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「外国人」として生きてわかること。「生きているうちには無理なことを、それでも始める」営みとして

こんなツイートが流れてきました。バズったツイートにはありがちですが、引用・リプライともに賛否両論、いろいろな意見が出ているようでした。

バズツイートに乗っかるのはどうかと思いつつも、いちおうこのツイートでいう「外国人」となった経験があり、いまもそれを続けている人間として何ごとかを言う資格はあるかと思い、今日のnoteはこれをテーマに書いてみることにしました。

では、始めていきます。

マジョリティとしての無自覚に気づくことができる

人生において一度は「外国人」を経験するメリットというのは、たしかにあると思います。

僕自身、中国に来て「外国人」として暮らしてみて、いろんなことを知りました。その中には、日本にずっといただけでは気づかなかったであろうことがたくさんありますが、その中でも「マジョリティとしての無自覚と残酷さ」ということが大きな要素としてあります。

日本にいたときに、自分がいかにマジョリティとして守られる立場にあったのか。そのバリアがなくなった途端に感じる心細さや、等身大の自分の頼りなさ。まるで赤ちゃんかのように扱われ、そのコミュニティでお荷物になってしまっていることの屈辱。それを克服しようと必死で戦おうとするも、どこかで「外国人だから」一線を引かれてしまう歯痒さ。

そんなものに悩む一方で、その国の人々から向けられる、さまざまな同化の圧力。それが「郷に入れば郷に従え」というように、最低限これには従おうね、という形で明文化されていればまだしも、そうですらないレベルでの暗黙知というものが、それぞれの社会には無数にあります。それを読み解くことからして、容易ではありません。

そして、そこにどうしても混ざれない、同意できない、帰依できない自分を表明すると、今度は人々からの「わがままを言うな」「どうしてこれだけのことができないのか」という、無自覚な同化の刃が飛んできます。そこには、軽薄に相手のアイデンティティの変更を迫るような残酷さが含まれています。

そして、ひょっとしたら日本にいた時は、そのような刃を自分も誰かに向けていたのかもしれない、ということに気づきます。マジョリティはマジョリティであるがゆえに、その外部にある文化や習慣との違いをなかなか自覚できません。そして、時にはその無自覚を持ったまま異文化と接してしまい、さまざまな軋轢を生んでしまうのです。

マジョリティの想像の外に身を置くこと、それにともなうマイノリティとしての苦しみを経験することで、そうしたマジョリティとしての傲慢に自覚的になり、違った文化背景や考え方を持つ他者の視点を理解しようと努められるようになったことは、僕の人生において大いに役立っています。

この一点だけをみても、「外国人」を経験してよかったな、と個人的には思います。

かといって、それは素晴らしい何かにはつながらないかも

いっぽうで、「全ての人が」これを経験すべきであるかということや、それが「多文化共生につながる」かどうかについては、落ち着いて考える必要があるのではないかとも思います。

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