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宗教的調和の道

意味連関構造について


言語の背後にあるもの


 私たちは,ある言語からある言語に翻訳する際,その二つが同じ意味であると錯覚しがちです。例えば,日本語と英語で考えてみましょう。「さようなら」=「Good-bye」ではありません。そもそも,「さようなら」は「左様ならば(if so)」に由来しています。なぜなら,本来「さようなら」は,以下の内容を省略した言葉だからです。

「あなたとは離れ難く,またいつお会いできるかわかりませんが,人生は出会いと別れを繰り返すものであれば(左様ならば),再び縁あって出会う時も来るでありましょう。その時までお元気で」

 相手に対する深い情,出会いと別れに対する神聖な態度,自他一体から来る離別の哀しみ。相手を想いながら別れることを「残心」と言いますが,この残心がわからなければ,「さようなら」の真意はわからないのです。
 私が申し上げたいのは,言葉は単なる記号の一種ではなく,その背後に非言語的世界観,言語化以前の意味連関構造が伏在しているのです。ですから,この意味連関構造を感じない限り,言葉の本来的意味はわかりません。

洞窟のたとえ


 ギリシャの哲学者プラトンは,主著「国家」の中で,哲学者の任務をこう説明しています。ある民族が洞窟の中に住んでいると仮定します。その民族は洞窟の外を知りませんので,洞窟の壁面に移る動物の影を動物そのものと勘違いしています。そこで,ある人物が洞窟の外に出て,光り輝く太陽の下,本物の動物を見,本物の世界を見ます。そして,彼は洞窟の中に戻り,外で見た光景を仲間に説明します。私はこの物語を読んだ時,“翻訳という行為”も同じではないかと考えました。
 例えば,古代ギリシャ語で書かれている原典聖書を日本語に訳すとしましょう。真の翻訳とは,辞典を使って文字を右から左に移すことではなく,本来的意味を伝えるものでなければなりません。そこでまず,古代ギリシャ語の意味連関構造の上に立ち,その世界観の中で聖書を理解しなければなりません。つまり,イエスや使徒と同じように終末論的体験を経て,言葉の意味(ロゴス)を体得しなければなりません。この行為が,洞窟の外に出る側面です。次に,体得した意味を正しい日本語に置換すべく,日本語の意味連関構造を通して言語化しなければなりません。日本語に該当する言葉がなければ,巧みな説明によって,多くの比喩を用いて,他者に伝達しなければなりません。この行為が,洞窟に戻る側面です。本来の翻訳及び聖書解釈とは,このような努力の結晶なのではないでしょうか。

具体例


 例えば,πιστις(ピスティス)という言葉について考えてみましょう。これは通常,「信仰」と訳される言葉です。しかし,ピスティスを日本語の「信仰」と同列に考えることはできません。なぜなら,ピスティスには,聖書特有の意味連関が伏在しているからです。パウロの言語世界において,πιστις(ピスティス)とευαγγελιον(ユーアンゲリオン)とπαρουσια(パルーシア)は密接に紐づいています。日本語に訳せば,信仰と福音(旧約の約束成就)と来臨(終末論的事態)は深い深い関係にあるのです。つまり,パウロが「信仰」と言う場合,彼の頭の中には,旧約的背景と終末的な実存体験が連想されているのです。このように,聖書のそれぞれの語が相互に連結された概念連合網を探り,そうした相互依存の関係から具体的な意味が出てくるのです。

宗教の共時的構造化


井筒俊彦の挑戦


 経典や思想の意味連関構造を探り,そこから真の意味を認識する方法を「意味論的研究」と呼びます。この方法を確立したのは,日本の哲学者・井筒俊彦でした。

彼はコーラン研究の大家であり,司馬遼太郎に「百人の天才が同時にすむ男」と絶賛された人物です。30以上の言語を完璧に習得した「語学の天才」であり,様々な宗教経典を原典から読解し,多くの素晴らしい業績を残しました(日本よりも海外で有名な方です。中東では「東洋人」という映画の主人公にもなっています)。
 彼は若い頃,父親の影響で禅の修行に励み,仏教的な悟りの体験をしています。キリスト教的教育を受けましたが,キリスト教には嫌悪感を覚えたそうです。彼自身は哲学に熱中。結果的にはイスラム教に興味を持ち,コーラン研究を専攻します。そこで確立した方法が,コーランの意味論的研究でした。そして,世界随一のコーラン研究家となり,中東の研究機関に招聘。そこで,宗教的調和を目指し,比較宗教学の研究に目覚めました。処女作は「イスラム教と道教の共通性」を指摘した論文です。
 彼の学問的業績は中東のみならず欧米でも有名になり,アジア人の代表としてエラノス会議に招待されます。ちなみに,エラノス会議とは,心理学者ユングから始まった知的運動の一種で,年一回,各宗教・各学問における賢人が集合し,それぞれの講演や意見交換を通して,宗教的調和を目指した国際会議です。井筒俊彦はエラノス会議にて,仏教・儒教・道教や日本文化など,アジアの思想を欧米人に講義しました(もちろん,すべて原典から読解した意味論的研究の成果です)。
 彼はエラノス会議での交流を通して,こういった志を抱くようになります。「イスラム教・仏教・儒教・道教・神道を統合した『東洋哲学』を完成してみたい」と。時代も場所も言語も違う様々な思想を,ある静的空間領域において意味論的に分析し,東洋哲学として全体的に捉えたい。実存的体験の場(深層心理学的レベル)において,東洋思想の根源が一つであることを立証したい。彼は,このような志を「共時的構造化」と呼びました。
 残念ながら,彼は志半ばで亡くなってしまいました。本来の計画では,「大乗起信論→唯識思想→華厳経→天台宗→イスラム教→プラトン哲学→老荘・儒教→真言密教」という順番で原典読解し,共時的構造化による東洋哲学完成を目指したのですが,最初の大乗起信論を執筆して亡くなってしまったのです。

聖書の意味論的研究


 しかし,井筒俊彦の志は,完全に潰えたのではありません。東洋哲学完成の計画は中途で挫折しましたが,様々な論文が残されております。彼が執筆した論文を精査した結果,事実上,イスラム教・仏教・儒教・道教の共時的構造化は完成したといっても過言ではありません。ただし,世界宗教の共時的構造化にとって,足りないものが一つあります。それはキリスト教です。
 もちろん,井筒俊彦は古代ギリシャ語も習得しており,聖書を原典で読んでいたそうです。しかし,高校時代に受けたキリスト教教育に対する不信のせいか,キリスト教的な思想や考えには触れようとしませんでした。
聖書の原典研究,意味論的研究を通して,共時的構造化を完成したい。これが,私の志です。歴史上のイエスではなく,「意味そのもの」であるロゴス・キリストから聖書の本質を把握し,井筒俊彦の東洋思想研究と接合して,“実存的体験の場”において宗教的統合の夢を叶えたい。諸宗教を心理的次元にて抽象化することにより,諸宗教の個性を生かしつつ,その根底に流れる実存体験によって構造化できるはずです。つまり,一神教的終末論と汎神論的悟りが同一の現象であることを,理論的に解明できるはずです。
 聖書の意味論的研究は,数年前から始めています。パウロ文書から始まり,ヨハネ文書を経て,マルコ伝・マタイ伝の研究を終了しました。来年はルカ文書,再来年はヘブライ書や黙示録に入る予定です。新約聖書の意味論研究が終われば,今度は旧約の研究にも入らねばなりません。まずは七十人訳旧約聖書(ギリシャ語訳聖書)を研究し,次にマソラ本文(ヘブライ語聖書)です。さてさて,いつ終わるのやら・・・。夢は遠し,人生は短し。日々,聖書研究に励むのみです。


関連書籍です。

「聖書研究」:聖書の意味論的研究についての記述あり

「統合的存在論」:宗教的統合についての記述あり


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