとしているのに、同じ熱量で並走できていなかった気がする。

ご多分に漏れず、若さ故のイタさがこの頃の僕にもあったように思う。









「春が来る」

割と重めな出来事ばかりが続いたが、ようやく僕にも春が来る。
そう、彼女ができたのだ。

大学で初めての彼女は、高校の同級生だった。
高校時代から可愛らしい子だと思っていたから、付き合えることになって嬉しかった。

でも、この頃の僕は若かった。
付き合ってすぐに、付き合えた事実に満足してしまって、会うのすら億劫になった。その子だから付き合いたいではなく、可愛いし、彼女が欲しいから付き合ってもらおう。くらいで告白をしてしまったのだ。
結果として一ヶ月もせずに別れた。
この子には本当に申し訳ないことをしたと思っている。でも、全然好きじゃなかったわけでもない。恋人になるというのがどういうことなのか、何も分かっていなかったんだ。



それから二ヶ月くらいが経って、今度はジゲキの先輩が気になるようになった。
前回の反省を踏まえて、自分の好きの気持ちにしっかりと向き合った結果、神戸の夜景が見える役場の展望台に行って告白をしようと計画を立てた。

二人で夜景を眺めながら取り留めのない話をする。でも、僕の胸中はいつ告白を切り出そうかということばかりで、話など頭に入ってこなかった。
いざ本当に好きな人に告白する時になって、なんて告白は勇気がいる行為なんだと思った。世のカップル達はみんなこの関門を越えてきたのかと思うと、急に世間の人達を尊敬する気にすらなった。

結局、踏ん切りがつかなくて告白できずに展望台から降りた。
二人で並んで駅に向かう時になってようやく「好きです。よかったら僕と付き合ってください」と告白をした。
タイミングとしては格好つかなかったけど、彼女も「うん。こちらこそよろしくお願いします。」と答えてくれた。
手を繋いで帰る帰り道が、本当に幸せに感じたのを覚えている。

二人で『君の名は。』を公開二日後に観に行った。
大きなハンバーガーを食べに行って、初々しい僕達は大きな口を開けるのが恥ずかしくて、フォークとナイフで小さく切って食べた。
植物園に遊びに行った。何もない所だったけど、二人で過ごせたらそれで幸せだった。
終電を逃して、人生初めてのラブホテルでの宿泊もした。朝帰りをして、少しだけ大人になった気がした。



それでも、僕達は四ヶ月間の交際で別れた。
付き合うにつれて、彼女の好意に対する僕の好意が釣り合っていないんじゃないかという気がしてきて、申し訳なく感じた僕は、その胸中を伝えて別れてもらうことにした。彼女からすれば、何の非もないのに別れを告げられるわけだから、彼女の心をいたずらに傷つけてしまう結果になった。

今回も、僕の好きという気持ちの変化によって別れてしまった。
好きということは一体どういうことなんだろうか。
こんなことなら、はじめから付き合わない方が彼女を傷つけることもなかったんじゃないだろうか。
僕はまだ、人と付き合えるほどに成熟できていないんじゃないだろうか。
もしまた誰かと付き合っても、本当にその人を大切にできるんだろうか。
そんな思いがぐるぐると回った。

こうして二度も相手を傷つけてしまった経験が頭にこびりついて離れないせいか、僕はあれからまだ一度も恋愛をしていない。








つづく…

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